二つの異界
「叔父様に赤紙が来ました」
木蓮が颯谷にそう告げたのは、六月の半ばのことだった。異界が顕現したのは静岡県の東部で、一部は山梨県との県境をまたいでいた。
異界の直径は12.2km。大規模寄りの中規模異界だ。残念ながら顕現時に内部に人が取り残されたらしく、異界は当初群青色で、五日後に黒色化した。そして木蓮の叔父である剛に赤紙が来たのである。
赤紙が来ても、剛は動揺を見せなかった。前回参加した異界征伐からすでに二年以上が経過している。ニュースで異界の顕現を知った時から覚悟はできていたし、赤紙が来なければ志願するつもりだった。彼は自分のことよりむしろ妊娠中の妻の美咲のことを気遣ったが、彼女もまた武門の女として(内心はともかく)気丈に振る舞った。
「慣れない?」
颯谷にそう尋ねられ、木蓮は躊躇いがちに頷いた。そして無言のまま颯谷の胸に額を押し当てる。小さく震える彼女の身体を、颯谷は優しく抱きしめた。身内が死地へ行こうというのだ。不安や心配を覚えない者はいないだろう。
何も知らない連中は、「何度も繰り返せばなれるんでしょ」というかもしれないが、とんでもない。何度も繰り返していれば、必ずや殉職者が出るのだ。身内の、近しい人間の死に慣れることなんて、あるはずがないではないか。
(オレの時も……)
自分の時も、木蓮はこんなふうに心配してくれていたのだろうか。そんなふうに考えると、颯谷は少しこそばゆい。そして「死ねない理由が一個増えたな」と思うのだった。
さて赤紙が来ると、剛はすぐさま動き始めた。彼は特権持ちであるから、今回の征伐で本隊のリーダーになることはほぼほぼ確定である。それを完全に確定させるための調整が行われ、また彼のいわば子飼いの戦力となるべき駿河一門からの志願者が募られた。
そういう調整の傍ら、剛はさらにもう一つのプロジェクトを動かしていた。国防軍も関係しているプロジェクトで、一言で言えば征伐隊の中に医療チームを含めようというのだった。そして国防軍が希望するなら、その医療チームの護衛部隊も本隊で引き受ける、という計画だった。
計画自体は以前から準備していたものだが、言うまでもなくこれは異界内での能力者の育成を見据えたプロジェクトだ。医療チームを同行させることで継戦能力を向上させ、異界内である程度長期間活動できるようにする。これが第一の目的だ。
さらに医療チームの護衛という名目で国防軍の選抜チームを受け入れ、最低限彼らが氣功能力を覚醒させることを保証する。正直、異界童貞の集団などお荷物以外の何物でもないが、選抜チームが持つ意義と可能性が大きいことは理解できる。医療チームの派遣とトレードオフなら納得できた。
また剛はこの医療チームをエサにして、いつもなら複数のグループに分かれてしまう征伐隊を、今回は本隊に一本化した。これにより戦力を最大限集中して運用することが可能になり、各個撃破のリスクを減らすことができた。
前述したとおり、剛は異界内での能力者の育成を視野に入れていたが、しかしそれをやると決めているわけではない。異界の内部の状況や出現する怪異如何では、呑気にレベル上げなどやっている余裕はないかもしれない。
ただそれでも医療チームを同行させることには意味があるだろう。損耗率、特に死亡率が下がることは期待できる。また困難な異界であるなら、本隊に戦力を集約できた意義はなおさら大きいはずだ。護衛となる選抜チームも、育成は難しいかもしれないが、氣功能力を覚醒させておくだけでも意味はある。
剛がそういう調整を進めている間にスタンピードが発生。現れたモンスターは小鬼と中鬼だった。それを知らされ、彼はレベリングを今回の征伐の目的の一つとすることを決意。その方針を各方面に伝え、意識の統一を行った。
そして行われた全体ミーティング。事前に調整しておいた通り、剛が本隊のリーダーとなった。彼は医療チームとその護衛部隊が同行すること、また今回はレベリングを意図しており、そのため征伐はある程度の期間に及ぶ可能性が高いことを説明。そのうえで戦力を本隊に一本化することを提案し了承された。
国防軍の選抜チームが同行することで大きな変化があったのは、持ち込む銃器の分野だろう。能力者は基本的に一般人であるから、許可を取った上でも異界に持ち込める銃器には大きな制限がある。具体的には対物ライフルまでしか使うことができない。
だが今回は生粋の軍人たちがいる。彼らが扱う銃器については基本的に制約がない。それで対物ライフルはもちろんとして、グレネードランチャーや装甲車などに固定して使用する機関銃なども持ち込まれることになった。
