要請状
(どうして……)
どうして自分はこんなところにいるのだろう。窓の外、北海道の雪原を眺めながら、颯谷はポツリと心の中でそう呟いた。今日は共通テストの一日目。本当なら木蓮を愛車で試験会場まで送っていたはずの日だ。しかし今、彼はこうして北海道にいる。
事の発端は異界である。年明け早々、今度は北海道西部に異界が現れたのだ。直径は約18.2km。文句なしの大規模異界だ。ただ顕現当初からフィールドの色は黒色。つまり内部に取り残された者はいない。北海道の広大な大地に救われた、と言えるかもしれない。なお、この異界は北海道西部異界と名付けられた。
一方で北海道であったがための大きな問題もある。今は真冬、つまり雪と寒さだ。そして今回は大規模異界。内部の変異はほとんどないと見込まれる。要するに異界内も真冬ということだ。
「征伐隊の突入は、春まで待つべきではありませんか?」
国防省の内部でもそういう意見が出たそうだ。取り残された人がいなかったのは幸運だが、それは同時に異界内に人間の生活設備がほとんどないことを意味している。地図上でもそのことは確認済みで、つまり征伐隊はほとんど野宿しながらオペレーションを行うことになる。
真冬の北海道で、野宿!
怪異のためではなく、寒さのために征伐隊が全滅してもおかしくはない。そのくらい寒さは現実的な脅威だ。ならばいっそ、暖かくなるまで待った方が良いのではないか。そういう意見が出るのは当然だし、その気持ちは颯谷もよく分かった。
ただその一方で、春まで待つことに否定的な意見もあった。今は一月。四月まで待つとして、あと三か月弱もある。その間ずっと、氾濫への対処を続けなければならない。それこそ、真冬の北海道で。その負担は決して軽いモノではないだろう。
「例えば吹雪とスタンピードが重なった場合、外へ出てきたモンスターを全て始末することは不可能でしょう。いえ、率直に申し上げて大多数を取り逃がすことになるかと考えます。無論、国防軍としても全力を尽くしますが、もし春まで待つのであれば、相当数のモンスターを取り逃がしてしまうであろうことはご承知ください」
国防軍のある将官は国防大臣に対してそう答えたという。取り逃がしたモンスターは異界を征伐しても消滅したりはしない。いずれどこかで何かしらの被害を出すだろう。死者が出ることも当然想定される。
春まで待つことで避難生活が多少長引くのは許容範囲内として、しかし異界征伐後も地域住民の生活が脅かされるのは、政府にとって好ましいことではない。それを避けるためには、早期の征伐を期すしかないと思われる。そして最初のスタンピードが起こった後、この意見は勢いを増した。
今回現れたのは鋭い牙を持つシカ型のモンスターで、「牙鹿」と名付けられた。北海道に生息するエゾシカによく似たモンスターで、エゾシカと同じく深い雪の中であっても比較的俊敏に動くことが確認されたのだ。
最初のスタンピードは晴天の空の下で起こった。そのおかげで牙鹿の姿ははっきりと見えたし、銃器を用いての掃討は容易だった。ヘリによる上空からの監視も行われ、取り逃がした牙鹿はいないと断言できる。しかし今後ずっと、この好条件が続くわけではない。
悪天候のために牙鹿を取り逃がすことは十分に考えられるのだ。しかも悪いことに牙鹿には機動力がある。多数のモンスターを取り逃がし、異界征伐後も被害を出し続けるという想定が、現実味を増したのだ。そしてこの不手際は、政権支持率を押し下げるだろう。
「何とか早期に征伐を完了してもらいたいところですが……」
「しかしだね、黒木君。現実問題としてそれは可能なのかな」
総裁として二選を果たした内閣総理大臣の内田文彦と官房長官に留任した黒木俊二は頭を悩ませながらそう言葉を交わした。黒木の言う通り、早期に異界を征伐してしまえるのならそれが一番良い。だが無理筋をゴリ押しして征伐隊を全滅させたとなれば、それこそ政権支持率は地に落ちかねない。
緊急に、関係者を集めてのヒアリングが行われた。出席者の属性は大きく分けて三つ。民間の能力者、国防軍の選抜チーム、そして医療チームだ。まず議題に上がったのは「そもそも活動可能なのか?」という問題で、国防軍の選抜チームがまずこう答えた。
「可能か不可能かで言えば、可能であります。我々はそのための訓練をつんでおり、またそのための装備もあります。少なくとも、寒さのために手も足も出ず、全員凍死ということにはならないでしょう」
