幕間 世界史2
1929年10月24日木曜日。ニューヨークのウォール街にある株式取引所で株価が一斉に暴落した。世界恐慌の始まりである。この世界的大不況のなか、ドイツではナチ党とヒトラーが台頭。世界は第二次世界大戦へと転がり落ちていくのである。
イギリスやフランス、アメリカなど、広大な国土と植民地を有する「持てる国」はブロック経済を構築。排他的な経済対策を取った。ただしこれは国際貿易を縮小させることになり、世界恐慌を悪化させたとも言われている。
これによりドイツやイタリアなどには「持たざる国」として振る舞う口実を与えた。まずドイツは再軍備による軍需拡大で失業問題を解決。さらにこの時、異界への対応に苦慮していたイタリアへ部隊を派遣して征伐を代行。異界由来の資源を確保した。
「今のドイツに必要なのは血と天鋼である!」
かの鉄血宰相ビスマルクを真似てそう豪語した政治家もいたとかいなかったとか。ともかくドイツのこういう動きにイギリスやフランスは神経を尖らせたし、一方でドイツとイタリアの結びつきはより強くなっていった。
またインドネシアの宗主国であるオランダでは、非常に厳格な経済政策がとられた。要するに緊縮政策であり、特に軍事費はやり玉に挙げられた。そのようなわけだから日本がインドネシアで行っていた異界の征伐オペレーションはむしろ歓迎された。
確かに征伐オペレーションのアウトソーシングはコストカットに一役買ったと言ってよい。ただしそれは異界由来の資源を自力で確保できないことも意味した。第二次世界大戦勃発後、オランダはすぐドイツに蹂躙されたが、そこにはそんな事情も関わっていたのかもしれない。
では日本はどうだったのか。この当時、日本はすでにいくつかの植民地を有していたし、また国内には異界由来の資源もあった。ただ経済基盤はいまだ貧弱で、明治恐慌と言われる不況に陥った。
ドイツやイタリアと似た状況と言ってよい。ただこの二か国が国外へ市場や資源を求めたのに対し、日本はむしろ内向きの政策を取っていく。その大きな要因となったのは言うまでもなく異界だった。
まず日本はイギリスに依頼されてインドネシアで異界の征伐を行っていた。これにより資源の確保は一定程度なされていたし、何よりイギリスのブロック経済に片足を突っ込んでいるような状態になっていた。
イギリスはイギリスでドイツの軍需拡大を強く警戒。特にイタリアで天鋼を確保したことによる海軍力の増強に神経を尖らせており、これに対抗するべくイギリスもまた天鋼の確保をこれまで以上に進めた。
このあおりを食ったのがアメリカだ。アメリカは日本がインドネシアで征伐した異界から採掘される天鉱石を、イギリス経由で手に入れていた。だがイギリスが自国で確保する天鉱石の量を増やしたことで、アメリカへ輸出される分が減少したのである。
この分を補うためにアメリカが目を付けたのが日本だった。アメリカは日本に対し、天鉱石の輸出枠拡大を強く求めた。外貨を欲した日本はこれに応じ、自国の分を後回しにしてまでアメリカに向けて天鉱石を輸出したのである。ちなみにアメリカには日本の天鉱石をいわば横取りすることで、日本の海軍力をそぐ目的があったともいわれている。
こうして日本はアメリカのブロック経済にも片足を突っ込んだような状態になった。ただしこれにより、アメリカの対日貿易赤字はさらに拡大。国内を中心に日本脅威論は根強く広がった。
一方で日本だが、このころ日本は海外の植民地を持て余すようになっていた。異界由来の資源、特に天鉱石によって外貨を得ていたわけだが、そのためにはまず異界を征伐しなければならず、その際にはどうしても血が流れる。「日本人が血を流して手に入れた外貨を、どうして海外の植民地に投じなければならないのか」という具合の主張が巻き起こったのである。
経済学的な視点で言えば、植民地の開発を行うことは正しかったかもしれない。だがこういうのは感情論であるから、理論整然と説明を尽くしても納得してもらえるようなものではない。またこの当時の日本の状況からすると、ただの感情論と決めつけてしまうこともできなかった。
この当時の日本の主な産業と言えば繊維産業である。つまり重化学工業の分野においては、いまだ欧米に遠く及ばない。だったらせっかく稼いだ外貨、この分野に投じるべきではないかという意見が出るのは当然だった。
