颯谷と木蓮
国防軍主催のセミナーが終わった、その週末。土日を使って颯谷は学校に提出するレポートを仕上げた。セミナーで休んだ分を公欠にしてもらうためだ。
レポート自体はセミナー期間中の夜の時間を使って少しずつやっていた。ただセミナーが初めてならレポートも初めて。何をどこまで書けばよいのか分からず、結局やったことをほぼ全部詰め込むような内容になった。
そのおかげで良い復習になったとは思う。ただその分だけ時間もかかり、颯谷の休日はレポート作成で終わってしまった。
「そんなに急がなくても良かったのに」
挙句、月曜日にレポートを提出したら言われたセリフがこれである。颯谷が「うそぉ!?」と叫んでしまったのも無理はないだろう。とはいえこの後、レポートを早めに終わらせておいて良かったと思うことになる。
「颯谷さん。こちらが先週進んだ分の授業内容です」
そう言って木蓮が差し出した紙の束に、颯谷はほほを引きつらせた。分厚い。第一感想はまずそれだ。とはいえ受け取らないわけにもいかない。彼は「ありがとう」と礼を言いながら、ずっしりと重いソレを受け取った。
「お、ラブレターか?」
「そうだったらどんなに良いか……。いや、そうだとしても重いけど」
木蓮が自分の教室へ戻った後、そう茶化すクラスメイトに、颯谷はやや力なくそう答える。実際、これがラブレターだったら二重の意味で重い。そこは喜ぶべきなのか否か。まあどうせ仮定の話だと思い、颯谷は深く考えないようにした。
「でも実際、駿河さん頑張ってたぞ」
「そうそう。わざわざウチのクラスの進み具合を聞きに来てたからな。それに合わせて作ったんだろうな」
そう言われるとありがたさを感じてしまうのだから、颯谷も現金というか単純というか。とはいえ木蓮お手製のこの資料が彼に必要であることは間違いない。この日からまた受験前のような勉強漬けの日々が始まった。
「……木蓮は、部活、出なくていいの?」
「お邪魔でしたか?」
「いや、ありがたいけど」
放課後、図書室で勉強しながら、颯谷は隣に座る木蓮にそう尋ねた。正直、こうして彼女がいろいろと教えてくれるのはありがたい。ただ同時に心苦しくもある。「部活が楽しい」という話を前にしていたし、自分のやりたいことを優先してほしかった。ただ当の本人は朗らかにこう答える。
「大丈夫ですよ。もともと毎日行っていたわけではありませんから」
「そうなの?」
「はい。オンラインですが、家庭教師をつけてもらったりもしているので」
木蓮は木蓮でやることが結構多いのだという。ちなみにだが、そうやってしっかりと勉強しているので、彼女の学力はかなり高い。そして彼女が作成したお手製の資料も、実のところ学校の授業よりもハイレベルな内容になっているのだった。
「あ、そこ、間違ってますね」
「あれ、えっと……」
「ヒントはですね……」
教師役の木蓮はにこやかだが厳しい。直接の答えを教えてくれることはほとんどなく、自分で考えられるようにヒントを小出しにする。それでいて出来の悪い生徒に匙を投げない我慢強さと懐の深さがある。つまり颯谷は逃げられない。こうして頭の方もビシバシと鍛えられていくのだった。
さて、そうこうしているうちに六月になった。その第一週の火曜日の朝。颯谷は朝食を作り、それから昼食用のおにぎりを握っていた。その際にテレビをつけていたのだが、そのテレビに突然、速報が流れた。
『今、速報が入りました。長野県南部で異界が顕現した模様です。異界のフィールドの色はまだ情報が入っていません。繰り返します。……』
颯谷は手を止め、厳しい顔をしてテレビを睨んだ。長野県南部というと、東北地方からは遠い。おそらく彼に赤紙が来ることはないだろう。ただ静岡県には近い。そして静岡県には木蓮の実家である駿河家がある。
「タケさん……」
颯谷は小さくそう呟いた。剛に赤紙が来るかは分からない。だが武門としての駿河家は、今回の異界顕現災害と無関係ではいられないだろう。つまり木蓮の親族が征伐隊に入る可能性は高い。
『新しい情報が入りました。異界の色は群青色、群青色です。内部に幾人か取り残されたようです。繰り返します。……』
テレビに映るニュースキャスターが新しい情報を伝える。異界の色は群青色。つまり内部に人が一人以上いるということだ。もしその中に氣功能力者がいるなら、征伐隊編成のために赤紙が配られることはないかもしれない。
「頑張れ、生き残れよ……」
顔も知らない誰かを、颯谷はそう応援した。自分と重ねてしまっていることは否定しない。だからこそ応援しかできない自分が歯がゆかった。ただ同時に、この異界が東北地方に顕現しなかったことにホッとしている自分もいる。
それを「あさましい」と恥じるべきなのだろうか。特権と巨額の報奨金を得ているのに。だが異界の厳しさを誰よりも知っている身としては、「そんなに簡単に言わないでくれ」と叫びたくもなってしまうのだ。
「……いや、オレより木蓮か」
颯谷は小さく首を振ってから、そう呟いた。今回の件で彼より動揺しているのはたぶん木蓮だろう。何しろ親族に赤紙が来る可能性が高いのだから。颯谷はスマホを取り出し、彼女にメッセージを送った。
[ニュース見た。大丈夫?]
