大学入学3
入学式からしばらくして時間割が確定すると前期の講義が始まった。いよいよ本格的な大学生生活の始まりである。
講義の内容について言えば、まずは高校の復習みたいな内容が多い。これは本当に復習という意味合いと、もう一つは新入生のスタートラインを揃えるという意味合いがあるのだという。様々な背景を持つ新入生がいる、ということだ。
まあそんなわけで。颯谷にとっては、目新しい内容の講義はまだ少ない。それで大学生活の出だしで躓くことは避けられた。講義以外の部分も含めて、ひとまずは順調と言って良い。彼が内心でちょっとホッとしたのは秘密だ。
さて、講義が始まって二週間ほどが経ったある日、朝の八時過ぎに理学部棟の玄関をくぐった。一時限目の講義が始まるのが八時半なので、それがある時には大体これくらいの時間に来るようにしているのだが、今日は別件である。今日は諏訪部研に呼ばれたのだ。いよいよ筋力計測の実験を行うのである。
比較的朝早いということもあり、理学部棟の中はまだ人気があまりない。颯谷はエレベーターで諏訪部研がある12階へ向かった。エレベーターから降りると、ほのかにコーヒーの香りがする。「もしかして」と若干の期待を抱きつつ、颯谷は諏訪部研へ向かう。ノックをして中に入ると、部屋の中にはすでに諏訪部と久石がいた。
「おはようございます、桐島君。コーヒーはいかがですか?」
「おはようございます。コーヒーもいただきます」
「では、少し待っていてください。今淹れますので」
慣れた手つきでミルを回しながら、諏訪部はそう答えた。彼に促されて、颯谷は椅子に座る。テーブルの上には、すでに数個のマグカップが並べられている。颯谷が荷物を床に降ろすと、久石が彼にこう話しかけた。
「おはよう、桐島君。今日はよろしくね」
「おはようございます。こちらこそ、お願いします」
「うん。で、桐島君、二時限目は?」
「入ってます」
「了解。じゃあ、それに間に合うように終わらせるわね。それで、今日予定しているメニューなんだけど……」
そう言って久石はこれから行う実験のメニューについて説明を始めた。今日行うのはすべて筋力の測定である。素の状態と全力で内氣功を使った状態で計測を行い、どのくらい記録が伸びるのかを調べるのだ。
「あれ、また握力やるんですか? もうやってますよね?」
「ああ、内氣功を使った場合の記録は回数を重ねると伸びる傾向があるの。だからその辺の記録も、また別の日にとらせてもらうわ」
そう言えば最初に諏訪部研を訪れたとき、そんな話を聞いた気がする。そのことを思い出しながら、颯谷は「分かりました」と答えた。
さてそんな話をしている間にも、諏訪部研にはぞろぞろと学生たちが集まってきた。以前、伊田に聞いた話だと、氣功計測用スクロールの使用希望者はまだまだ列をなしている状態なのだという。ただ実験の趣旨からすれば、スクロールを使って「はい、終わり」というわけにはいかない。その後に間接的な計測を行う必要がある。
だが先ほど久石も言っていたが、内氣功を使った場合の筋力の計測は、回数を重ねるごとに記録が伸びる傾向がある。それで一回計測して「はい、終わり」というわけではなく、つまりそれなりに手間がかかる。諏訪部研は現在総出でその対処に追われているという話だった。
聞けば研究室の学生全員、毎日一時限目のスケジュールで動いているのだという。それでも人手が足りなくて、似たような研究をしている別の研究室に応援を頼んでいるのだとか。自分が四年生になるまでに落ち着いてくれないだろうかと颯谷は思った。
「桐島君も手伝ってくれて良いんだぞ」
「いやぁ、遠慮しておきます」
割と本気の声音で勧誘する宮本を、颯谷はそう答えてさらりとかわす。そうこうしている間に諏訪部がコーヒーを淹れ終えた。湯気が立ち上るマグカップに、学生たちがそれぞれ手を伸ばす。一口飲むと、「ふう」という声が重なった。
「飲みながら聞いてください。今日の予定ですが……」
