狐火
クーラーの効いた部屋で机の上にテキストを広げ、夏休みの宿題をやりながら、颯谷は悩んでいた。勉強とは全く関係のないことで、悩んでいた。
(あれは一体、何だったのか……)
シャーペンを回しながら考えるのは、和歌山県東部異界で戦った三尾の妖狐のこと。特にその最期のことだ。
(キスされた……)
三尾の妖狐にキスされたことは誰にも話していない。だから木蓮にもバレていない。いや、違う。そうじゃない。キスされたことは別にもう良いのだ。
(あのとき……)
あのとき、青白い炎が颯谷と三尾の妖狐を取り囲んだ。妖狐はその炎に呑まれて消滅したが、しかし颯谷には何のダメージもなかった。ただ、氣が大幅に減っていた。思い出せば出すほど、不思議な現象である。
あの時、颯谷は何もしなかった。ということはあの炎を操っていたのは三尾の妖狐で、炎は狐火だったことになる。あの妖狐は狐火を使って、いわば自決したのである。だが消費したのは颯谷の氣だ。
起こったことを素直につなぎ合わせるなら、「妖狐が颯谷の氣を使って狐火を出し、その狐火で自決した」ということになる。だがそこには二つ、大きな疑問点がある。
まず「イレギュラーとはいえ、怪異が自決などするのか?」という疑問。だが実際、目の前で起こったのだから「する」としか答えようがない。
それに「アレは自決ではない」と考えるなら、「では一体何だったのか?」という新たな疑問が生まれる。もっとも「自決だった」と結論するなら、今度は「何のために?」という疑問に繋がる。颯谷は一旦この疑問を棚上げした。
二つ目の疑問点は、「妖狐が颯谷の氣を使った」という部分。それはつまりモンスターが人間の氣を操作したことになる。そんなこと、本当にあり得るのだろうか。逆にこう考えてみるのはどうだろう。氣が大幅に消耗していたとはいえ、それは本当に狐火によるものだったのか。
(仮に……)
仮に、狐火ではない、他の何かのために消耗したとする。ではその「他の何か」とは何だろうか。あの時、颯谷は呆気に取られて氣功能力を使うどころではなかった。それでも何かしたというのなら、無意識のうちにやったことになる。
あの状況下、無意識に何かするとすれば、防御行動だろうか。例えば氣鎧を全力で使ったというのはどうだろう。だが颯谷はすぐに首を横に振った。
アレは一分にも満たない時間だった。全力の氣鎧とはいえ、そんな短い時間であんなに氣を消費したりはしない。それに全力というのは、普通意識しなければ出せないものだ。
もしくは「使った」のではなく、「奪った」のであればどうだろう。ゲーム的に言うならドレインだ。ただ無理やり奪うのであれば、それを感じ取れそうなもの。だがあのときそういう感じはしなかった。
キスに気を取られていた、というのはあるかもしれない。ただ言わせてほしいのは、それでもそんな気配はまったく感じなかったのだ。もっとも「妖狐のほうが一枚も二枚も上手だった」という可能性もある。
だがそんなに上手なら、颯谷はそもそも勝てなかったのではないだろうか。それに「奪う」というのは敵対的な行動だ。奪った氣で颯谷を攻撃するならともかく、自爆でもなく自決するというのはちぐはぐだ。
しかもあれだけの狐火の中、しかし彼は髪の毛一本も燃えていなかったのである。これはもう、妖狐が焼かれないように気を使ってくれたとしか思えない。そんな相手がわざわざ「奪う」なんて真似をするだろうか。
反証が成立せず、颯谷は「う~ん」と唸った。傍から見れば勉強で悩んでいるように見えるだろう。だが実際のところ、彼が悩んでいるのはまったく別のことである。
どれだけ考えても、「妖狐が颯谷の氣を使って狐火を出し、その狐火で自決した」という結論しか出てこない。「使った」のではなく「奪った」のだとしても、颯谷を攻撃しないのであればあの三尾の妖狐は一体何をしたかったのか。結局のところ、最大の問題点はそこだ。
「分かんねぇ……、分かんねぇな……」
颯谷はそう呟いた。繰り返すが勉強のことではない。あの時、三尾の妖狐は身体の中心を貫手によって貫かれており、つまりすでに致命傷を負っていた。そのまま死ぬことを潔しとせず、狐火によって自ら散ることを選んだのだろうか。だとすればその姿は誇り高く思える。ただ「モンスター」とは結びつかない。
