高校卒業
二月の末。颯谷が諏訪部研で色々と実験に協力した、その数日後。この日、木蓮の大学個別試験の結果が出る。自宅のマンションで颯谷と二人、木蓮はその合否を確認した。
「合格しましたっ!」
大学のwebサイトで合格者名簿に自分の受験番号を見つけ、木蓮は歓声を上げた。イスに座ったままはしゃぎ、パソコンの画面と颯谷の顔を何度も交互に見比べる。その間に颯谷も画面で彼女の受験番号を確認。破顔一笑してこう言った。
「おめでとう!」
「ありがとうございますっ!」
ほとんど叫ぶようにして木蓮がそう答える。そしてマックスなテンションそのままに、彼女は颯谷へ抱き着いた。座ったままとはいえ、ほとんどタックルのようなそれを颯谷はどうにか受け止め、いや受け止めきれずにひっくり返る。
二人もろともフローリングに倒れ込んでしまったが、それでも全然嫌な気はしない。むしろそれさえなんだが楽しくて、二人は揃って笑い声をあげた。ひとしきり笑った後、颯谷は抱きしめたままの木蓮にもう一度こう言った。
「おめでとう、木蓮」
「ありがとうございます、颯谷さん。これで春から同じ大学に通えます」
幾分テンションが落ち着いた木蓮が、はにかみながらそう答える。そんな彼女を颯谷はさらに強く抱きしめた。それが嬉しいのか、木蓮は頬を緩ませながら額を彼の胸に押し付ける。数秒そうやって顔を作ったあと、木蓮はもぞもぞと顔を上げてこう言った。
「ところで颯谷さん。そろそろご褒美が欲しいです」
「ん、良いよ。じゃあ、行こうか」
そう言って二人は起き上がり、支度をしてから外出する。「ご褒美」というのはつまりスイーツのこと。今日は合格発表ということで颯谷は「ケーキでも買っていこうか?」と申し出たのだが、「落ちていたら気まずいので止めておきます……」と木蓮が断ったのだ。
「落ちたらヤケ食いすれば……」と颯谷は思ったのだが、それを口に出さないだけの良識はある。代わりに「受かっていたらどこかにお茶しに行こう。奢るからさ」と提案し、木蓮も「それなら」と賛成したのだ。
そんなわけで二人が向かったのは、木蓮のマンションから歩いて五分ほどの場所にあるお茶屋さん。二階が喫茶店になっていて、緑茶や抹茶と一緒に和菓子を楽しめるお店だ。店員に案内されて二人は二階へ上がった。
「へえ……」
「雰囲気、ありますよね」
ちょっと得意げな木蓮の言葉に、颯谷は小さく頷いて答えた。大正モダンというか、確かに雰囲気がある。色ガラスを使ったレトロな照明が飾られていて、ここではなんだか時間がゆっくりと流れているような気がした。
二人は奥まった席に向かい合って座った。家具もこだわっているのだろう。年季が入っているように見える。飲み物は二人とも抹茶にして、颯谷は粒あんのおはぎを、木蓮は栗きんとんをそれぞれ頼んだ。
このお茶屋さん、颯谷は初めてだが木蓮はこっちに引っ越して来て以来たびたび利用している。お茶は実家から送られてくるのでわざわざ買わないが、こうして抹茶を飲みながら和菓子を食べるのが彼女のお気に入り。三年間通い続けて、もうすっかり常連さんだ。ちなみにある時ふと静岡県出身であることを話してしまい、それ以来木蓮が来るたびに店側がやや身構えていることを彼女は知らない。
「お待たせしました」
少し待つと、店員さんが注文した商品を持ってきて並べてくれた。抹茶は器は大きいが量はそれほど多くない。一方でおはぎは結構大きかった。栗きんとんは裏ごしした栗のほかに、ゴロッとした栗の甘露煮も添えられている。抹茶とお菓子を前に、しかし少し困った様子で颯谷は木蓮にこう尋ねた。
「えっと……。抹茶とお菓子って、どっちが先だったっけ……?」
「お菓子ですね。口の中を甘くしてからの方が、お抹茶は飲みやすいですよ」
小さく笑いながら、木蓮がそう教えてくれる。彼女はまず栗きんとんを少しだけ食べ、それから手慣れた様子で抹茶の器を手のひらの中で回す。そして口元へ運んだ。その所作はなんというか、様になっている。
颯谷も木蓮の真似をしてみたのだが、どうにも慣れない感じがする。とはいえ今更取り繕っても仕方がないだろう。そう思い、彼は抹茶に口を付けた。初めて飲んだ抹茶は、先におはぎを食べたおかげか、思ったより苦くない。抹茶の器をテーブルに戻すと、彼はまたおはぎに手を伸ばした。
「どうですか?」
「うん、どっちもおいしい。良いお店だね」
「はい。お気に入りのお店です。……でもわたしだけお祝いしてもらって、ちょっと申し訳ないです」
「ああ、そんなの気にしなくていいよ。木蓮が頑張っていた間、オレは悠々と過ごしていたわけだし」
