高校入学3
助け合うことができることを示すための最低限の能力が、およそ60キロの荷物を抱えて走ることができること。木蓮の父は幼い彼女にそう言ったという。剛も颯谷に似たようなことを話していたので、少なくとも駿河家ではそれが一つのハードルになっているのだろう。
さて、その基準となっているのが、国防軍が征伐隊の隊員向けに用意している背嚢。コレの重さがだいたい20~25キロ。個人で持ち込む道具類も入れて30キロという計算だ。そしてこれを二つ担いで走ることのできる能力というのが、征伐隊の隊員として助け合うことができることを示す最低限の能力、というわけだ。
(オレは、どうかな……?)
颯谷は頭の中でそう呟いた。30キロの米袋なら、彼も持ったことがある。かなり重かったという印象だ。その時の印象で言えば、持って歩くだけならともかく、走るとなると無理だろう。倍の60キロだと、持ち上げる事すらできない。
ただこれは氣功能力を使わない場合の話。氣功能力を使えば、60キロでも担いで歩くことはたぶんできる。全力で氣功能力を使えば、走ることも可能だろう。それで、彼には征伐隊の隊員としての能力があることになる。
とはいえ注意しておかなければならないのは、颯谷が国内で、いや恐らくは世界でもトップクラスの氣の量を誇っているということ。彼の場合、その氣の量に物言わせてハードルをクリアしているわけだ。彼の場合はそれでいい。能力はどう身につけたかではなく、発揮できるかどうかが重要だからだ。
だが同時に覚えておくべきことがある。颯谷の例は例外中の例外。なぜなら征伐隊に初めて参加する新人は、氣功能力者として未覚醒か、覚醒していても氣の量が初期値であることがほとんどだからだ。
考えてみれば当たり前の話だ。氣功能力者として覚醒するためには、仙果を食べるか怪異を倒す必要がある。つまり異界の中に入る必要がある。氣の量を増やすことについても同様だ。
要するに新人たちは氣功能力をほとんど使えない。その状態で、つまり筋力だけで「60キロの荷物を担いで走る」というハードルを越えなければならないわけだ。こうして考えてみると、この基準が結構厳しいことが分かる。
当然ながら、幼い木蓮にクリアできる基準ではない。彼女自身、そのことを認めた。だがその時のことを話す彼女の口調には自嘲じみたものが滲む。
「……父にそう言われて、わたしは諦めました。自分には到底無理だと思ったんです。今にして思えば、何というか、本当に失礼な話です。わたしは挑戦することも努力することもしなかったんですから」
父も叔父の剛も、この件で木蓮に何か言ったりとかそういうことはなかった。というよりこの二人は幼い木蓮を諦めさせる方便としてこの話をした節がある。彼女自身、ある程度の年齢になればそのことを察した。だがそれで彼女の悔いが消えることはなかった。
実際問題として、努力すれば木蓮は60キロのハードルをクリアできただろうか。不可能、と言い切ることはできない。女性であってもそれくらいの能力を持つ人はいるだろう。だが木蓮の細い身体や腕を見ると、彼女にはどうも難しいように思える。だが彼女が後悔しているのは、たぶんそういうことだけではない。
「わたしは武門の娘です。征伐隊に入る人を身近に見てきました。特にお兄様は駿河家の跡取りとして、その道に進むことが生まれたときからほぼ決まっていました。それなのにわたしは軽い気持ちで『征伐隊に入りたい』なんて言って、ハードルが思ったよりも高かったら努力も挑戦もしないで諦めたんです」
「それは……」
仕方がない、と言おうとして颯谷は口をつぐんだ。木蓮がそんな慰めを欲しがっているわけではないことは、彼にも分かったからだ。
木蓮はさっき「失礼な話」という言い方をした。失礼というのは、身近に見てきた征伐隊に入る人たちに対してのことだろう。その筆頭はたぶん木蓮の兄で、言ってみればその“犠牲”の上で安穏としているのに、彼女は兄の努力や覚悟を侮辱してしまったように感じたのではないだろうか。
「……だから、家のために何かしたかった?」
「それも、あります。でも、それだけじゃないんです」
武門・駿河家としては、単独での異界征伐という空前絶後の成果を叩きだした新たな特権持ち、桐島颯谷と縁を結ぶメリットは大きい。だから木蓮が実家を離れて一人暮らしすることも認めた。さらに言えば、若い男女が距離を縮めるのだから、そういう関係になることも黙認していると言っていい。そして木蓮自身も駿河家のそういう思惑を否定しない。
