瀬戸内異界1
三月末。新学期を目前にしたこのタイミングで、また新たな異界が出現した。場所は瀬戸内海。直径32.2kmの大規模異界で、山陽地方から四国へまたがり、また多数の小島をその内側へ飲み込んだ。
前述したとおり異界の中心座標は瀬戸内海にあり、この異界は瀬戸内異界と呼ばれることになった。あくまで地図上での話だが、異界に呑まれた範囲のおよそ七割は海で、人口密集地は存在しない。異界の規模の割に人的被害は少なくて済んだ。それでも当初異界のフィールドは群青色だったが。
そしてフィールドの色が黒色になり、氾濫が発生したことで、国防軍や当該地方在住の能力者社会は征伐隊編成へ一気に動き始めた。今回は瀬戸内ということで、中国地方、九州地方、四国地方の能力者たちが主力になる。また近畿地方からも多数の能力者が志願を表明した。
改めて説明する必要もないことだが、異界は千差万別で、しかも突入するまで内部の様子が分からない。そんな異界の情報源として重要になるのがスタンピードだ。スタンピードでどのような怪異が現れるのか。それによって異界内部で出現するモンスターの傾向がだいたい分かるのだ。
そして今回、瀬戸内異界のスタンピードで現れたのは中・小の鬼だった。となれば大鬼も異界の中にいるのだろう。関係者は全員そう思った。ともかく今回のモンスターは大・中・小の鬼で、人型で前例も多いモンスターが主敵であるというのは、一つプラス要素であると思われた。
とはいえ、「くみしやすし」と判断されたわけではない。今回のモンスターどもは、なんと船に乗り船団を形成していたのだ。その姿はまるで、かつて瀬戸内海を支配した村上水軍のよう。船舶も安宅船・関船・小早舟が揃っており、彼らは「鬼族水軍」と呼ばれることになった。
「異界内部はおよそ七割が海。敵が船を持っているのは当然と言えば当然だが、厄介だな……」
そう呟いた関係者は多かった。ただ幸いというか、少なくともスタンピードへの対応はさほど難しくなかった。瀬戸内異界の周囲には国防軍の艦船が多数展開しており、外へ出てきた敵船団はすべて砲撃によって粉砕されたのである。現れたのはすべて木造船。射撃武装もメインが弓矢となれば、あまりにも順当な結果と言って良い。
ただ船舶の破壊は容易でも、それで全てのモンスターが倒せたわけではない。泳ぐなりして陸地へたどり着いたモンスターもいた。とはいえ全体から見れば少数で、大半は砲撃に巻き込んで倒せたか、もしくは溺死したものと考えられた。
さて、そうこうしている間にも征伐隊の編成は進み、全体ミーティングが開催された。今回は総勢850名を超える大所帯である。これほどの大人数になった理由はただ一つ。国防軍の軍艦三隻が投入されることになったからだった。
「木造船とはいえ、敵は船を用いるのです。こちらにも船がなくては、話にならんでしょう」
「瀬戸内異界は大規模異界。内部の変異は少ないと見込まれます。つまりおよそ七割が海のフィールドはほとんどそのままということ。船がなければ、満足に移動もできません」
「少なくとも中鬼には対物ライフルが効くことが見込まれています。軍艦の砲はそれ以上。対モンスターとしても、軍艦の派遣は十分に有効と考えられます」
「最も期待されるのは敵船舶の排除です。敵船舶は恐らく構造物の扱いで、つまり銃火器がそのまま効果を発揮することが期待されます。異界の中でモンスターが溺死するのかは分かりませんが、海が七割のフィールドで敵の水上移動手段を奪えることには大きな戦略的意味があります」
「また艦船を派遣することになれば、物資を大量に持ち込むことが可能ですし、また医療チームを活動させる上でも有用と考えます。征伐隊にとって間違いなくプラスになると確信しています」
国防軍の、特に海軍から、このように猛烈なアピールがあったのだ。海が主たるフィールドで、敵が船舶を用いているとなれば、海軍として黙っているわけにはいかなかったのである。
スタンピード対策を含めた異界対策というのは、これまで主に陸軍が担ってきた。もちろん海軍が関わることもあったが、それはあくまでも助っ人という位置づけ。海軍は一歩引いた立場だったわけである。
多くの海軍軍人がそのことに不満を持っていた、というわけではない。ただ不満ではないにしろ、ある種羨望のような感情を抱いていたことは確かだ。ともかく、陸軍が国民の敬意と尊敬を一身に集めるその最大の理由が、異界対策であることは間違いない。