「そういうらしくないところも含めて、“イレギュラー”ってことなのかねぇ……」
ぼんやりと天井を見上げながら、颯谷はそう呟いた。結局考えても答えは出なかったが、案外それが正解に一番近いような気がする。どのみち模範解答は確認しようがなく、颯谷はこれ以上考えるのはやめにした。かといって勉強に集中するわけでもない。
彼が次に考え始めたのは狐火のこと。狐火はただの青白い炎ではない。氣を燃やす炎で、それっぽく言うなら妖術の類だ。彼がたまに使っていた炎とは、色だけでなく根本からして違う。
颯谷が出せる炎というのは、氣を炎に変換したものだ。ただの炎なので、氣を燃やしたりはできない。術者が氣の供給を止めれば消えてしまうが、それはあくまでも「氣が炎に変換されなくなった」から消えるのだ。
一方で狐火は、前述したとおり氣を燃やす。そしてこの氣というのは、術者本人の氣だけではない。敵の氣さえ燃やしてしまうのだ。防ぐ方法は、一旦氣を完全にシャットアウトしてしまう以外に思いつかない。
もっともあの三尾の妖狐はイレギュラー。今後、同じようなモンスターが現れる可能性は、無いとは言わないがかなり低いだろう。より有効な対策がどうしても必要、というわけではない。颯谷が考えているのは別のことだった。
「狐火、使えないかな……」
三尾の妖狐は狐火でスケルトンを焼き払っていた。颯谷の個人的な感想になるが、とても良く燃えていたと思う。つまり狐火はモンスターに対しても有効なのだ。いや有効どころか特効かもしれない。どちらにしても使えるようになれば、今後の異界征伐でかなり役に立つだろう。
とはいえ使いたいと思って使えるモノではない。そもそもモンスターが使っていた技、もしくは術だ。「人間に扱えるのか?」という疑問もある。だが颯谷は僅かながらも可能性はあると思っている。
その根拠はコアの欠片である。コイツはかつて土偶が使っていた衝撃波を学習して、颯谷はそれを使えるようになった。であればあれだけ間近で見たのだから、「狐火ももしかしたら」と思ったのである。
とまあ、あれこれ考えても答えはでない。こういうのは実践あるのみだ。そう思い、颯谷はシャーペンを放り出して机の引き出しからコアの欠片を取り出した。それを左手に握り、彼は浅く目を閉じた。脳裏に描くのは常闇の異界で見た狐火の青白い炎。
「……っ!?」
突然、すぐ近くに気配を感じて振り返った。周囲を見渡すが、当たり前に部屋の中は彼一人だけ。颯谷は呼吸さえ忘れていたので、部屋の中にはエアコンの駆動音だけが響いている。一瞬だけ感じた気配も、今はもうどこにもない。
(一体……)
一体、何だったのか。颯谷は首を傾げ、内心で警戒を高める。それからコアの欠片を左手に握りなおし、もう一度狐火の青白い炎をイメージした。不意の気配は感じない。代わりに反応したのはコアの欠片だった。
どうやらアタリらしい。颯谷は心の中で「よしっ」と呟いた。そしてその反応をかき消さないようにしながら、慎重にコアの欠片へ氣を込めていく。すると徐々に反応が大きくなっていった。
あとは土偶の衝撃波をコピーしたときと同じだ。颯谷は握った左手を右手で包み込み、さらに人差し指を一本立てる。そしてコアの欠片が放出し始めた氣功的エネルギーをその指先へと導いた。幾何学的な回路が形成される。そこへ氣を流し込むと、指先にポッと小さな炎が灯った。青白い、狐火である。
「よしよしよしよし……!」
狐火を眺めながら、颯谷は口元に笑みを浮かべてそう呟く。それから彼は一度狐火を消した。狐火は氣を燃やす。下手をしたら自分が火だるまになりかねない。十分注意が必要だろう。それを認めつつも、彼の興奮はなかなか収まらない。
狐火のコピーに成功すると、次々にやってみたいアイディアが湧いてくる。居ても立ってもいられず、颯谷は勉強を放り出して検証を始めた。宿題? 後でやります、後で。誰にともなくそう言い訳してから、彼は妖狐の眼帯を取り出してそれを装着した。
「ふう……、よし」
一つ息を吐いて集中力を高めてから、颯谷はもう一度狐火をイメージしながらコアの欠片へ氣を込めた。コアの欠片から氣功的なエネルギーが放出される。凝視法を使っても見えなかったソレが、妖狐の眼帯を使うとはっきり見えた。