ただ本当に家のことだけを考えるなら、桐島颯谷という人選は現時点ではまだ青田買いの意味合いが強い。それに彼の場合は縁を結ぶとしてそれはあくまでも個人。彼を通じてどこかの組織と連携できるわけではない。特権持ちを引き込めれば確かに大きいが、だとしても木蓮の行動は大胆すぎる。だから彼女の胸の内にあるのは決して家の事情だけではないのだ。
「わたしは征伐隊に入ることを諦めました。だからわたしは、せめて支える側になろうと思ったんです」
「それは別に、家にいてもできたんじゃないの?」
「そうですね。できたと思います。というか、最初はそのつもりでした。でも仕方がないじゃないですか。出会ってしまったんですから」
運命というと大げさかもしれない。だがそれくらい劇的だったと木蓮は思っている。彼女の運命を変える出会いは、一つのニュースから始まった。
東北地方に異界が顕現し、自分と同い年の男子がその中に取り残されたという。最初にそのニュースに接したとき、言っては悪いが木蓮にとっては他人事だった。かわいそうではあるがすぐに死ぬだろう。征伐隊が編成されるだろうが、東北地方だし駿河家が直接かかわることはないはず。そんなふうにしか思っていなかった。
異界の顕現から半年が過ぎたころにはニュースで見ることはほぼなくなり、木蓮がこの件を意識することもなくなった。だがさらに半年後、衝撃的なニュースが全国を、特に武門や流門の界隈を駆け巡った。異界に閉じ込められていた少年が、たった一人で征伐を成し遂げたというのだ。
まさに前代未聞、空前絶後。いろいろな話が飛び交い、情報は錯そうした。いや情報というよりは噂話と言うべきか。ともかく確かめようのない話があちらこちらでささやかれた。木蓮の耳にもそういう噂は入り、いやむしろ彼女は積極的に集めた。
『どんな子なんだろう……』
木蓮は想像を膨らませた。顔も名前も知らない同い年の少年に彼女は夢中だった。ただこの時点でいえば、それは小説の主人公に向けるような感情。はるか遠い場所の話で、自分が直接関わることになるとは、この時の彼女は思ってもみなかった。
そんな彼が一気に身近な存在となったそのきっかけは、一通の手紙だった。なんと件の少年から叔父が所有する会社へ手紙が来たのだ。聞けば少年と叔父には面識があるのだという。それを聞いて木蓮は叔父の剛にこうねだった。
『わたしも会ってみたいです。会わせてください!』
そんな木蓮の希望もあり、彼女は出迎え役を任された。もちろんこれは剛が姪っ子可愛さにわがままをかなえてあげた、という単純な話ではない。直系の娘がわざわざ出迎えることで少年が駿河家にとって重要な客人であることを喧伝し、さらに同い年だから将来的な婚姻も視野に入れていることも内外に示す。そういう目的があった。
そういう駿河家の思惑を、当然ながら木蓮も理解していた。というか剛や母の薫子から直接説明された。そのうえで木蓮は出迎え役を引き受けた。それくらい彼女は桐島颯谷という少年に興味があったのだ。
はたして、駅に現れた桐島颯谷は特別なところのない、いたって普通の少年に見えた。木蓮に対応する様子からは、緊張や困惑がうかがえる。車の中で少し話ができたが、彼は進学や勉強のことで悩んでいて、それがあまりにもリアルというか等身大に思えて、木蓮は内心少しおかしかった。
『良ければ、連絡先を交換しませんか?』
そう提案しようというのは、彼と会う前から決めていた。たった一回顔を合わせて、少し話をして、それだけで終わらせるつもりなんてなかった。もちろん駿河家として彼とのつながりは保ち続けるだろう。だが木蓮はもっと個人的に付き合っていきたいと、そう思っていたのだ。
表向きの理由としては、同い年の自分が窓口になってやり取りをしたほうが、颯谷に妙なプレッシャーを与えずに済むから、と言ったところだろうか。木蓮が友人の立ち位置を確保することで、駿河家は他よりも一歩リードすることができる。
だが木蓮は駿河家のためだけに動いているわけではない。木蓮は颯谷に会って思ったのだ。彼は誰よりも助けを必要としている。それなら自分こそが彼の助けになりたい、と。それが征伐隊を諦めた彼女が、次に見出した自分の道だった。
「一般家庭の出身で、それなのに一人で異界を征伐して、しかも同い年。それでさらに颯谷さんのほうから連絡が来たんですから、これはもう運命と言っていいと思います」
