中学三年生2
「学校の方は、もう慣れましたか?」
「慣れたっていうか、落ち着いたかな」
木蓮からのスマホ越しの問いかけに、颯谷は小さく苦笑しながらそう答えた。今は二人でオンライン勉強会をやっているのだ。一年異界に閉じ込められていたせいで、今の彼は勉強がだいぶ遅れ気味。学校でも必死に勉強しているが、それで追いつけるような分量ではなく、こうして家でも自主学習をしている。
一人だとなんだかんだ言ってサボってしまいがちだが、こうして木蓮が一緒だと彼女が真面目なことも相まって勉強がはかどる。途中のちょっとした雑談も含めて、彼女がこうして付き合ってくれるのは颯谷にはありがたかった。
「もう死んだもんだと思われていたみたいだから、最初はみんなちょっとぎこちなかったけど。最近ようやく前みたいな感じが戻ってきたかな」
「それは良かったですね」
「まあ気は使わなくて良くなったよ」
もっとも気を使わないということは遠慮がないということ。最近では結構ズケズケといじられている。
「ラーメン奢って、とかしょっちゅうだよ」
「まあ、どうされているんですか?」
「報奨金は全部国債に突っ込んだから金はない、って答えてる」
颯谷がドヤ顔でそう答えると、木蓮はおかしそうにクスクスと笑った。クラスメイトも毎回ケタケタと笑っているから、もうすでに鉄板ネタと化している。ちなみにこの手を教えてくれたのは彼女の叔父の剛。「銀行口座に入れておくだけだと余計な連中が寄ってくるからな」と言っていた。
ただ「報奨金を全部国債に突っ込んだ」というのは本当だが、「金はない」というのは少し違う。見舞金の372万円はいつでも使える状態になっている。報奨金の350億円と比べるとはした金だが、中学生にとっては間違いなく大金。ラーメン奢るくらいはどうってこはないのだが、キリがなさそうなので財布の紐は固くしてある。
まあそれはそれとして。肝心の勉強もしっかりとやっている。同じ問題集を使っているわけではないし、隣に座っているわけでもないので詳しく教えてもらうにはちょっと限界がある。ただそれでもアドバイスはもらえるし、どうしても分からない場合には問題を写真にとってそれを送ることで対応していた。
「毎回思うんだけど、『作者の考え』って、そんなの分かるわけないじゃん。だいたいこの作者ってもう死んでるんだから、正解かどうかは確かめようがないと思うんだけど」
「颯谷さん。『作者の意図』って、つまり『出題者の意図』ってことですよ」
「……え、そうなの?」
「はい。でも出題者だって問題として成立させるためには根拠が必要ですから。そういう視点で問題を見れば、ちゃんとヒントがちりばめられていますよ。言い方を変えれば、文章を読んで作者の考えを合理的に推察するっていう、そういう問題なんです」
木蓮がそう話すのを聞き、颯谷は目から鱗が落ちる思いだった。それを前提にして文章や問題を眺めてみると、なるほど確かにヒントがそこかしこにある、ように思える。颯谷は国語という科目の問題の解き方が少しわかったような気がした。
「でもそれならそれでもっと早く教えてほしかった……!」
「ごめんなさい。気が付かなくて……」
「ああ、いや、木蓮に言ってるわけじゃなくて! そう学校の先生がね、意地悪だって話!」
「はい。言ってみただけです」
てへっと悪戯っぽく笑い、木蓮はそう言った。その声と仕草に颯谷は思わずドキッとする。それを悟られたくなくて、彼は視線を問題集の方へ移した。
「……そういえば、颯谷さんって志望校はもう決めたんですか?」
「近場の公立にするつもりだけど……。なんかあんの?」
「いえ、高校の三年間で一回や二回は赤紙が来ると思うんです。征伐隊に志願することもあるでしょうし、そういう場合には当然、学校はお休みすることになります。それがただの欠席になるのか、それとも公欠扱いにしてもらえるのか、結構大事じゃありませんか?」
「確かに……」
剛から聞いた話によると、異界征伐に成功した場合、要する平均的な日数はだいたい一か月弱だという。ただしこれは平均値であり、中央値だと二週間強になる。つまり「順調にいく場合が多数だが、大きくつまずく場合もある」ということだ。