[ありがとうございます。大丈夫ですよ。慣れてますから]
すぐに来たその返信を見て、颯谷は顔を険しくした。木蓮がこういうことに慣れているというのは本当だろう。だが慣れているからと言って何も感じないわけではないだろう。ちょうどその時、朝仕事を終えた玄道が戻ってきたので、異界が顕現したことも含めて事情を説明する。すると彼はこう言った。
「早めに学校に行って、ちょっと木蓮ちゃんと話してみたらいいじゃねぇのか?」
颯谷も真剣な顔で頷いたが、ここである問題が立ちふさがる。それは田舎の電車事情。つまり早めに行こうと思っても適当な時間の電車がないのだ。そこで玄道が車で学校まで送ってくれることになった。
まだ人気の少ない朝の学校。いつもと少し雰囲気の違う廊下を、颯谷は足早に歩く。そして自分のクラスへ行く前に、彼は木蓮のクラスを覗いてみた。早く行くことは伝えていないので、彼女がまだ来ていなくてもおかしくはない。だが彼には予感があった。
「木蓮」
「颯谷、さん……?」
教室の中、颯谷が一人で佇む木蓮に声をかけると、彼女は少し驚いた様子だった。それから彼女は笑みを浮かべてこう尋ねた。
「早いですね。どうしたんですか?」
「いや、その、木蓮が大丈夫かと思って……」
「はい。わたしは大丈夫ですよ」
「……じゃあ、なんで今日だけこんなに早く?」
「…………」
木蓮は無言でうつむいた。前髪が彼女の表情を隠す。そんな彼女に颯谷はさらにこう言った。
「慣れてるからって、怖くなかったり、不安にならなかったりするわけじゃないと思う」
「……本当に、そう思いますか?」
颯谷のブレザーの裾をつまみながら、木蓮はそう問いかける。颯谷が「うん」と答えると、木蓮は彼の肩に額を押し付けてさらにこう言った。
「今回、叔父様に赤紙は来ないと思います。でもお兄様には、来るかもしれません」
「うん」
「その場合、叔父様は志願しません。当主と次期当主が一緒に死んでしまったら、駿河家は大変なことになるからです」
「うん」
「……お父様の時も、そうでした」
木蓮の身体が小さく震える。颯谷は少し躊躇ってから、彼女の頭に軽く手を添えた。その手を振り払おうとはせず、むしろいっそう強く額を彼の肩に押し付けて、木蓮はさらにこう続ける。
「……わたしも朝、ニュースで異界のことを知りました。メッセージ、ありがとうございました。嬉しかったです」
「うん」
「わたしは大丈夫です。大丈夫、なんです。今日早く来たのは、来たのは……、だって、一人じゃ……」
「うん。不安だし、心配だもんな」
颯谷がそう言うと、木蓮は彼にすがるように身体を寄せた。そして涙声になりながらこう語る。
「会えたら、いいな、って思ったんです。今日、早く、来てくれないかなって……」
「うん」
「本当に来てくれるなんて、思ってなくて。だってそんなこと、メッセージでも何も言わなかったし……」
「うん。でも早く来て良かった」
「はい」
とうとう木蓮は颯谷に抱き着いた。颯谷もあいていたもう片腕を彼女の背中に回す。抱きしめた彼女の身体が、思っていたよりもずっと細いことに彼はこのとき気が付いた。
やがて落ち着いたのか、木蓮は颯谷から身体を離した。颯谷を見上げる木蓮は少し気恥ずかしそうにしていたが、すっきりとした顔をしている。そんな彼女に颯谷はこう声をかける。
「本当に、武門の人は大変だな」
「まあ、そうですね。大変だと思います。異界が現れるのはいつも突然ですから。あ、でも本当に慣れてるんですからね、わたし達は」
「はいはい」
「むぅ、なんだかあしらわれている気がします」
「気のせい、気のせい。……それよりさ、ちょっと思ったんだけど、仮にオレが今回志願したら……」
「ダメです」
颯谷が言い終わる前に、木蓮が珍しく真剣な声で彼をとがめる。息をのむ颯谷に彼女はさらにこう言った。
「その先は、言ってはダメです。異界征伐は命懸けなんです。誰かを理由にするのは、その誰かに命を預けるのと同じです。軽い気持ちでそんなことをしてはいけないし、そんなことをさせてもいけないのです」
「……分かった。もう、言わない」
颯谷がそう言うと、木蓮は少し悲しげに微笑んだ。本心を言えないこともある。そういう優しさもある。彼はそれを学んだのだった。
長野県南部に異界が顕現してから五日後、群青色だった異界は漆黒に染まった。氾濫が起こったが、国防軍の部隊の配置は完了していたので被害は最小限に抑えられた。
それと前後して、特別召集令状が発送された。駿河家とその一門の幾人かにも赤紙が届き、その中には木蓮の兄、駿河正之もいた。
駿河家と一門の中で赤紙が来たのは12人。さらに7人が志願し、全19人が駿河一門として征伐隊に加わることになった。その中に当主剛の名前はない。木蓮が予想した通りだった。
そして最初のスタンピードからおよそ二十日後。まるで雪が降り積もったかのように真っ白になった異界へ、征伐隊全176名が突入した。
玄道「若ぇってのは、いいなぁ」