またインドネシアのことで日本は気付いてしまった。つまり異界関連の利権さえ得られれば良いわけで、そのために植民地の統治までするのは負担が大きい、ということに。その視点で見ると、例えば朝鮮半島には異界がほとんど現れず、そういう意味ではうま味の少ない植民地だった。
もちろん、朝鮮半島には豊富な地下資源がある。また市場としての価値もある。ただ資源は異界由来の資源で代替できる物が多かったし、市場としては投じている金額の方が大きい。すると日本としては「どうしても必要」というわけではなくなる。
また朝鮮半島はソ連と国境線を接しており、当然ながら軍事的な緊張感は高い。ソ連は拡大路線を進んでいたから、日本も朝鮮半島には一定の部隊を置かなければならず、そのためにはコストがかかった。また豊臣秀吉の朝鮮出兵以来、現地住民らの反日感情も強く、そういうわけで日本は政治的にも朝鮮半島を持て余し気味だった。
ただその一方で、日本が朝鮮半島から撤退すればソ連が南下してくることは目に見えている。安全保障上、それは受け入れがたい。理想を言えば、ソ連を牽制できる勢力に朝鮮半島に入ってもらいたい。そこで日本が目を付けたのがアメリカだった。
日本はアメリカに対し、朝鮮半島の統治権の売却を打診したのである。その額、なんと当時の日本の国家予算並。アメリカは当初難色を示したが、その際日本はこんなことを話したという。
曰く「日本はこの資金を使って、国内で大規模な設備投資とインフラ整備を行うつもりである」
それを聞いてアメリカもピンッと来た。設備投資にしろインフラ整備にしろ、いろいろと機材が必要である。その機材をアメリカから輸入させれば良いのだ。そうすれば対日貿易赤字は一挙に黒字へ転換するだろう。
こうして日本とアメリカは朝鮮半島の統治権の売却に合意。主な条件は以下のとおりである。
一つ、支払いは七年間の分割払い。
一つ、日米安全保障条約の締結。
一つ、日本の市場開放を進めること。
まず支払いについてだが、アメリカは当初10年間の分割を主張したが、日本は5年間を主張。交渉の結果7年間になった。二つ目の日米安全保障条約はやはりソ連を睨んでのモノ。いざという時には日本も一緒に戦うという保証をアメリカが求めたのだ。
そして三つ目である日本の市場開放だが、これはアメリカの譲れない要求だった。日本の市場が開放されなければ、巨額の資本を回収できないからだ。ただ完全に開放してしまうと、日本はアメリカの経済的属国になってしまう。それで事前に説明してあった重化学工業分野の設備投資とそれに伴うインフラ整備に関連した分野で市場開放を進めた。
とはいえこれにより、大量のアメリカ製品が日本へ入ってくるようになった。その中には文化や娯楽に関連したものも多く、日本はそうしたアメリカンカルチャーにどっぷり浸かっていくことになる。その影響は政治体制にもおよび、後年の大日本帝国憲法改正へとつながっていくのだが、それはまた別のお話。
また市場開放を進めたことで、日本へのアメリカ企業の進出が相次いだ。安全保障条約を結んだこの国を拠点に、大陸や半島向けの製品を製造するのが目的だった。これらの企業の技術支援などもあり、日本は工業力を急速に高めていくことになる。またインフラ整備は全国規模へと発展していき、田中角栄の「日本列島改造論」でその到達点を示されることになるのだが、それもまた別のお話である。
ともあれこうして日本は朝鮮半島から手を引き、その統治権はアメリカへ移った。日米安全保障条約も締結され、日米はズブズブの関係になったと言ってよい。アメリカは日本に対してアジア太平洋地域へこれ以上進出しないよう重ねて求めたが、完全に国内重視の政策へ舵を切っていた日本にとって、それはもうあまり重要なことではなくなっていた。
さて、西ヨーロッパへ視点を移そう。1933年1月、ドイツでヒトラーが首相に就任。明くる1934年8月には総統となり、1935年3月に再軍備を宣言した。そして1939年9月にドイツ軍がポーランドへ侵攻。イギリスとフランスがドイツに宣戦したことにより、第二次世界大戦が勃発したのである。
イタリアは基本的にドイツと歩調を合わせた。ヨーロッパ戦線には積極的に関わらなかったものの、エジプトやギリシャに侵攻。植民地の拡大を図った。また異界由来の資源を提供することでドイツ軍を支えた。
当初、ドイツ軍はフランス軍とイギリス軍を圧倒。パリを陥落させ、ロンドンに大空襲を行った。またドイツはユダヤ人を迫害。多くのユダヤ人がアメリカへ逃れた。その際の中継地の一つとなったのが日本だった。