もちろんこれらの銃器は、主や守護者に対しては無力だ。しかし中鬼くらいまでなら通用する。そして今回はその中鬼が出現することは確定しているのだ。ならばある程度は役に立つだろうと思われた。
それから忘れてはならないのは医療関係の物資である。今回はほぼほぼ初の試みということで、どんな物資がどれほど必要になるかは全くの手探り状態。ともかく四肢が千切れた状態の患者が運ばれてくることを想定して準備が行われた。ちなみに医療チームのメンバーも氣功能力の覚醒を希望しており、剛はそちらも請け負ったのだった。
さらに剛にはもう一つ、考えていることがあった。これまで使い道が不明とされていた仙具の検証である。これは颯谷が行った実験に触発されてのことだった。ひとまず駿河家に保管されていたヨダレの付いた巻物は持っていくとして、ただどうせやるなら何かあると分かっているモノがあった方が良い。それで木蓮は剛からのメッセージを颯谷にこう伝えた。
「颯谷さんが異界に持っていた例の巻物を貸して欲しい、と叔父様が」
「いや、まあ別にいいけど……」
颯谷は苦笑しながらそう答えた。もともとそういう話だったし、巻物を貸すことに否やがあるわけではない。ただそれくらいの用件なら、わざわざ木蓮を間に挟むのではなく、剛が直接連絡しても良かったのではないか。軽い気持ちでそう呟いた彼に、木蓮は少し悲しげな顔をしながらこう言った。
「まあ、颯谷さんはわたしとお話するの、イヤですか?」
「えっ、あ、いや、そういうことではなくてですね、木蓮さん……」
「はい。冗談です」
颯谷が焦った様子を見せると、木蓮はすぐにそう言ってコロコロと笑った。一方で颯谷は内心で冷や汗をぬぐう。恋人関係というのはこんなにスリリングなものなのだろうかと考え始め、いやそれは今はいい。
そのあと、颯谷は木蓮ともう少しおしゃべりをして、それから家に帰って例の巻物を押し入れから出した。この巻物は仙具なのだが、異界の外ではただの白紙の巻物でしかない。だが異界の中で氣を込めてやると、中に炎のような紋様が現れるのだ。
その紋様がどんな意味を持っているのか、現状ではまったく分からない。サンプルが颯谷一人分しかなく、しかも写真に保存などもしていないからだ。だからこの巻物に何かあるというのも、今のところ颯谷がそう言っているだけにすぎない。
だから剛が異界の中であれこれと検証してくれるというのなら、颯谷としても大歓迎だった。あの紋様が一体何を意味しているのか、彼も興味がある。何か分かったらぜひ教えて欲しい。後で剛にそうメッセージを送っておこう。彼はそう思った。
「あ、いや、木蓮に頼むか」
同じ轍は踏まないぞ、と颯谷は小さく呟いた。ちなみに件の巻物は、郵便局に行ったら速達で送れるということだったので、速達でお願いした。
剛からは次の日に受け取ったというメッセージが来た。それも木蓮経由で。ちなみに彼女はさすがにちょっと面倒くさそうにしていて、「次からは直接連絡を取り合ってください」と頼んだのだった。
こうして剛は静岡県東部異界に突入した。レベリングを目的の一つとしているため、征伐はある程度の期間に及ぶ予定である。長引いた場合のことも考え、食料は200人を基準にして三か月分を持ち込んだ。
国防軍の選抜チームが持ち込んだ武器弾薬も膨大で、後で聞いた話によれば、兵士の一人は同僚から「どこかの内乱でも鎮圧に行くのか」と笑われたらしい。ともかく皆、気合十分。一番槍が内部に変異がほとんどないことを伝えると、征伐隊は続々と異界の中へ入っていったのだった。
征伐隊が突入を開始してから一時間後。異界のフィールドは群青色になった。もはや何人たりとも手出しはできないし、中をうかがい知ることもできない。群青色のフィールドだけが、中でまだ戦っている人がいることの証拠である。
前述したとおり、この度の征伐はある程度長引く予定で、実際長引いた。一か月が過ぎても征伐は終わらず、異界のフィールドは群青色のまま。レベリングを含めた征伐が上手くいっているのかいないのか。それが分からないのはもどかしい。ただそのもどかしさを吹き飛ばすような事態が起こった。
七月の末、また新たな異界が現れたのである。場所は石川県能登半島。異界の直径はなんと20.8kmもあった。文句なしの大規模異界で、歴代でもトップクラスの大きさだった。
当然ながら多数の民間人が巻き込まれ、顕現当初から異界は群青色だった。概算だが、閉じ込められた民間人の数は五千人を超えるとか。大災害と言ってよい。