「……そう言われるとなんだか釣り合っていないような気がしてきました。じゃあ、もう一つお願いしても良いですか?」
「ん、なに?」
「一緒にスーツを買いに行きませんか? 入学式用の」
「あ、そっか。入学式ってスーツか……」
木蓮に言われて颯谷はそのことに気付く。当然ながら彼はスーツを一着も持っていない。これまではフォーマルな場でも学生服で良かったからだ。だが高校を卒業したのに学生服を着ていたらただのイタいヤツである。
「分かった。ていうかむしろ一緒にお願いします」
「はい。分かりました」
颯谷が大袈裟に頼み込むと、木蓮は楽しげに笑ってそう答えた。その後、二人はいつどのお店に行くかを話し合う。この時はそれで楽しく時間を過ごしたのだが、後日、颯谷は道場で茂信からこんなことを言われた。
「なんだ、量販店に行くのか。テーラーを紹介してやろうかと思っていたんだが」
「テーラー?」
颯谷は首をかしげて聞き返す。テーラーというのは、要するにスーツを仕立てる職人のことだ。なんでも茂信は一見さんお断りのテーラーに伝手があり、入学式でスーツが必要になるだろうから紹介しようと思っていたのだとか。ただ颯谷にはもう先約がある。どう答えたものかと思っていると、周りいた門下生たちがこう言った。
「テーラーってことはフルオーダーだろ? 颯谷には早いんじゃないのか」
「そうそう。フルオーダーのスーツなんて普通は一生モノなんだから、十代で作るのはちょっと早いって」
「そもそも大学生なんて、入学式が終わればほぼ着ないだろ、スーツ」
「あ~、約束もあるんで、今回は……」
先輩門下生たちが雰囲気を作ってくれたので、颯谷はやや申し訳なさそうにしながら茂信にそう答えた。茂信は少し苦笑しながら「いや、いい」と答える。これでこの話は終わったわけだが、彼はふと何か思いついたのかニヤリと笑い、そしてこう付け加えた。
「ただな、颯谷。これは覚えておいたほうが良いぞ。ちゃんと採寸して作ったスーツっていいうのは、着たときにすごくスマートに見える」
「えっ?」
「ああ、それは分かるなぁ。言葉にするのは難しいんだけど、なんかカッコいいんだよなぁ」
「もともとスーツマジックなんて言葉もあるくらい、男はスーツを着るだけで変わる。フルオーダーともなれば、その効果もひとしおってわけだ」
そんなことを言われてしまうと、颯谷の気持ちもグラグラ揺らぐ。「カッコ良く見えるならフルオーダーも良いかも」と思い始めたのだが、そこはやっぱり最初の約束を優先。スーツは木蓮と買いに行くことにした。
そして約束の日。二人が向かったのはとある大型のショッピングモール。ここに入っているスーツのお店が今日の目的地だ。なぜ一軒建ての専門店に行かなかったのかというと、スーツを選んでから私服も買おうという話になったから。大学に制服はない。つまり毎日私服だ。その分も用意しておこう、というわけである。
「制服って偉大だったんだなぁ……」
少々遠い目をしながら、颯谷はそう呟いた。制服は学校指定だからデザインで悩む必要はない。制服は使える場面が幅広い。制服があれば私服を多数揃える必要はない。制服って結構万能だったんだなぁ、と彼は卒業を目前にして理解した。
さて、そんな颯谷は現在、着せ替え人形にされている真っ最中である。彼を着せ替え人形にしているのは言うまでもなく木蓮。彼女は真剣な目で颯谷のスーツを吟味している。
(自分のはさっさと決めちゃったクセにさ……)
声には出さず、颯谷はそう毒づいた。ただし弱々しく。抵抗はすでに諦めている。適当に選んだスーツを笑顔で没収されたその時から。あの時の木蓮には逆らってはいけない圧があった。
「う~ん、シルエットはこっちが良いんですけど、生地はこっちが……」
「でしたら、こちらなどいかがでしょうか?」
「あ、素敵です! 候補入りですね!」
木蓮はいつの間にか店員さん(女性)と意気投合していて、次から次へと颯谷に試着を命じていく。彼は別の店員さん(男性)に視線で助けを求めたが無情にも無視される。「ちくしょう、心得ていやがるな」と心の中で呟き、彼はまた試着室のカーテンを閉めるのだった。
「ふう、いい仕事をしました」
「はい」
木蓮がかいてもいない汗を拭う。彼女は店員さん(女性)といい笑顔で頷き合った。二人の表情にはやり切った達成感が溢れている。彼女たちは午前中いっぱいをかけて颯谷のスーツとワイシャツ、そしてベルトと靴を選んだ。
正直、自分が着るわけでもないのに、何がそんなに楽しいのか颯谷には分からない。ただようやく終わったと思い安堵の息を吐き、それから彼は戦慄と共に思い出した。午後からは私服を選ぶ計画なのだ。
(まさか……!)