感覚的には幾何学的な紋様だと思っていたのだが、実際に見えたのはなんというか流線的な紋様だった。いくつもの曲線が複雑に重なり合っている。どことなくだが、妖狐の眼帯の表面の紋様と似ているような気がした。
その紋様だが、少しネットで調べてみたところ、「流水」という和柄によく似ていた。水が流れる様子を現した図柄だという。狐火のイメージが強い妖狐のドロップに、水を象徴するような図柄があしらわれているというのはちょっと変だなと思い、首を傾げた記憶がある。
ちなみに土偶から覚えた衝撃波の回路も妖狐の眼帯で確認してみたのだが、こちらは直線的でカクカクとした印象だ。また狐火と比べてシンプルである。こんなに違うのかと思ったが、よくよく考えるまでもなく衝撃波と狐火ではかなりモノが違う。ならばそのための回路が大きく異なるのも当然だろう。
さて紋様についてだが、これが眼帯だけなら、「変だな」で終わったかもしれない。だが狐火を使うための回路(便宜上そう呼んでいるだけだが)も同様だ。ということにはこの二つには何か関係や関わりがあるのだろう。
妖狐の眼帯と狐火。この二つを結びつけるのは、言うまでもなく三尾の妖狐だ。ただ、だから何なのだという話でもある。括りが大きすぎて、何も分からないのと同じだ。颯谷は眼帯を付けたまま「う~ん」と天井を見上げ、それからふとあることを思い出した。
「鉄扇があったな……」
三尾の妖狐のドロップは眼帯のほかにもう一つあった。それが鉄扇である。眼帯のほうがあまりに便利というか、ちょっと衝撃的な性能だったので、鉄扇のことはすっかり忘れていたのだ。ただ回収はしたし、家に持って帰ってきたことも覚えている。今は保管室の押し入れの中だ。颯谷は眼帯を外して椅子から立ち上がると、仙具の保管室へ向かった。
保管室から鉄扇を持ってくると、颯谷は椅子に座ってからそれをしげしげと眺めた。当たり前だが、鉄扇はズシリと重い。閉じた状態なら、ほとんど金属のかたまりと変わらないだろう。籠手の上からとはいえ、これで叩かれてよく骨が折れなかったものである。
鉄扇を広げてみる。まず目に入ったのは大きな破れ目。脇差を突き刺した跡だ。広げた扇の真ん中に穴が開いている。扇は模様や飾り気がなくて黒一色の、見方によっては無骨な作り。鉄扇とはそういうモノなのかもしれないが、それをあの三尾の妖狐が使っていたというのは、颯谷にはちょっと意外だった。
「よし」
そう呟いてから、颯谷はまず鉄扇に軽く氣を流してみる。さすが一級仙具だけあって、氣の通りは悪くない。妖狐の眼帯を装着しての確認もしてみたが、氣の流れのよどみはやはり少なかった。ただ穴の周囲には流れの悪さを感じる。
(こっちは……、なしか……)
流水の図柄のことである。鉄扇に氣を流してみても、その流れが流水の図柄を描くことはなかった。妖狐繋がりでもしかしたらと思ったのだが、どうやら外れたらしい。
もしも氣の流れが流水の図柄を描いていれば、それはつまりこの鉄扇に氣を流すだけで狐火が使えることを意味する。つまりこの鉄扇は特級仙具といえたわけだ。もっともそんなことはなかったので、この鉄扇は普通の一級仙具なのだろう。
(いや、もしかしたら……)
もしかしたら特級仙具であった可能性はある。ただ穴が開いたことでその力は失われた、というわけだ。その可能性が頭に浮かび、颯谷は苦笑を浮かべた。そして「可能性、可能性の話だから」と呟いて自分を慰める。
ちょうどその時、颯谷のスマホが着信音を鳴らす。新しいメッセージが入ったのだ。アプリを開いて確認してみると、メッセージを送ってきたのは木蓮。彼女が送って来たメッセージを読んで、彼は「よし!」と歓声を上げた。
【静岡県東部異界の征伐完了! 叔父様も無事です!】
メッセージにはそう書かれていた。颯谷もすぐに返信を送る。
【タケさんが無事で良かった! あとで本人にもメッセージを送っておくよ】
【お願いします。叔父様も喜ぶと思います】
【追伸:宿題、ちゃんとやってますか?】
颯谷はにっこり笑って既読スルー。その夜、無事にオンライン勉強会が開催された。
颯谷「シャーペンは躍る。されど宿題は進まず」
木蓮「進めますよ?」
颯谷「はい……」




