歪み1
「さて、と。あんまりゆっくりとはしていられないからな」
一休みして体力が幾分回復すると、颯谷はそう呟いて頭を切り替えた。いま優先するべきは征伐のこと。イレギュラー、あの三尾の妖狐を倒したことで、異界の中心部も探索が可能になったはずなのだ。
もちろん中心部には主や守護者がいる可能性が高い。だから油断はできないが、そういうやつらを見つけることができれば、征伐の達成が一気に近づく。颯谷は「よし」と呟いて立ち上がった。
背嚢を担ぎ、左手にポータブルバッテリーを持つ。そして右手に仙樹の杖を握った。妖狐に痛打された右手にはまだ鈍痛が残っている。だが痛みはもうずいぶん引いた。大スケルトンくらいなら問題なく倒せるだろう。最後に一つ頷いてから、彼は妖狐と戦った草原へ向かった。
草原は静まり返っていた。あれほど無数に湧いて出て来ていたスケルトンは、今は影も形もない。颯谷はやや拍子抜けしつつ、LEDライトで周囲を照らした。ともかくここにヌシがいるか、核がある可能性が高いのだ。彼は探索を始めた。
しかし何も見つからない。およそ二時間、草原を歩き回ったが、見つかったのは数本の仙樹のみ。仙果を食べて氣を回復させることはできたが、しかし成果がなくて気が滅入りそうである。
さらにおかしなことがもう一つ。怪異の出現率だ。基本的にモンスターの出現率は異界の外縁部ほど低く、中心に近くなるほど高くなる。つまり中心部であるここは出現率が高いはずなのだが、この二時間で倒したのはわずかスケルトンが三体のみ。外縁部並みか、それ以下だ。
「ああ、くそ……。こりゃ、ホントにハズレか……?」
仙樹の根元に座り込み、颯谷はうんざりした口調でそう呟いた。異界の中心部でモンスターの出現率が高くなるのは、たぶんそこにヌシ(もしくはコア)がいるからだ。逆に言えば、モンスターの出現率が低いここにコア(もしくはヌシ)はないのではないか。そう考えると、彼はズンと疲れた気がした。
ひとまず、また仙果を食べる。コアにしろヌシにしろ、この辺りに手がかりがないなら、すぐにでも別の場所を探さなければならない。バッテリーは有限だからだ。しかし分かってはいても、颯谷は動く気になれなかった。中心部へ来れば征伐はもう目前だと思っていたのだ。しかしその期待は外れた。落胆は大きい。
(どうすっかなぁ……)
真っ暗な空を見上げながら、颯谷は心の中でそう呟く。どうするもこうするも、別の場所をまた探索してみるしかないのだが。しかしそのやる気が起きない。周囲が明るければ気分も上向いたのかもしれないが、こうも真っ暗だとどうしてもふさぎ込み気味だった。
明かりを消してひと眠りしようかと思ったその時、ふと彼の目が迷彩服の胸ポケットに留まった。そこから取り出したのは三尾の妖狐が装備していた金属製の眼帯。颯谷は改めてそれをまじまじと観察した。
金属製で、色は赤銅色。磨き上げられた表面には光沢があり、そこに川の流れのような模様が浅く彫られている。形はラグビーボールのような紡錘形。どことなく和風を感じさせるデザインだ。両目を完全に覆うタイプで、穴などは開いていない。ということは、あの妖狐は視覚に頼っていなかったのかもしれない。そしてさらに彼はあることに気付いた。
「紐が、ない……」
この眼帯を身に着けるための紐がないのだ。千切れてしまったわけではない。紐を取り付けるべき場所がそもそもないのだ。かといって、例えば耳に掛けるようなタイプでもない。眼帯自体は、多少の膨らみはあるものの薄い金属板と言ってよく、このままでは装着できそうにない。ではあの妖狐はどうやってコレを装備していたのだろうか。
「……?」
颯谷は首をかしげながら、妖狐が着けていたのと同じように、その金属製の眼帯を目元に装着してみる。もちろん手で押さえながらだ。目は開けているが、当たり前に視界は真っ暗だ。「まあそうだよな」と思い彼は苦笑したが、そのときふと大切なことを思い出す。
(そうだ、コイツも仙具だ……)