「これまでも冬季の北海道に異界が現れることはあった。そしてその都度、我々はそれを征伐してきた。冬であっても征伐を行うためのノウハウはある。ただ暖かくなるまで待った例もあり、判断は個別に行うべきだ」
「え~、医療チームとしましては、国防軍の設備・装備を使えるのなら、活動は可能だろうと考えます。それに寒い方が外傷は悪化しづらいです。ただし寒さのために患者の体力がより消耗してしまうことは、考慮に入れておくべきでしょう」
程度の差こそあれ、三者とも「可能」と答えたのは、もしかしたら国防省にとっては予想外だったかもしれない。とはいえ、だからと言って直ちにゴーサインが出たわけではない。そこからさらに活発な意見交換が行われた。
「雪のために牙鹿の機動力は殺がれています。これはポジティブに捉えて良いのではないでしょうか」
「だが機動力を殺がれるのは人間も同じだ。それどころかより苦労するのは人間の方だろう」
「機動力についてはスノーモービルが使えます。牙鹿よりはるかに素早く移動できるはずです」
「移動はそうだろう。だが戦闘はどうする? ザコは狙撃で倒せるかもしれんが、ヌシやガーディアンはそうはいかん。結局、最後は雪上に降りて戦闘することを想定しなければならん」
「確かにこれまでも雪の中で戦うことはあった。だがそれは否応なくそうしなければならなかったからだ。確かに可能ではある。だがパフォーマンスが落ちることはあらかじめ承知しておいてもらいたい」
「ですが、春まで待つというのも少々期間が……」
意見は多いがなかなかまとまらない。冬季の征伐は可能ではあっても非常に困難。改めてそれが浮き彫りになった。出席者が言いたいことをだいたい言ってヒアリングが一段落したころ、ある出席者がこんなことを言い出した。
「冬季の征伐といえば、そう言えば桐島颯谷君の例もありましたな」
その名前を聞いて、出席者たちは「そういえば」という顔をした。彼は決して真冬を想定して異界に突入したわけではないし、また雪原で守護者と戦い勝利を収めたわけでもない。
しかし逆に言えば、準備を一切していなかったにもかかわらず、彼は東北の冬を戦い抜いたのだ。その困難さが分からない者はここにいない。それで改めて彼の総括報告書を検討してみようという話になった。
「……桐島君の、冬を戦い抜くための柱は四つだな。温身法、外纏法、月歩、そして仙果」
「このうち温身法は我々も似たようなのを使うな。仙果は積極的に食べるようにするとして、取り入れるとしたら外纏法と月歩か」
「外纏法は要するに氣鎧のことだろう? 改めて注目するほどのモノには思えないが……」
「いや、外纏法と氣鎧は似て非なるモノだ。例えるなら防寒具と甲冑だな」
「それなら、普通の防寒具で代用できるのでは?」
「温身法にしろ外纏法にしろ、二十四時間使い続けるなど正気の沙汰ではないな。それが可能だったのは、ひとえに彼が膨大な氣を有していたからだ。仮にもう一つ付け加えるなら彼が仙果を独り占めできたからで、我々も真似できるなどとは安易に考えない方がいい」
「それよりも興味深いのは月歩でしょう。月歩を使うことで雪の上を駆けることができたと、総括報告書には書かれています。コレを使いこなせるようになれば、ヌシにしろガーディアンにしろ、討伐の際には機動力の不利を補うことができるかもしれません」
「補うどころか、覆せるかもしれんな」
出席者の一人がそう言うと、小さな笑い声を起こった。ただイヤな感じはしない。難しいだろうとは思いつつも、その可能性は否定していないのだ。
「となれば、やはりここは本人に教えを乞いたいところだな」
その一言に多くの者が頷いた。そしてこの一言で方向性は決まったと言って良い。つまり基本的には突入だ。ただし突入は急がない。準備を行うためだ。少なくとも最初に異界が白色化したタイミングでは、突入はしないことになった。
ともかく方針が決まったことで、征伐隊の編成が始まった。赤紙が発送され、志願の受付も開始される。そして颯谷のところには召集令状ならぬ「要請状」が送られてきた。国防省からの書簡ということでドキリとした彼だったが、中身を見て首をかしげる。ともかく「連絡してほしい」と書いてあったので、記載されていた電話番号にかけてみる。相手はすぐに出た。
「桐島です。えっと、連絡が欲しいということで電話したんですが……」
「はい、桐島様、ご連絡ありがとうございます。私、国防省の担当で荒口と申します。すでにお送りした書面のほう目を通していただけたと思いますが、もう一度ご説明させていただきます」
