冬の勉強会
「聞いてません……」
「ははは、やっぱりかぁ」
週明けの月曜日の放課後。久しぶりの勉強会が開催され、颯谷は木蓮と一緒に今日の復習や明日の予習を行っている。その勉強会の最中に、颯谷は木蓮に今週末また剛が泊まりに来ることを話したのだが、やはり彼女にその話はまだ伝わっていなかったらしい。唖然とすると木蓮を見て、颯谷は苦笑を浮かべた。
「どうする? 木蓮もまた一緒に泊まる? じいちゃんは構わないって言っていたけど」
「非常に、魅力的なお誘いではあるのですが……。そう何度もお邪魔してはご迷惑になりますし、今回は遠慮します」
とても、とてもとても悩まし気な顔をしながら、木蓮はそう答えた。本音を言えば、泊まりに行きたい。そして剛だけが泊まるのはなんかイヤだ。だが冷静に考えて、木蓮が桐島家に泊まる理由はない。
まして今は真冬。誰かを泊めるとなれば、寝具は当然冬用を用意しなければならない。夏のようにタオルケット一枚というわけにはいかないのだ。そういうことを考えれば、宿泊人数を増やすのは颯谷や玄道の負担が大きい。木蓮はそう考えたのだ。
「オレもじいちゃんも気にしないけど……。まあ、分かった」
「本当に叔父様がすみません……」
「大丈夫、大丈夫。それでさ、鍋にしようと思うんだけど、なんか良いレシピ知らない?」
「お鍋ですか? じゃあ、見繕っておきますね」
颯谷が「よろしく」と頼むと、木蓮は「はい」と言って微笑んだ。それから彼女は言いにくそうにしながら「あの……」と呟いて口ごもる。颯谷が「どうしたの?」の声をかけると、木蓮は覚悟を決めたのか、彼に向って頭を下げてこう言った。
「実は、颯谷さんに謝らないといけないことがあります」
「え、なに?」
「叔父様が、颯谷さんの身辺調査をしていました。その、ウチの会社の大株主だから、と言って」
「あ~、へぇ……、そうなんだ……。そっか、そういう感じなのか……」
颯谷がまず感じたのは、嫌悪感ではなく純粋な驚きだった。「身辺調査」という単語は、ドラマなんかでたまに出てくる。ただ自分には縁遠い言葉だと彼は思っていたし、木蓮の話を聞いてもその感覚は変わらない。
自分事だと分かってはいるが、なんだか画面越しにそれを眺めているような気分なのだ。だからなのか、拒否感よりも先に自分がドラマの当事者になったかのような、そんな印象を受ける。要するにちょっと現実感がなかったのだ。それで彼は軽い感じでこう答えた。
「ん~、まあ、別にいいよ。そんな、知られて困るような秘密もないし」
颯谷がそう言っても木蓮の表情はさえない。まだどこか思いつめた表情をしている。颯谷が首をかしげると、彼女は絞り出すようにしてこう言った。
「それで、その、叔父様に言われて、私もそれを見てしまったんです……」
「ありゃ」
「その、ご親族のことも……」
「ああ、なるほどね」
木蓮がずっと話しづらそうにしていた理由がわかり、颯谷は苦笑を浮かべながらそう答えた。彼はノートの上にシャーペンを投げ出すと、「う~ん」と唸りながらイスの背もたれに体重をかけて教室の天井を見上げる。数秒そうして考えをまとめてから、彼はうつむく木蓮にこう言った。
「さっきも言ったけど、別に良いよ。知られて困る事でもないし」
「ですが……、不愉快では、ありませんか?」
「そりゃまあ、見ず知らずの相手に知られたっていうならそうかもだけど、木蓮なら別に良いよ。言いふらすことなんてしないでしょ?」
「それは、もちろんですっ」
「じゃあ大丈夫。もう終わったことだし」
「終わったこと、ですか……?」
「そ。もう決着はついていて、蒸し返すつもりもない。終わったことだよ」
「…………」
怒りを感じさせない落ち着いた声で颯谷は語る。それを聞いて、しかし木蓮はどう答えて良いか分からず黙り込んだ。そんな彼女の様子に小さく笑ってから、颯谷はさらにこう話した。
「ただそうだなぁ……、できたら従姉妹にはもう一回会いたい、かなぁ……」
「従姉妹さん、ですか?」
「うん、そう。そもそもなんでじいちゃんが気付いたのかって言うとね、従姉妹が知らせてくれたからなんだって」
「そうなんですか?」
「うん。あとでじいちゃんが教えてくれた。あの時は話なんてできなかったから、もう一回会って、ちゃんと礼が言いたいなとは思ってる」
「……いつか、いつかきっと、言えると思いますよ、お礼」
「そうだといいなぁ。ただ一つ問題があってね……」
「問題、ですか?」
「実は……、あんまり良く覚えてないんだ、従姉妹の顔」
「まあ」
情けない様子でにへらと表情を崩した颯谷に、木蓮は口元を隠して笑った。その笑い声のおかげで、暗くなっていた雰囲気がパッと明るくなる。ひとしきり笑ってから、木蓮は話題を変えて彼にこう尋ねた。
「話は変わりますけど、颯谷さんは進学先をもう決めましたか?」
「具体的にどこの大学とは決めてないけど、工学部じゃなくて自然科学系にするつもり」
「変えたんですか?」
「うん。最近なんか仙具関係でいろいろやっているせいか、そっちに興味が向いちゃってさ。氣功能力の研究とかやっているところなら、征伐関係にも役立ちそうだし」
役に立たない勉強はする意味がない、とは颯谷も思わない。だが役に立つならそれに越したことはないだろう。それに颯谷がこれまで氣功について学んだのは主に千賀道場で、当然ながら武芸関連の事柄に偏っている。大学でそれとは違う視点から学ぶことができたら、また新たに見えてくるモノがあるのではないか。彼はそんなふうにも考えていた。
