駿河家の新年2
分家の挨拶も落ち着いた一月三日。その夜に木蓮は剛の書斎に呼ばれた。彼の書斎は寝室とは別の部屋で、駿河邸の中でも隅に位置している。部屋の中は本やら書類やらがたくさんあり、ちょっと古本屋のようなにおいがした。
「呼び出して悪かったな。まあ、座りなさい」
「はい」
剛の書斎にイスはない。木蓮は用意されていた座布団に正座して座った。当主に呼び出されてやや緊張した面持ちの姪に、剛はまず雑談から始めた。
「家の中、ずいぶん雰囲気が変わっただろう?」
「はい。その、何て言うか、騒がしくなったっていうか……」
やや言いにくそうにしながら、木蓮はそう答えた。赤ん坊が一人いるだけで、家の中の雰囲気はがらりと変わる。泣き声が響けばどうしたのかと思うし、気付けば赤ん坊の仕草を目で追っている。正直、ちょっと落ち着かない気分だった。
「ははは、木蓮が生まれたときもそうだったぞ。家のどこにいても泣き声が聞こえたな。それにあの時は桜華も正之もまだ子供だったから、今よりさらにうるさかったもんだ」
「記憶にございません」
ツンと澄まして木蓮がそう答えると、剛は楽し気に喉の奥を鳴らして笑った。そして「まあ、そうだろうな」と言ってから、ニヤニヤしてさらにこう続ける。
「それよりこの機会だ。おむつの替え方でも習ったらどうだ。将来的に必要だろう」
「お、おむつ替えが女の仕事だなんて、時代錯誤ですわ、叔父様」
「正之も覚えるそうだぞ。あいつの場合、木蓮よりも必要性が高いからな」
「……ということは、お兄様もそろそろ?」
「ああ。今年の秋ごろに式を予定している」
大きく頷きながら、剛はそう答えた。式というのは言うまでもなく結婚式のこと。つまり正之もついに結婚するのだ。剛の第一子の誕生と合わせ、駿河家がバトンを次世代へ繋げるための準備を着々としているように思え、木蓮は不意に時の流れを強く感じた。
「受験勉強が忙しくなるころに悪いとは思うが、まあ頭に置いておいてくれ」
「勉強のほうは大丈夫だと思います。そもそも、わたしの結婚式ではありませんし」
「後学のために参加してみるか? 颯谷は武門のやり方には疎いだろうしな」
「そ、それより叔父様。ご用件はなんですの?」
「ん、ああ、これだ」
そう言って剛は木蓮に一通の封筒を手渡した。A4の用紙を折らずに入れられるサイズの封筒で、受け取ってみると重くはないが厚みがある。木蓮は視線で「これは?」と問うたが、剛は直接には答えず「読んでみろ」と言った。木蓮は小首をかしげつつ封筒から書類を取り出す。そして表題を見るや非難の声を上げる。そこにはこうあった。
【身辺調査報告書 対象者:桐島颯谷】
「叔父様!」
「駿河仙具の大株主だぞ。身辺調査は当然のことだ」
「それは……! そうかもしれませんが……!」
「まあ颯谷本人については心配していないし、玄道さんも実際にお会いして問題ないと判断した。だからソイツは颯谷というより、その周囲、特に同居していない親族に関する調査だな」
剛がそう言うと、木蓮はいくぶん冷静さを取り戻した。颯谷の親戚関係については、実は彼女も気にはなっていたのだ。
木蓮と颯谷が知り合ってから、もう二年以上になる。しかし颯谷が自分の親戚について話したことは一度もない。むしろその話題を避けているようにすら感じられる。
一体、彼の過去に何があったのか。それが気にならないわけではない。だがそこにはきっと、異界顕現災害に巻き込まれ両親を亡くしたことが大きく関わっているに違いない。そう思うと、迂闊に踏み込むことは躊躇われたのだ。
その答えが、たぶんこの報告書の中には書かれている。木蓮はそう直感した。そして同時に彼女は躊躇いも覚える。
知りたくないと言えば噓になる。だがこんな形で知ってしまって良いものなのか。颯谷の過去と内心に土足で踏み込むことにならないか。過去を知ってしまった自分のことを、彼はどう思うだろうか。それが心配だった。