木蓮はやや興奮気味にそう話した。たった一人で異界征伐を成し遂げた颯谷を、この業界は決して放ってはおかない。剛も言っていたが、報奨金を受け取ろうが受け取るまいが、また特権を得ようが得まいが、彼の周囲には人々が群がることになる。
その中には良からぬことを考える者もいるだろう。そんななかで名門駿河家の娘が、特権持ちである剛の姪が彼の傍にいるというのは、一種の重しになる。
また一般家庭出身の颯谷は武門や流門の常識やしきたり、異界征伐に関わるアレコレには疎い。一方で彼女はそういうものを身近に見てきた。彼女の持つ知識や経験、伝手は颯谷の助けになるだろう。
もちろん、今の木蓮の立ち位置にいるのは別に彼女でなくとも構わない。むしろ彼女ではまだまだ力不足だろう。だが彼女は自分のこの立ち位置を誰かに譲る気はなかった。だからこそ大胆にも一人暮らしをして同じ高校に通うことにしたのだ。
「わたしは、わたしの運命を逃したくありません。だから、ここへ来たんです」
「運命って、大げさだよ」
颯谷は苦笑してそう答えた。異界征伐以後は、劇的なことは何一つしていない。少なくとも彼はそう思っている。それなのになんだか木蓮の人生を変えてしまったような気がして、なんだか申し訳ないような、そしていろいろと重いような気がしてしまう。
「一つ聞きたいんだけど、木蓮はオレに異界征伐させたいの? その、自分の代わりに」
「そんなつもりは……、いえ、ちょっとは、ありますけど……」
木蓮は悩ましげな顔をしてそれを認めた。もともと彼女は征伐隊入りを志望していて、それを諦めたので支える側へ進もうと思ったのだ。その経緯を考えれば、「支えた誰かが自分の代わりに……」と思うのはむしろ自然な流れだろう。
「ダメ、でしょうか……? そういうのは……」
「いや、別にダメとは思わないけど」
颯谷は少し困った調子でそう答えた。そもそも颯谷は異界征伐を続けていく意思がある。木蓮に言われたからその道を選んだわけではない。だが自分以外の想いや思惑をそこに上乗せされてしまうと、抱えきれないと感じてしまう。
「オレもさ、自分のことでいっぱいいっぱいなんだよ、結構」
「はい」
「だから何て言えばいいかなぁ……」
そう呟いて颯谷は少し考え込む。そしてややあってから口を開いてこう言った。
「木蓮に支えてもらったとしても、期待に応えられるかもわかんないし、何かを返せるかもわかんないし……」
「わたしは、わたしのやりたいことをやっていますよ」
「……でも、やってもらうばかりなのもなんか違うと思う」
「お返しとか、見返りとか、そういうことのためにわたしはここにいるんじゃないんです。もちろんわたしは駿河家の娘で、そこはずっとそのままで、それはわたしという人間の前提なんです。そのうえでわたしはわたしの道を選ぶんです」
木蓮は啖呵をきるようにそう言った。それから不安げにこう尋ねる。
「……わたしがここにいるのは、迷惑ですか?」
「そんなことはないよ。勉強会に付き合ってもらったりとか、すごい助かってる。ただ……」
「ただ?」
「……オレのせいで、わざわざ大変な道を選んだり、してない?」
颯谷がそう尋ねると、木蓮は一瞬きょとんとした顔をして、それからこみ上げてくるように笑みを浮かべた。そしてこう答える。
「今のところ、大変だとは思っていません。これから大変になるのかもしれないですけど、きっとやりがいがあると思います」
「オレは、甘えたくないんだ。木蓮のやりがいに付けこんでいるような気がして」
「わたしは征伐隊に入れないんです。でも颯谷さんは入れる。だからわたしは颯谷さんが苦手なところを支えます。そうやって二人で異界征伐をするんです。それじゃあ、ダメ、ですか?」
「……二人で、か」
そう呟いて、颯谷は小さく笑った。直接的に異界征伐するためには征伐隊に入る必要がある。ただ当たり前のことだが、生活のすべての面は何かしらの面でソレと関わっている。だが二人が同じ目標を持っているのなら、それは二人の成果だと言えるかもしれない。そんなふうに考えると彼は腑に落ちた気がした。
「はい。……と言っても、今はまだ、わたしの方がだいぶ力不足ですけど」
「えっと、頑張れ、でいいの……?」
「はい、頑張りますよ。恋する乙女は好きな人のためならいくらでも頑張れるものなのです」
「え……」
「………………………………あ」
作者「さて、あとはお二人で……」