異界対策を「華やか」と言えば語弊がある。しかし分かりやすく、訴えやすいオペレーションであることは確かだ。しかも最近では陸軍の部隊が征伐隊に加わって活躍するケースも出てきた。海軍として焦っているわけではないが、「自分たちも」という気持ちは当然ある。
また陸軍の活躍に伴って、異界内部における銃火器の有効性についても再評価が行われている。使い方次第では役に立ち、特に構造物の破壊という分野では威力を発揮することが分かってきたのだ。
そんな時に現れたのが瀬戸内異界だ。海がおよそ七割というフィールドで、船舶という構造物が戦略上重要なファクターになる。モンスターの種類は大中小の鬼で、ある程度銃火器が効くことがこれまでに分かっている。強力な砲門を備えた軍艦にとっておあつらえ向きの戦場と言って良い。海軍が色めき立つのも当然だった。
こうして、海軍の猛アピールの甲斐もあり、前述したとおり瀬戸内異界には三隻の軍艦が派遣されることになったのである。内訳は強襲揚陸艦が一隻、護衛艦が二隻である。約850名の内の600名以上が、これら艦船の乗組員だ。そして強襲揚陸艦に本陣を置くことが全体ミーティングで決まった。
人員数が多くなったもう一つの要因としては、フランス人部隊の参加が挙げられる。和歌山県東部異界への突入中止以来、彼らはどの異界征伐にも加わっていない。ただしこれは決して彼らが望んだ結果ではなかった。
静岡県東部異界は、フランス人部隊が加わるのに適していると思われた。しかしその異界では医療チームとその護衛部隊の派遣が初めて行われた。今後の育成のことを考えれば国防軍として絶対に失敗できないオペレーションであり、不確定要素を可能な限り少なくするためにもフランス人部隊の参加には難色を示されたのである。
その次に出現した能登半島異界では、征伐隊それ自体が編成されなかった。内部に閉じ込められた人たちが自力で異界を征伐したからである。それ自体は喜ばしいことなのだが、フランス人部隊としては実戦の機会を得られなかったことになる。隊長であるトリスタンは内心の焦燥を強くした。
その次の岩手県南部異界は、突入に適さないとトリスタンが判断した。四眼狼を手強いと見たのだ。後に総括報告書を熟読し、その判断は間違っていなかったとトリスタンは確信している。征伐隊の作戦は防御偏重で、被害の抑制には効果を上げたものの、レベリングに関しては今一つだったからだ。
(とはいえこのままでは……)
とはいえこのままでは、時間切れになりかねない。満足に実戦経験を積むことができないまま本国に異界が出現し、未熟な部隊を率いて征伐に臨まなければならない、という事態だ。「選り好みをするべきではなかったか」という後悔が、トリスタンの脳裏をよぎった。
そんな時に現れたのが瀬戸内異界である。情報を集め、トリスタンは参加を決めた。大部分が海で、しかも敵が船舶を使うというのは、レベリングのために望ましい条件とは思えない。だが主な敵が大中小の鬼であるというのはポジティブ要素だ。海軍の軍艦が派遣されるというのも良い。躊躇う理由はなかった。
また今回の異界征伐ではもう一つ別の実験が行われることになった。仙樹鋼製の銃弾とそれを使用するための銃器の、実戦評価試験である。モノが完成したからというのが最大の理由だが、モンスターが大中小の鬼で結果を評価しやすいというのも理由の一つだった。
試験のために用いられるのは対物ライフルとアサルトライフルがそれぞれ二丁ずつ。いずれも銃弾に氣を込めて射撃することはできている。それが実戦でどれほど通用するのか、それを評価するための試験だった。
「試験の結果次第では、本当にゲームチェンジャーになるかもしれない」
そういう声は各所で聞かれた。トリスタンもこの実験には注目しており、結果次第では母国での征伐に使えないかと考えている。フランスだけでなく各国の大使館も水面下で動き始めており、期待値の高さが疑えた。
「まあ、ウチとしては特にやることはもうないんだがな」
「そうなんですか?」
「うむ。すでにライセンス契約は締結されたし、弾頭やパーツ類も注文された分はすでに納品済みだ。このプロジェクトはもうウチの手を離れた」