しかし、だ。こうして剛が呼び出して書類を見せたということは、彼は「木蓮も知っておいた方が良い」と判断したということなのだろう。それに彼女が見ても見なくても、剛が颯谷の身辺調査をさせたという事実に変わりはない。「それならば」と思い、木蓮は覚悟を決めてページをめくった。
結論から言うと、颯谷には玄道以外に付き合いのある親族はいなかった。父方母方の両方で、親戚付き合いは断絶していると言ってよい。そしてその発端となったのは、やはり彼が九歳の時に巻き込まれた異界顕現災害だった。
この災害で彼は両親を亡くした。それで異界が征伐された後、親族の間で問題になったのは誰が彼を引き取るのかということ。葬儀が終わったあとの親族会議は、重苦しい雰囲気で始まった。
颯谷の母には兄がいたが、彼は両親と同居しており、また自身にも子供らがいるということで、この甥を引き取ることには難色を示した。「桐島の家の子供は桐島の家で面倒を見ればよい」。どうやらそれが本音であるらしかった。
そのようなわけで、最終的に颯谷を引き取ったのは父方の叔父、つまり玄道のもう一人の息子で、彼の父の弟にあたる人物だった。彼はこのとき結婚し大阪で暮らしていて、とある会社を経営していた。
颯谷を引き取った彼は、しかしこの甥を養育することはせず、すぐに児童福祉施設へ入所させている。その一方で颯谷の両親が遺した、保険金を含む多額の遺産は彼の管理下に置かれていた。
孫が施設に入れられたことを知り、玄道は激怒。彼は大阪へ出向いて次男を厳しく詰問した。この時点で次男は颯谷の両親の遺産をすべて現金化しており、そしてそのお金は経営不振に陥っていた会社の運転資金に充てられていた。
『もう、いい。お前はあの子の、兄夫婦の遺産をそうやってすべて使ってしまったのだから、もういいじゃろ。お前とは親子の縁を切る。ワシの財産はすべて颯谷にやる』
玄道がそう言ったのか、木蓮には分からない。だが報告書によれば、この直後に玄道は次男と絶縁して親子の縁を切り、法的な親子関係を解消している。そして彼は颯谷を引き取って東北へ帰ったのである。
こうして颯谷は玄道と暮らすようになった。同時に親戚付き合いも疎遠、いやほぼ完全になくなったのである。以降、二人は東北の地で静かに暮らしていくことになる。そしてあの運命の日を迎えるわけだ。
父方の叔父はともかく、母方の伯父との交流もなくなったのは、やはり彼が颯谷を引き取ることに否定的だったからだろう。遺産については権利を主張しなかったので一定の良識はあるのだろうが、玄道としてはやはり感情的なしこりが残った、ということだ。
颯谷が莫大なお金を手に入れると、それに誘われるようにして自称「親族」が多数現れた。いずれもお金の無心や保証人になって欲しいという話ばかりだったが、玄道はそのことごとくをはねつけている。彼にしてみればこんな時だけ寄ってくる「親族」などハイエナと変わらなかったのだろう。
報告書を読み終えると、木蓮はやるせない想いのためにため息を吐いた。現役の女子高生、人生の中でも花の盛りだというのに、ひどくくたびれて幾つか年を取ったような気さえする。彼女は深く息を吸って、消耗した生気を回復した。
(颯谷さんが……)
颯谷がこれまでずっと幸福に暮らしてきたわけではないことは分かっていた。だがこうしてその詳細を知ってしまうと、ただひたすらに苦いという気持ちしかない。
『世界を見渡せばもっと壮絶な過去を抱えた人はたくさんいる』
そういう意見もあるだろう。正直な所、似たような話は幾つも転がっている。だが不幸とは比べて判断するようなモノではないはずだ。
閑話休題。もう一度深呼吸をしてから、木蓮は報告書を封筒に戻した。そして剛に真っ直ぐな視線を向けてこう尋ねる。
「それで、この報告書を受けて、叔父様は何をどうお考えなのですか?」