問題は大きくつまずいてしまった場合。公欠扱いにしてもらえないと、出席日数が足りなくて留年してしまうかもしれない。場合によっては留年し続けて卒業できないなんてことも……。颯谷は「うげ」という顔をした。
「赤紙が来るってことは国からの呼び出しだし、公立のほうが公欠扱いにしてもらいやすいかな……? いや、お役所仕事だからかえってダメか? 個人的な事情を聞いてくれるのは私立?」
う~ん、と颯谷は唸った。実際のところどうなのかは、たぶん剛に聞いても分からない。中学生が報奨金を受け取り、あまつさえ特権持ちになった例などこれまでにないからだ。結局、この場で考えても分からないことなので、後日学校の先生に聞いてみることになった。先生も分からないだろうが、どこかへ問い合わせるなどの対応はしてくれるだろう。
木蓮との勉強会を終えると、颯谷は風呂に入った。暖かいお湯に身体を沈めると、自然と声が漏れる。なんてことのないただの入浴だが、異界の中ではお湯を沸かすことすらできなかった。こうして身体を温めていると、いつも彼は自分がとんでもない贅沢をしている気分になってくる。
(どうせ異界征伐に行くなら……)
どうせなら温泉の湧いている場所がいい。颯谷はそんなふうに思う。そうすれば少なくとも入浴はし放題だ。問題は外が寒いと出る気がなくなることか。異界征伐は滞るかもしれない。そんなバカな妄想をしながら、颯谷は身体を洗った。
風呂から上がり、玄道とテレビを見たりして少しゆっくりしてから、颯谷は自分の部屋に戻る。そして寝る前にストレッチをした。身体が柔らかいとケガをしにくくなる。それは道場で稽古をする場合や異界で戦うときの基礎となるだろう。
(異界の中にしろ外にしろ、身体が硬くてケガしたら馬鹿らしいもんな)
そう思いながら、颯谷は念入りにストレッチを行った。それから布団を敷いて就寝。季節的に朝晩は結構涼しくなってきた。布団はやや厚め。異界の中と比べればまさに天国。意識は徐々に遠のき、彼は夢の中に旅立つのだった。
翌日、颯谷は五時過ぎに目を覚ました。二度寝はしない。異界の中にいる間に、すっかりそういう生活スタイルになってしまったのだ。今後、どこかの異界を征伐する場合にもその方が良いだろうと思うので、このスタイルは崩さないつもりだった。
トイレを済ませて顔を洗ってから、颯谷はサンダルを履いて家の外へでる。向かうのは母屋の隣の納屋。彼が納屋に入ると、それに気づいて三匹の白っぽい犬たちが起き上がる。マシロとユキとアラレだ。彼女たちの首には、それぞれ色違いの首輪が嵌められていた。
彼女たちがここへ来たのは、颯谷が家に帰ってきてから数日後のことだった。玄道に頼まれて鉢植えの水やりをしていたら、そこへマシロたち三匹がやってきたのである。思いがけない再会に颯谷は喜んだが、この時点では彼も、マシロたちがここに居つくとは思っていなかった。
ただこの日を境に、マシロたちは頻繁に玄道の家に顔を出すようになった。颯谷はもちろん歓迎しているし、玄道も孫から話を聞いていて邪険にする理由はない。またドッグフードを与えたり、水を飲ませたり、納屋のマシロたち用のスペースを作ったりしたのも、そうなった理由の一つだろう。
こうして民家のすぐ近くに野犬が頻繁に出没するようになったわけだが、そのことが何か問題になったりはしなかった。マシロたちは警戒心が強く、人間の生活圏には近づかなかったのだ。普段は裏山を縄張りとしているらしく、明るくなると山へ入っていくのが常だった。
『どこかの群れに入ったりしなかったのかな?』
『もしかすると、モンスターのせいでこの辺の野犬がみんな死んじまったのかもしれねぇなぁ』
玄道がそう言うのを聞いて、颯谷はあり得ると思った。中鬼相手でも、群れなら勝ち目はあるだろう。だが無傷とはいくまい。さらに中鬼はいなくなるということがない。何度もぶつかるうちに野犬のほうが根絶やしにされてしまった、というのはあり得るだろう。そしてだからこそ、マシロたちも仲間と思っている颯谷のところへ来たのかもしれない。