颯谷とそう話したのは、駿河仙具の会長である剛だ。今後、仙樹鋼製の弾頭とそれを使用するための銃器に関するプロジェクトは、国内の銃器メーカーと国防軍が中心になって進めていく。実験の実施が決まったことで、駿河仙具としては一区切りがついた格好だった。ただしまったく無関係になるわけではない。
「需要が本格化するのは実験結果が出てからになるんだろうが、現時点でもすでに引き合いがあるそうだ。とはいえあまり簡単に引き受けることもできない」
「素材の問題ですか?」
「まあそうだ。設備の問題もあるが、より深刻なのは素材だな。というわけで例の、仙樹の確保を目的とした新会社だが、話がまとまった。国内の銃器メーカー二社とウチで出資し合って新しい会社を設立する」
新会社の名称は「株式会社仙樹林業」。持ち株比率は銃器メーカーがそれぞれ35%で駿河仙具が30%になった。その話を聞き、颯谷はふと思ったことをこう剛に尋ねた。
「もしかして会社の設立がこのタイミングになったのって、瀬戸内異界のせいですか?」
「全部が全部というわけではないが、大きな理由の一つではあるな」
首肯して剛はそう答えた。仙樹は異界の中でしか生えてこない。異界の顕現は仙樹確保のチャンスでもある。今回顕現した瀬戸内異界にも仙樹は生えているだろう。東北で話をまとめてある駿河仙具はともかく、銃器メーカーは仙樹の在庫を持っていない。ぜひとも確保したいと考えるのは当然のことだ。
だがそのための体制が整っていなければ、せっかくのチャンスを無駄にしてしまいかねない。仙樹確保のための体制を整えるのは急務で、それがこのタイミングでの仙樹林業設立に繋がった、ということらしかった。
「それと、これも前に話したが、自社工場も用地が確保できた。これから本格的に動いていくことになる。ついては新会社への出資分も含めて、社債を五十億、引き受けて欲しい」
その金額が妥当なのか、颯谷には分からない。だが剛のことは信頼している。それで颯谷は社債を引き受けることに同意した。こうして瀬戸内異界の顕現は颯谷にも少なからず影響を与えることになったのである。
閑話休題。話を征伐隊に戻そう。征伐隊の中核となるのは、言うまでもなく氣功能力者たちである。前述したとおり、中国地方、九州地方、四国地方から能力者が集まり、また近畿地方からも多数の志願者が来た。
民間人の総数は186名で、この数だけで過去の征伐隊と比較してもかなりの大規模になっている。その理由は氣功能力の覚醒を第一目的とする、征伐隊初参加者が多くなったからだった。
これらの地方の能力者は、かつて大きく数を減らしたことがある。大分県西部異界第一次征伐の失敗のためだ。第一次征伐隊が全滅したことで、現役の能力者が一気に数を減らしたのである。
大分県西部異界は第二次征伐隊によって征伐された。ただ、第二次隊には初参加者がいなかった。これは激戦が予想される中で損耗率を下げるための措置だったが、そのために氣功能力者が新たに補充されないという問題もあった。
各武門や流門で新人たちが育ってきてはいる。だが彼らの大半は氣功能力者ではない。大きく減ってしまった現役氣功能力者の補充は、まだされていないのだ。ともかく地域の武門や流門を維持していくうえで、これら新人たちの覚醒は急務だった。
加えて、もう一つ理由がある。仙具だ。前述したとおり今回のモンスターは大中小の鬼で、船に乗る彼らは「鬼族水軍」と呼ばれることになった。そう「水軍」である。彼らは武装していたのだ。つまり一級仙具を確保するまたとない機会、と考えたのである。
ただ瀬戸内異界は「仙具を確保するのに最適の異界」というわけではなかった。フィールドの約七割が海で、しかも対敵船舶を想定して軍艦を投入するのだ。海に落ちてそのまま行方知れずになる仙具は多いだろう。仮にモンスターが陸地に上がってきたとして、仙具は海水で濡れてしまっている。放っておけば錆びてしまうに違いない。
また海水に濡れるリスクというのは、敵の仙具だけでなく味方の仙具にも同じことが言える。錆びてしまうリスクを勘案し、貴重な一級仙具の使用を躊躇った武門や流門は少なくないという。それで大量に用意された物資の中には、錆対策用品が多数含まれていたとかなんとか。
まあともかく。このように様々な思惑はありつつも、四月中旬、征伐隊はいよいよ瀬戸内異界に突入した。
数馬「ちなみに社債は一門や親しい武門、流門にも引き受けてもらっています」
剛「身内やそれに近いところにまずは金を流さんとな」