「そうだな……。まず駿河仙具としては、大株主に厄介な親族がいないのは朗報だな。ヘンな干渉は心配しなくて良いだろうし、仮にだが颯谷の親族を名乗る人物が現れても、相手をする必要はないとこれで確信できた」
剛のその言葉に木蓮は神妙な顔をして頷く。こう言ってはなんだが、駿河仙具はいま勢いがありすぎるのだ。国内のみならず海外からも注目を集めている。それは良い事なのだが、金の臭いを嗅ぎつけて群がってくる者たちも多いのだ。
今のところ、剛も数馬も身元のはっきりした人間しか雇っていない。身内優先の面もあるが、これは危機管理の一環でもあるのだ。ではそんな時に大株主たる桐島颯谷の親族を名乗る者が現れたらどうか。
「どさくさに紛れて、ということもあるからな」
皮肉げな剛の言葉に木蓮も頷く。もちろん大株主なのは颯谷なのだから、その親族にまで気を使う必要は、本来ならない。だが現実問題、そうも言えないのが実際のところだ。それくらい親族が持つ影響力というのは強い。
だが今回の調査で、颯谷に強い影響力を行使できそうな親族は、玄道以外にはいないことが分かった。そして今後も増えはしないだろう。その「親族」は颯谷が一番辛かったときに助けようとはしなかった者たちだからだ。それが今更すり寄ってきたところで、玄道は激怒するだろうし、本人も白けるだけだろう。
「ただそうだな……。ニセの委任状を作って関係先を回るなんてことをされても面倒だ。この機会に実印を作らせたほうが良いかもしれん」
「実印ですか?」
「ああ。今後何かとあった方が良い場面はあるだろう。ウチとは関係なくてもな」
剛はあご先をしごきながらそう言った。実印とは要するに役所に届け出た判子のこと。本来、重要な書類に捺印を求められた場合には実印を押す必要がある。
颯谷はまだこの実印を作っていない。巨額の報奨金の受け取りは国が相手だったのでマイナンバーだけで済んだし、駿河仙具の株式も発行時点で彼の名義だったので、実印は必要なかったのだ。
だが今後はどうなるか分からない。そもそも特権持ちは矢面に立つことが多い。一般論だが、実印が必要になる場面は少なくない。この機会に実印を作らせておくのは、悪くない考えのように思えた。
「それとなく、話してみてもらえるか?」
「分かりました」
「もし実印を作ったら、印鑑証明をこちらに一部送るように伝えてくれ」
剛の言葉に木蓮は大きく頷いて答えた。もちろん実際のところ、印鑑証明で確認するより電話の一つでもした方が早いだろう。だが万が一ということもある。異界征伐に赴いているなど、連絡がつかない状況は幾つか想定されるのだから、確認手段は複数あった方が良いだろう。
「あとはそうだな……、思っていた以上に孤独だと思った」
報告書の入った封筒に視線を向けながら、剛はやや沈痛な顔をしてそう言った。「両親を亡くした孤児は孤独だろう」とは思っていた。しかし実際には考えていた以上に孤独だった。本人たちがどう思っていたのかは分からないが、社会の隅に押しやられて生きてきたという印象だ。そして誰も手を差し伸べはしなかった。
(まあ、それで終わりはしなかったわけだが)
剛は内心でそう呟き苦笑を浮かべた。両親を亡くした颯谷のことを、親族らは「お荷物」としか見なかっただろう。だが今現在はどうか。正直、颯谷にとっては親族らのほうが「お荷物」だろう。
ただそうは言っても、人との繋がりというのはまた別の話でもある。一度施設に入れられた経験があるからなのか、颯谷は自分から積極的に人との繋がりを広げていくタイプではない。むしろ人間関係で言えば基本的には受け身だ。そしてそれが「孤独」の一因でもあるのだろう。
「今更お金なんて、颯谷は必要ないだろう。今のアイツに必要なのは人との関わりなんじゃないか。そう思ったな」
「それなら大丈夫です」
木蓮のその声に剛は顔を上げる。叔父ににっこりと微笑みながら、彼女はこう言った。
「わたしが颯谷さんを孤独にしませんから」
剛「金に感情に血のつながりに。親族というのはままならんものさ」