そういうバックグラウンドを想像すると、さらに情もわくというもの。「いたいならいればいいさ」と颯谷は思っている。別の言い方をすれば、最初彼はマシロたちを「飼う」つもりはなかった。だがエサを与えて寝床まで作っているのだから、これは傍から見れば「犬を飼っている」状態だ。
『ちゃんとしといたほうが良いなぁ』
玄道にもそう言われ、颯谷はマシロたちを飼うことにした。飼うことにした理由は他にもあって、異界征伐の際に猟犬を連れていく人もいると道場で聞いたのだ。マシロたちがその分野で役に立つかは未知数だが、まあそういう期待もあったわけである。
颯谷はネットで首輪を注文。首輪をつけると三匹は当初少し窮屈そうにしていたが、すぐに慣れた様子だった。ただ犬を飼うのであれば避けては通れないことがある。狂犬病のワクチン注射である。
時間を見つけ、颯谷はマシロたちを動物病院へ連れて行った。以前に犬を飼っていたお宅からケージを借りてそこへ三匹を入れ、ケージごと軽トラに乗せる。マシロたちは動物病院がどういう場所なのか知らないが、見知らぬ人がたくさんいるのを見て警戒している様子だった。
そしていよいよお注射の時間。颯谷は一匹ずつケージから出して注射を受けさせた。最初はマシロだ。マシロは唸って注射器を構える獣医を威嚇したが、颯谷が睨みつけるとすぐにシュンとする。その隙に獣医さんがすかさずブスリ。マシロは「うそぉ!?」みたいな顔をしていた。
その様子を見ていたユキとアラレは、どうやら注射が楽しいモノではないと察した様子。ケージの中から出てくるのを嫌がったが、そこは颯谷も容赦しない。手早くケージから出して注射を受けさせた。注射が終わった三匹は揃って「裏切り者ぉ!」みたいな顔をしていた。まあ家に帰ってドッグフードをあげたらすっかり忘れた様子だったが。
そんなこんなで飼い犬としての体裁を整え、マシロたちは今、玄道の家の納屋にいる。マシロたち用のスペースは柵で囲まれていて、納屋の中は自由に動けない。もっとも外に対しては開かれているし、リードでどこかに繋いでいるわけでもないので、出入りは自由だ。散歩には連れて行かないが、勝手に裏山を走り回っているはずなので、その必要もないだろう。
玄道はこれを「裏山のパトロール」と呼んでいる。マシロたちが走り回り縄張りを主張することで、クマやイノシシが近づかなくなっているのだという。もしかしたら三匹とも氣功能力を覚醒させているというのも関係しているのかもしれない。
『まあ、こっちもモンスターに駆逐されただけかも知れねぇがな』
そう言って玄道はカラカラと笑った。それも十分にあり得るだろう。颯谷も週に何度かマシロたちと一緒に裏山を走っているのだが、これがどう影響しているのかは不明だ。もう少し時間が経てば、分かってくることもあるかもしれない。
ちなみにしつけだが、そもそも颯谷の方が強い(上位者)なので、マシロたちも颯谷の言うことはすぐに聞いた。入ってはいけない場所を教え、「待て」や「伏せ」も教えてある。時々、「取ってこい」で遊んだりもする。フリスビーを買ってしまった。
トイレのしつけもした。裏山ならどこでしてもかまわないが、納屋の中で好き勝手にされるとさすがに困るのだ。また冬になったら母屋に入れてやろうと思っているので、そのための訓練でもある。
「おはよう、マシロ、ユキ、アラレ」
颯谷がそう声をかけると、三匹も返事をする。もっともそこには「ごはんちょうだい!」の催促も含まれているはず。颯谷は棚からドッグフードを取り出すと、適量をお皿に移して三匹に与えた。
エサを食べる三匹を颯谷はほほえましく見守る。ただ彼はあることに気付いてしまった。山の中を走り回っているせいだろう。三匹とも、毛並みが汚れている。それを見て彼はこうつぶやいた。
「そろそろシャンプーしないとだな……」
エサを食べていた三匹の動きが止まる。マシロは視線を泳がせ、ユキとアラレはオロオロとしている。颯谷は「そんなにシャンプー嫌か」とあきれたが、容赦してやる気はない。次の休みにシャンプーが決定した。
マシロ&ユキ&アラレ「注射こわい……」