そう言って荒口は事の次第の説明を始めた。颯谷は時折相槌を打ちながらそれを聞く。おおよその内容は書面に書いてあった通り。ただ颯谷はやや困惑しながらこう答えた。
「ええっと、つまり温身法とか外纏法とか月歩とかを教えて欲しい、ってことなんですよね? 正直、前に話した内容以上のことは何もないんですけど……」
「お手本を見たい、ということらしいです。お忙しい中とは思いますが、ご一考してみてはいただけないでしょうか?」
少し考えさせてください、と颯谷は答えた。電話を切り、それからすぐに彼は車に乗り込んだ。向かったのは千賀道場。門下生の中にも赤紙が来た者がいたらしく、道場の中では北海道西部異界のことで持ち切りだった。
「真冬の北海道かぁ……。東北も寒いが、北海道はまた一つ桁が違うからなぁ」
「準備は念入りにするらしい。最初の白色化したタイミングは逃しても構わないと考えているらしいぞ」
「いっそ、春まで待たないのか?」
「いや、あと三か月以上放置ってのはさすがに……」
先輩門下生たちがそんな話をしているところへ颯谷が顔を出す。「どうした?」と声をかけられると、彼はこう答えた。
「ちょっと相談したいことが……」
そう前置きして、颯谷は国防省から送られてきた要請状を見せる。門下生たちがそれを回し読みしている間に、彼は荒口から聞いた話をかいつまんで話した。そして最後にこう問いかける。
「それで、どうしましょう?」
「どうしましょうって、お前……、強制力がないってんなら最終的にはお前さんの判断なんだろうが……」
「俺的には、できれば応じて欲しいですねぇ」
やや躊躇いがちにそう言ったのは、笹原泰樹という門下生。一昨年に入門した門下生で、颯谷にとっては道場の中でも数少ない後輩にあたる。もっとも泰樹の方が年上だし、武門の出身なので武芸に費やしてきた時間も颯谷よりずっと長い。
ただし、現役の能力者としてのキャリアは颯谷の方が長い。また千賀道場には颯谷のほうが先に入門したのも確かなので、泰樹は彼のことは先輩と見て接している。颯谷としてこそばゆいのだが、泰樹の方も半分以上面白がっている感じなので、あまり先輩らしくしようという気にはならないのだった。
まあそれはそれとして。泰樹が発言したことで視線が彼に集まる。その中で彼はさらにこう言葉を続けた。
「百聞は一見に如かずって言いますし、やっぱり実際に見せてもらうのが一番分かりやすいと思うんですよね」
それは確かにそうかも、と颯谷は納得してしまった。荒口からも同じことは言われたのだが、当事者の意見には重みがあった。しかもそれは泰樹一人だけの事ではなく、征伐隊に加わる全員が多かれ少なかれ同じように思っているのだ。
実際問題、受験はもうすでに終わっていて、共通テストも受けなければならないわけではない。「面倒くさそう」という本人の第一印象を別にすれば、要請を受けられない理由は特にないのだ。
「まあ、行けるなら行っておいた方が良いかもしれないなぁ」
「オレもそう思う。こういう話は感情的になりやすい。妙に話がこじれて、遺恨になるのもイヤだろ?」
「あ~、そうだなぁ。仮に寒さで死者が出たとかになると、恨まれるかもなぁ」
「逆に、征伐隊に入らないで北海道の能力者たちと顔つなぎができるって考えたらどうだ。それならお前さんの利益にもなるだろ」
他の門下生らにもそう言われ、颯谷は要請に応じることにした。ただ応じるとなると、恐らく共通テストには間に合わない。つまり木蓮との約束は守れなくなるわけで、彼はそのことだけ心苦しかった。
「ごめんっ、本当にごめん」
「いえ。そういう事情なら仕方ないです」
家に帰ると、颯谷はすぐに木蓮に電話をかけて事情を説明する。それを聞いて彼女はすぐに理解を示してくれた。そして最後にこう付け加えた。
「こう言っては不謹慎かもしれませんが……、来たのが赤紙じゃなくて良かったです」
それは確かに、と颯谷も思っている。真冬の北海道で野宿とか、考えただけでもゾッとする。だが仮に征伐隊が全滅した場合、彼の下に赤紙が来る可能性はゼロではない。それを避けるというのも、モチベーションになりそうだった。
木蓮に電話をしてから、颯谷は次に荒口に電話をかけて要請に応じることを伝えた。そしてその後は、要請状に記載されていた日程に合わせて北海道入りする。空港から一歩外へ出た瞬間、彼は迷わずに温身法を使った。
泰樹「ついでに志願してくれたらなお良し」
颯谷「ええ……、寒いからヤダ……」
マシロ「分かる」