コーヒーが全員に行き渡ったところで、諏訪部が予定の確認を行う。颯谷は関係ないのだが、彼も神妙な顔をしてそれを聞いた。伊田と宮本は鉄室での実験を担当するらしい。久石が外れたのは、やはり氣の量が少ないからなのだろう。
(それにしても、思ったより余裕がありそう……)
彼は内心でそう呟く。さっき話を聞いた限りでは、ブラック企業並みに忙しいのかと思ったのだが、案外そうでもなさそうに思えた。ただこの他にそれぞれ講義があることを考えると、多少の誇張混じりであろうとはいえ、忙しいのは間違いない。また相手の都合もあるのだから、日によって差があったりもするのだろう。
「では皆さん。今日も一日頑張りましょう」
諏訪部がそう言うと、学生たちはそれぞれ返事をしながらマグカップをテーブルに戻した。そしてそれぞれの作業に取り掛かる。颯谷はどうしようかと一瞬困ったのだが、すぐに久石がこう話しかけた。
「じゃあ桐島君、行きましょうか」
「あ、はい。荷物ここに置いていって良いですか?」
「良いわよ」
久石がそう答えたので、颯谷はリュックサックを座っていた椅子の上に置いた。そして着替えを入れたトートバッグだけ持って、久石の後について研究室を出る。久石の他に諏訪部研のメンバーがもう一人いて、彼女はその人物のことをこう紹介した。
「こっちは駒木譲君。学部の四年生だから、この春に入ったばかりの新メンバーね」
「駒木だ。よろしく」
「桐島です。よろしくお願いします」
「駒木君はね、地元東北の武門出身なのよ」
「確かに東北だけど県外ですよ? 地元って言われると違和感ありますって」
駒木は苦笑しながら久石にそう答えた。聞けば駒木も氣功能力者俱楽部に所属しているとか。「何もしないけど刺激にはなる」と話していた。
さて、そんな話をしている内に、三人はトレーニングルームに到着した。このトレーニングルームは普段、運動部の学生が主に使っている。複数の部が共同で使っているだけあって、器具は結構充実しているように見えた。
トレーニングルームの隅っこで、颯谷はジャージに着替える。そしていよいよ、計測が始まった。腕、胸、肩、背中、脚など、全身の筋肉の筋力をまんべんなく計測していく。ただ筋トレをしているわけではないので、測るのは大きな筋肉がメインだった。
「スッゲェ……。最低でも300%超えかよ……」
計測結果を見ながら、駒木が驚きを通り越して呆れたようにそう呟く。一方、久石は一度握力の計測結果を見たことがあるので、比較的冷静だ。そして当の本人はと言えば、思ったよりも結果にバラつきが出たことに驚いていた。
(増幅率は300~500%強……。なんでこんなに差が出るんだ……?)
颯谷はその疑問を久石にぶつけてみたのだが、彼女も確かなことはまだ分からないという。ただ、これまで実験を重ねてきた上での感想としてこんなふうに答えた。
「先生も言っていたけど、やっぱり氣の使い方がネックなんだと思うわ。同じ身体の中でも、強化率は一定じゃないのかも知れないわね」
「つまり内氣功の使い方が未熟ってことですか……」
そう言われるとちょっと癪だが、しかし納得はできる。今まではただ漫然と内氣功を使っているだけだったが、例えば使う筋肉を意識してそこを重点的に強化するなど、使い方を工夫することはできるかもしれない。颯谷がそう言うと、しかし久石は少し困ったようにこう答えた。
「う~ん、実験の趣旨的には今まで通りにやってくれた方がありがたいかなぁ」
久石にそう言われ、颯谷はひとまず頷いた。ただ、実験はこれまで通りのやり方で協力するとしても、この新しいアイディアは試してみる価値があると思う。思いがけない収穫が得られて、彼は実験に協力して良かったと思った。
トレーニングルームでの計測を終えると、久石と颯谷は理学部棟の諏訪部研へ戻った。鉄室での計測を終えた外部協力の能力者たちがトレーニングルームに来たので、彼らの計測を手伝うべく駒木は向こうに残っている。なお、久石は伊田から氣功計測用スクロールを預かっていた。