仙具とは氣を通してこそ真価を発揮するもの。それを思い出して、颯谷はその眼帯に氣を通してみた。変化は劇的だった。
視界が一気に広がる。暗闇に閉ざされていたはずの景色がはっきりと見えた。しかもただ見えているだけではない。凝視法を使った時のように植物などから漏れ出す氣が、凝視法を使った時よりもさらに鮮明に見えた。
それだけではない。周囲一帯の、普通なら見えるはずのない場所まで見える。自分の背後や岩陰になっている場所まで見えるのだ。いや、この感覚を見えると言ってよいのかは分からない。だが解かる、視えるのだ。
「……っ」
あまりの情報量に、颯谷の脳が悲鳴を上げる。ズキリと鋭い頭痛がして彼は眼帯から手を放したが、しかし眼帯は彼の顔から離れない。くっついてしまっているのだ。そして微量とはいえ自律的に氣を吸い上げながらその機能を発揮し続けている。
たまらず目を閉じると情報量は減ったが、しかしそれでも周囲の様子は頭の中に流れ込んでくる。彼は恐ろしくなって、強制的に氣を遮断した。それでようやく、眼帯は彼の目元から剥がれ落ちた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
激しい運動どころか一歩も歩いていないというのに、颯谷は肩を上下させて荒い呼吸を繰り返す。同時に体中から汗が噴き出した。彼は震える手で金属製の眼帯を拾い上げる。そしてこう呟いた。
「コイツは、ヤバい……」
日本語の「ヤバい」は最近その意味する範囲が広くなりすぎていて、一言聞いただけではそれがポジティブな意味なのかネガティブな意味なのか判断がつかないことが多い。だがこの場合、誰かが彼の言葉を聞いていたらその意味は明白だっただろう。彼は目を爛々と輝かせ、口の両端を吊り上げていたのだから。
実際、彼は喜んでいた。この眼帯があれば、バッテリー残量を気にすることなく探索が行える。事実上の時間制限がなくなり、颯谷はかなり気が楽になった。またあれだけ視えたのだ。ヌシにしろコアにしろ、探すのはかなり容易になったと思っていい。
改めて彼は眼帯を装着する。眼帯の下で目をつぶり情報量を制限してやれば、今度は周囲を見渡す余裕があった。LEDライトは相変わらずついていて、眼帯をしていても光は光として認識できるが、重要度はあまり高くない。「石がある」というのが分かるのと同じように、「光がある」と認識できる。それだけだ。
目を閉じた状態だと、認識できるのはだいたい直径五十メートルくらいの範囲。ただ前後左右が均等に視えるわけではなく、やはり前方の方が良く視える。颯谷は「少し狭いな」と思ったが、もしかしたら明るい場所ならもっと視えるのかもしれない。
次いで「ふう」と深呼吸してから、颯谷はいよいよ目を開けた。途端に頭の中へ流れ込んでくる情報量が跳ね上がる。頭痛がしてくるが、それでも今まで見たことのない世界の姿に彼には魅了された。そしてその世界の中、彼はある異質なモノを視つけた。
「……っ!」
颯谷は一度目を閉じる。彼は頭痛が治まるのを待ってから、もう一度眼帯の下で目を開けた。そして今度はさっき見つけた“異質なモノ”へ意識を集中する。するとまるでカメラのズームのように、それがよりはっきりと見えた。
それが何なのかを考える前に、颯谷はポータブルバッテリーを動かしてLEDライトがその方向へ向くようにする。もちろん直接照らせるわけではないが、これで方角は分かる。地図とコンパスを使えば、もう少し分かることもあるだろう。
「ふう……」
目元から眼帯を外すと、颯谷は一度息を吐いた。この眼帯は確かに良く視える。だが視えすぎる。目を開けていると情報量が多すぎて、現状では数分が限界だ。扱いに慣れれば、いや習熟すれば違うのかもしれないが、今のところはそのための練習法すら思いつかない。
「ま、それは後で考えるとして」
颯谷はそう呟いて頭を切り替える。まず考えるべきは、さっき見つけた“異質なモノ”について。彼はそれを頭の中で思い出す。それはまるで空間の歪みのようだった。
「行くかぁ……? 行くしかないよなぁ……」