「なるほど……。それは良いかも知れませんね」
「でも実際さ、武芸以外に氣功能力って使い道があるのかな」
「これは駿河家の話ですけど、引退した能力者の方で、鍼灸治療に氣功能力を使っている方がいらっしゃいますよ」
「そんな使い方が……」
「はい。なんでも、現役時代にそれ用の針を手に入れられたとか」
「え、じゃあ一級仙具の針使ってるんだ……。何か凄そう……。それで効果のほどは?」
「わたしはお世話になったことがないので詳しくは分かりませんが、でも評判は良いみたいですよ。効くって聞きます」
「それってプラセボ込みじゃないかなぁ」
少々懐疑的に颯谷はそう言った。鍼灸治療の効果を否定するつもりはない。だが「氣功能力を使っているからより良く効く」というのはどうなのだろう。どうにも「効いて欲しい」という願望込みのような気がしてならない。そう思い苦笑を浮かべる颯谷に、木蓮は微笑みながらこう言った。
「じゃあ、これが颯谷さんの研究テーマですね」
「そうきたか……。まあ、それも良いか。……木蓮は法学部だったよね。具体的にどこの大学かはもう決めたの?」
「あ、はい。幾つか候補はあるんですけど、ここなんてどうかなって思っています」
そう言って木蓮がスマホで見せてくれたのは、この県内にある私立の大学だった。立地はやや街の外れだが、そのおかげで敷地面積は広く、複数の学部を有している。また近くに駅があるので交通の便は悪くなさそうだ。
さらに見ていくと工学部や理学部もあり、特に理学部には氣功能力について研究している研究室もあるという。以前、進路の話をした時に颯谷は「木蓮と同じ大学がいい」的なことを言っていて、彼女はどうやらそれを覚えていたらしい。
そのことに気付いて颯谷はこそばゆい気分になったが、同時にちょっと心配にもなる。それで彼は木蓮にこう尋ねた。
「ここの法学部って、どうなの? その、実績とか、評判とか」
「悪くないみたいですよ。設備は整っているようですし、司法試験の合格率も平均以上でした」
「そっか……」
そう呟き、颯谷は改めて木蓮のスマホに視線を向けた。彼としては「どこそこの大学でなければイヤだ」というこだわりがあるわけではない。だから木蓮が妥協してこの大学を選んだのでなければ、同じこの大学を志望するのはアリだ。
「良いね。オレもここを第一志望にしようかな」
「本当ですか!?」
「うん。悪くなさそうだし。まあ、公立を度外視する訳じゃないけど」
「それで良いと思います。わたしも第二第三志望がありますから」
そう言う木蓮に一つ頷いてから、颯谷は彼女にスマホを返した。こうして彼の進学計画に具体性が出てきたわけだが、学力が伴わなければ絵に描いた餅に過ぎない。計画を実現可能なものにするためにも、彼は真剣にノートと向き合った。
下校時間が迫り、二人は勉強道具を片付けて教室を出た。木蓮はダウンのアウターを着込み、首にはマフラーをグルグルと巻く。手袋は一昨年颯谷からプレゼントされたモノ。着ぶくれした木蓮の姿が可愛らしくて、颯谷は彼女から見えない位置で小さく笑った。そして彼女に感づかれるまえにこう提案する。
「コンビニに寄らない? 頭使ったらお腹空いた」
「……、行きっ、……ます」
葛藤が滲む声で、木蓮はそう答える。彼女があまりにも悩ましい声を出すものだから、颯谷はとうとう声を出して笑ってしまった。顔を背けて笑う彼を、木蓮が不満げにねめつける。颯谷は何とか笑いを収めると、こう言って彼女をなだめた。
「ゴメン、ゴメン。奢るからさ」
「知りません」
ツンッとすまして木蓮は歩き出す。もっとも彼女の機嫌は靴を履き替えるころには回復していて、二人は並んで校門を出た。駅へ向かう道すがら、二人はコンビニに立ちより、レジ脇の中華まん(ピザまんは「中華」に含まれるのだろうか……?)を二つ購入。約束通り支払いは颯谷がまとめてした。
「そう言えば、ちょっと思い出したんですけど……」
コンビニの駐車場、二人で並んで中華まんを食べていると、木蓮がそう颯谷に話しかける。彼が木蓮に視線を向けると、彼女は中華まんをもう一口食べてからさらにこう話した。
「叔父様が颯谷さんに、『実印を作ってはどうか』と」
「実印? 実印って?」
颯谷がそう尋ねると、木蓮が実印について簡単に説明する。そして剛が実印を作るように勧める、その理由も。それを聞いて二度三度と頷いてから、颯谷はこう答えた。
「分かった。作っとく。で、どこで買えばいいんだろ……?」
「普通なら判子屋さんですけど……」
「ネットで買えるかな……?」
そう言って颯谷は某ショッピングアプリを開いた。検索して見ると、どうやらネットで注文可能らしい。素材も色々あって、彼はちょっと感心した。
「なになに……、水牛の角に、あ、チタン製なんてものある。ちょっとカッコいい……」
ともあれネットで買えることは分かった。アレコレ考えるのは家に帰ってからにしようと思い、颯谷はスマホをズボンのポケットにしまった。
中華まんを食べ終え、ごみを店内のごみ箱に捨ててから、颯谷と木蓮はまた駅へ向かって並んで歩き始める。雪が降り始めて、二人は傘を広げた。桜の咲く季節はまだ少し先だ。
颯谷「毛布がないなら温身法を使えばいいじゃない」
木蓮「それを言ったら、革命を起こすしかないじゃないですか……!」