彼のその予感は当たった。昼食を食べた後、木蓮は嬉々としてテナント巡りを始めた。自分で着る服はもちろん、颯谷の服も彼女は真剣に選んだ。彼はまた着せ替え人形にされてしまったわけだが、彼としてもこの展開は予想済み。それでコーディネート一つ分の服を買い揃えるとこう言った。
「今日はこれくらいで良いよ。あまり買っても、箪笥がいっぱいになっちゃうし」
「む、それはそうですね。これからまた夏物や冬物を買い揃えないといけないわけですし」
木蓮もそう言って納得し、これにて颯谷の買い物は終わった。木蓮の買い物はまだ終わっていないので颯谷は荷物持ちも兼ねて付き合ったが、自分で試着しないでいい分多少は楽だった。
一通りの買い物を終えると、二人は荷物を車に入れてからコーヒーショップで一休みした。コーヒーとケーキを注文し、二人は向かい合って座る。木蓮に勧められ、颯谷は生まれて初めてカプチーノを飲んだ。
「あ、結構おいしい……」
「ふふ、お店のカプチーノっておいしいですよね。家ではなかなか作れませんし」
「でもちょっと意外。木蓮は緑茶党だと思ってたから」
「家だと緑茶がほとんどですよ。ただ外でお店に入ると、やっぱりコーヒーが多いですから」
木蓮はちょっと苦笑しながらそう答えた。彼女としては、もっと外で美味しい緑茶が飲めると嬉しいのかもしれない。今度お店を探してみようかな、と颯谷は思った。
「疲れてない?」
「大丈夫ですよ。すごく楽しかったですし」
「……レディスはともかくさ、メンズなんて選んで楽しい?」
「はい。メンズだと自分では選ぶ機会もほとんどありませんから」
分かるような分からないような。颯谷はとりあえず曖昧に笑って頷いておいた。ともかく今日は木蓮の慰労という意味合いもあるのだ。それで彼女が満足したのならそれでよしとすることにしたのだった。
そしてその少し後、颯谷と木蓮は私立葛西南高校を卒業した。来賓の話は聞き流したが、名前を呼ばれて卒業証書を受け取る時には少し緊張した。卒業式の後、部活の後輩だろうか、木蓮は何人かの女子生徒に囲まれている。颯谷は帰宅部だったので、後輩との縦の繋がりはほぼない。そんな彼に一人だけ話しかける後輩がいた。
「卒業、おめでとうございます。先輩」
「お、仁科か。春からは三年だっけ?」
「はい。今年中に何とか体力付けて、卒業したら征伐隊に入れるようにしたいと思っています」
仁科俊はそう自分の決意を語った。練氣鍛造法を修める鍛冶師になること。それが彼の夢だ。その夢をかなえるためにはまず氣功能力を覚醒させ、さらに一定程度まで氣の量を増やさなければならない。そのためには征伐隊に入ることがどうしても必要だった。
「やっぱり、工房は忙しい感じ?」
「そうですねぇ。結構予定が入ってるみたいです。……オレはまだ何もできなくて、正直焦るっていうか、仕方ないとは分かってるんですけど……」
「できる事からやればいいさ。そんで、できる事を増やしな。結局、それしかないよ」
「はい、頑張ります。先輩も大学、頑張ってください」
そう言って一度頭を下げ、俊は別の卒業生のところへ向かった。その背中を見送りながら、颯谷はふと気づく。さっきのアドバイス、アレは昔剛に言われたことそのままだった。別にそう意識して口に出したわけではない。だが自然とそう言っていた。
(身になった、ってことかな)
それこそがこの高校三年間の成果のように彼には思えるのだった。
~ 第七章 完 ~
お茶屋さんの店員さん「静岡出身……! しかも所作からして明らかに茶道の心得がある……! これは難敵……!」