ここで登場するのが、かの杉原千畝である。杉原はユダヤ人にいわゆる「命のビザ」を発給。日本はドイツと同盟を結んでいなかったので、外務省がビザ発給を妨げることはなく、むしろアメリカのユダヤ人社会を意識して後押しした。
またこの時、ユダヤ人社会の声に押されたアメリカはソ連に対し、杉原のビザ発給を妨げないよう要請。これにより杉原は誰にも妨げられることなくビザを発給し、このビザによって合計一万人以上のユダヤ人が命を救われたと言われている。
さて、1941年8月。イギリスに乞われる形でアメリカは第二次世界大戦に事実上参戦した。国内向けには「民主主義を守るため」と説明したが、国民からの支持は弱かった。それで当初は武器の貸与や少数の派兵などにとどまった。
状況が変わったのは、ヨーロッパの東部戦線においてドイツの旗色が悪くなったことである。これを好機と見たのは事実だが、同時にソ連の戦後の影響力が増大することを嫌ったとも言われている。ともかくアメリカは全面的に参戦し、ノルマンディー上陸作戦が行われた。
ただしこの時、アメリカでは孤立主義を叫ぶ勢力が一定程度の力を持っていた。彼らからすれば、アメリカ人がヨーロッパで血を流すことは馬鹿らしいことだ。当時の大統領もその声は無視できず、アメリカの派兵は中途半端なものになりかけた。
そこでアメリカが目を付けたのが日本だった。アメリカは日米安全保障条約を盾に日本にも派兵を要請。将来的なソ連の脅威を考えたときに日本はこれを断り切れず、アメリカ経由でヨーロッパへ派兵することになった。
この時、アメリカが眉をひそめたのが、日本兵の貧相な装備だったと言われている。日本は確かに重化学工業分野への投資を積極的に行っていたが、せっかく建てた工場が異界顕現災害に巻き込まれるなどのトラブルもあり、日本兵の装備はアメリカ兵と比べていまだに貧相だったのだ。
「よろしい。装備はこちらで用意する。兵士だけよこせ」
アメリカはそう言ったとか言わなかったとか。ともかく日本は最終的に10万人規模の兵士をアメリカへ送った。これにより国内の戦力が減り、異界征伐のオペレーションが民間へ移行していく契機となった。
アメリカに到着した日本兵は、特にユダヤ人コミュニティから熱烈な歓迎を受けた。そしてアメリカ製の銃を手に日本兵はノルマンディー上陸作戦に参加。パリの解放にも尽力し、連合軍の中で最大の死傷者を出し、そして最大級の功績を上げた。「パリは日本人の手によって解放された」と言われる所以であり、フランスはヨーロッパ最大の親日国になった。
面白くなかったのがアメリカである。アメリカはノルマンディー上陸作戦のために物資等を大量に提供している。いわばお金を出したわけだが、しかし評価されたのは日本軍。アメリカ軍の面子は丸つぶれだった。
このままで終わるわけにはいかない。そう思ったアメリカ軍はまず、損害の大きさを理由に日本軍をパリに留め置いた。そしてアメリカ軍が主力となってベルリンへと進攻。ドイツ軍の激しい抵抗を排除してベルリンを占領し、ハーケンクロイツの旗を踏みにじったのである。これはソ連軍がベルリンへ迫る僅か三日前のことだった。
ベルリンが陥落したことでドイツは無条件降伏。イタリアもこれ以前にすでに降伏しており、ここに第二次世界大戦は終結した。ただアメリカ軍はソ連軍がベルリンに入ることを断固として許さず、このために両国の緊張関係は高まり、この後の冷戦構造へとつながることになった。
大戦が終結すると、ヨーロッパではドイツ人への報復の嵐が吹き荒れた。彼らは一夜にして迫害する側から迫害される側へ転落したのである。ベルリンにおいても略奪や婦女暴行が横行した。
ベルリンの病院のこの当時の記録によれば、生まれた赤ん坊の父親の人種の欄にアメリカ人、イギリス人、フランス人などと書かれていることが多い。だがその中に日本人と書かれた欄がないことは、ドイツと日本の関係において幸運だった。
ただしこれは日本人が特別に品行方正だったからというわけではない。日本軍はそもそもベルリンには入らなかった。ベルリンが陥落したとき、日本軍はパリでその復興支援にあたっていたのだ。そして終戦を迎えると、そのままアメリカ経由で帰国の途に就いたのである。一説によれば「米を食いたい」という声が大きかったからなのだとか。この辺りの話は冗談半分に聞いておいた方が良いだろう。
作者「第二次大戦後のドイツ人への迫害は実際に起こりました。逆にユダヤ人は手厚く保護されたとか。因果応報という気もしますが、戦争って嫌ですね」