「久石さん。今日の実験結果って、オレももらっていいですか?」
「良いわよ。ちょっと待ってて」
そう答え、久石はまず氣功計測用スクロールを片付けた。そしてパソコンを立ち上げる。実験結果を記録するためのフォーマットはすでにあるので、彼女はそこに手書きしていた数値を手早く打ち込んだ。そしてプリントアウトする前に、彼女は颯谷にこう尋ねる。
「スクロールの画像データもつけようか?」
「あ~、いや、そっちはまだいいです」
少し悩んでから、颯谷はそう答えた。必要になったらその時にもらえばいいだろう。久石は一つ頷くと、そのままファイルをプリントアウトした。
「はい、じゃあコレね」
そう言って、久石は颯谷にプリンターが吐き出したA4の用紙を一枚手渡した。そこには今日の実験結果が一覧になって並んでいる。
「ありがとうございます」
颯谷は礼を言ってその用紙を受け取り、クリアファイルに挟んでリュックサックに仕舞った。それから次回の実験について予定をすり合わせる。それが終わると、ちょうど一時限目が終わる頃合いになった。
「あ、じゃあオレ、二時限目があるんで。……荷物置いていって良いですか?」
「貴重品は入ってないんでしょ? なら良いわよ」
「ありがとうございます。じゃあ、後で取りに来るんで」
そう言って、颯谷はジャージが入ったトートバッグを椅子の上に残し、リュックサックだけ担いで諏訪部研を後にした。そして二時限目の講義が行われる教室へ向かう。そこは理学部棟の三階で、彼は余裕を持って到着することができた。
講義が始まるまでの間、颯谷は先ほど受け取った実験結果を取り出して眺めてみる。そこに記されている項目は全部で五つ。行った筋トレのメニュー、そのメニューで使用される主な筋肉の名前、素の状態での数値、内氣功を使った状態での数値、その増幅率だ。だが彼はすぐに顔をしかめることになった。
(筋肉の名前が分からん……。どこの筋肉だ、これ……?)
ついでに言うと、筋トレのメニューも分からん。実際にどんな筋トレをやったのかはしっかりと覚えているが、それがどのメニューなのかはっきりと分からないのだ。
まあ筋トレメニューが分からなくて、どこの筋肉を使ったのか分かれば問題はない。だがそれが分からないのだ。みんな比較的大きな筋肉という話だったが、見知った筋肉が一つもないように思える。なんなら読みすら怪しいモノが幾つかあった。
(胸肉どこいった)
眉間にシワを寄せながら、颯谷は胸の内でそう呟く。これはまず筋肉の場所と名前を憶えてからでないと、そもそも資料の意味が分からない。そして意味が分からないと考察のしようもない。彼は小さくため息を吐いた。
「お、桐島。早いな。……なんだそれ?」
教室に入ってきた同じ学科の同級生が颯谷に声をかけ隣の席に座る。そして颯谷が手に持つプリントに視線を向けてそう尋ねた。颯谷が簡単に説明すると、彼はプリントを覗き込んでこう声を上げた。
「うわっ、増幅率? が全部300%以上って、化け物じゃん。オリンピックで金メダル取れちゃうんじゃね?」
「化け物言うな。あと、スポーツ界隈は基本的に氣功能力使用厳禁です」
「あ、やっぱそうなんだ」
「引退した能力者の就職先だと、スポーツの試合の監視員ってのが結構多いんだってさ」
「なんか袖の下が多そうだな」
「その辺は対策考えてるだろ。それに最近は氣功能力を解禁にした大会もあるんだって。まだマイナーみたいだけど」
「え、なにそれ。すっげー見てみたいんだけど」
「でも実際どうなんだろうなぁ。覚醒しただけじゃ、能力者としては大したことないと思うんだけど……」
道場で仕入れた業界話に自分の感想を付け加えながら、颯谷はそう話す。そんな話をしているうちに先生が来て講義が始まる。颯谷はひとまず実験結果を片付けた。
数馬「いずれスポーツ用品としての仙具にも需要が……」