ただその一方で、「今回は征伐隊が結成されないかもしれない」という話は当初から聞かれていた。閉じ込められたその中には、武門があれば流門もあり、つまり彼らが征伐を行ってしまうだろうと考えられたのだ。
「タケさんたちが知ったら、驚くかもね」
能登半島異界のことが話題に出たとき、颯谷は木蓮にそう言った。内部に取り残された能力者たちが征伐を目指すのなら、そんなに時間はかけたくないだろう。かつての駿河家がそうだったように、早期の征伐を目指すはずだ。
静岡県東部異界はまだ征伐されていない。だから能登半島異界のほうが先に征伐されてしまう可能性は十分にある。その場合、剛らは自分たちの知らない間に異界が一つ現れ、そして征伐されていたということになるわけだ。そいつは確かにビッグニュースだろう。
ともかく能登半島異界は大きい。大きいがために被災者の数も膨大になった。ただ同時に大きいことで被災者の中には能力者も多数含まれた。このことは前向きに捉えて良いはずだし、一般の被災者にとっては大きな希望だろう。
ただ能力者たちは悲愴な決意を固めているのではないか。颯谷や木蓮などはそう思う。一般人の被害を減らすため、彼らは決死の覚悟で征伐を敢行するだろう。そのおかげで助かる一般人は多いだろう。だがそのために死んでしまう能力者も、また確かにいるはずなのだ。
「だからこその敬意と尊敬、か……」
颯谷がそう呟くと、木蓮は小さく頷いた。颯谷の頭に浮かんだのは、剛から度々連れて行ってもらうラーメン屋のこと。あそこの大将は「駿河さんとこにはお世話になっているから」と言っていた。
それはつまり「異界顕現災害に巻き込まれたときに助けてもらったから」という意味なのだと、剛は言っていた。そしてだからこそ駿河家はこの地域で敬意と尊敬を得られているのだ、と。
少し前、荒木国防大臣が辞任した。颯谷に短期間のうちに二度も赤紙が来た件について、全国の武門や流門が一斉に抗議し、国防大臣の辞任を求めたからである。その原動力となったのは要するに武門や流門が持つ票田で、彼らが票田を持ちえるのはそれぞれの地域で敬意と尊敬を勝ち得ているからに他ならない。
つまり颯谷は彼らの敬意と尊敬を借りたのだ。そして前述したとおり、その敬意と尊敬は彼らが彼ら自身の血で贖ったものと言ってよい。もちろん彼らにも行動を起こす理由はあった。ただなんというか、彼らが血を流して築き上げたモノを自分は軽々しく利用したのではないかと、颯谷はそう思ったのだ。
「次は颯谷さんが力になればいいんですよ」
「……そっか、うん、そうだね」
にっこりと微笑んだ木蓮の言葉に、颯谷は納得した様子でそう答えた。さて能登半島異界のことだが、この異界の厄介なところはその大きさだけではなかった。現れた位置もまた、問題だったのである。端的に言えば、異界は半島を南北に分断してしまったのである。
南側は良い。大変だったのは北側だ。ありとあらゆるライフラインが寸断された、と言ってよい。またスタンピードへの備えも必要だ。それで国防軍が出動して海側から上陸。住民への支援と防衛線の構築を行った。
一方でいわゆる奥能登の住民を全員半島外へ避難させることはされなかった。国防軍が展開したこともあり、奥能登の全域が危険とは判断されなかったのだ。住民たちも避難せずに済んだことは基本的に喜んだが、しかしライフラインが寸断された生活は大変だった。
これは後で聞いた話だが、政府内には「奥能登の住民を全員半島外へ避難させるべき」という意見もあったという。だが受け入れ先の問題もあり、最終的には全員の避難は行われなかった。加えてさらにもう一つ理由があり、つまり政府は異界内部に取り残された能力者たちが征伐を行うだろうと見込んでいた、というのだ。
妥当な判断ではあるのだろう。だがそれを聞いた時、颯谷は何とも言えない気分になった。能力者たちの覚悟や献身を、まるで当然のモノのように扱われたように感じたのだ。そしてそれはやっぱりちょっと不愉快だった。
まあだからと言って何をするわけでもないのだが。顕現から七日後、能登半島異界は征伐された。駿河家の例と比べると時間がかかったように思えるが、それはやはり異界が大きかったせいだろう。
報告書によれば、決死隊に志願した能力者は全部で68名。このうちおよそ七割が損耗と数えられた。非能力者を含めた全死亡者数は553名。ただし桁が一つ違っていた可能性もあることを考えるなら、内部にいた能力者たちは最善を尽くしたと言ってよいだろう。そう思いながら、颯谷は報告書のページを閉じるのだった。
剛「なんなら突入前が一番忙しい」