颯谷は少しイヤそうにそう呟いた。あからさまに不穏というか、ちょっと何が起こるのか分からなくて不安だ。しかし今のところ手がかりはコレしかない。彼はため息を吐いてから地図とコンパスを取り出した。
方位を確認し、それから彼は眉間にシワを寄せる。現在地が分からない。仕方がないので、異界の中心から少しずれた位置と仮定して線を引いた。線が伸びた方向には山がある。そう言えばあの空間の歪みも、山の斜面のすぐ近くにあるように視えた。
(で、どう行くか、だけど……)
颯谷は険しい顔をして地図を睨む。線を引いた先に人工的な道路は通っていない。つまりほぼ未開の山林へ分け入ることになる。しかもこの暗闇の中を、だ。とはいえ颯谷はそれほど絶望的には考えていなかった。
理由はやはり三尾の妖狐がドロップした金属製の眼帯。コレを使えば、たぶん異界の中どこにいてもあの歪みは確認できる。目標をいつでも確認できるのだから、暗闇の山林を迷って彷徨うことはせずに済むだろう。
「よし、じゃあ行くか」
地図とコンパスを背嚢に片付けると、颯谷はそう呟いて立ち上がった。迷彩服の胸ポケットに眼帯をしまう。それからポータブルバッテリーを持ち上げて彼は歩き始めた。
歩き始めて二十分もすると、徐々に傾斜が出始めた。獣道もないような山林を、颯谷はLEDライトの明かりを頼りに進んだ。
時間を確認し、だいたい一時間ごとに眼帯をつけて空間の歪みの位置を確認する。歩いていれば、まっすぐ進んでいるつもりでもズレてしまうのは当たり前で、確認の度に彼は進路方向を調整した。
(あ、そうだ)
はたと思い付き、眼帯はつけたままにして、代わりにLEDライトを消す。実験とバッテリーの節約を兼ねて、眼帯を使って進んでみようと思ったのだ。使っていれば慣れるんじゃないかという思惑もある。
もちろん、眼帯の下で目は閉じておく。こうしておけば情報量が制限されて、負荷が少なくて済む。この状態なら結構長い時間使えるのではないかと思っていたのだが、しかし自分の見込みが甘かったことを颯谷は思い知らされた。
眼帯を使い始めてからおよそ三十分。颯谷は目の奥がずぅんと重く感じ始めていた。目は瞑っているはずなのに、目の奥が重くなるというのはどういうわけか。それでもまだ大丈夫だと思い、彼は眼帯を使い続ける。
それからさらにおよそ三十分。颯谷は目だけではなく頭も痛くなっていた。鋭い痛みではなく鈍痛が脳幹の奥に響くかのように痛む。とうとう我慢しきれなくなり、「ダメだ」と呟くと彼は木の根元に座り込んで眼帯を外した。
「あぁ~、結構きついなぁ、これ……」
暗闇の中、手探りで眼帯を胸ポケットにしまうと、LEDライトも付けずに颯谷はそう呟いた。制限しているとはいえ、それでもまだ情報量が多いということなのだろう。この有様である。少し休んでからでなければ、歪みの位置の再確認もできそうになかった。
この眼帯、便利なことは間違いない。LEDライトを使うよりはるかに周囲の状況がよく分かるので、暗闇の中でも安心して歩ける。スケルトンが近づいてきてもすぐに分かるので、戦闘は今まで以上に楽だった。
だがほんの一時間使っただけでコレでは、LEDライトの代わりにはなりそうにない。暗闇の中、迷彩を使って休憩しながら、颯谷は顔をしかめた。時間制限からは解放されたと思っていたのだが、どうやらそんなに甘くはないらしい。
(きついなぁ……、時間制限の方がきつい……)
颯谷は心の中でそう呟く。例の空間の歪みのところまでなら、たぶんポータブルバッテリーのLEDライトが使える。だがもしその歪みがコアやヌシと無関係だったら。手持ちのバッテリーではほぼ間違いなく足りなくなるだろう。
LEDライトをまったく使えなくなった後のことを想像し、颯谷はちょっと不安になった。真っ暗な中を手探りで進むのは現実的ではない。ではこの眼帯を使いながら、休みやすみ探索を行うのか。それだとたぶん、今度は食料が足りなくなる。
(食料はまあ、仙果で何とかなるけど……)
颯谷は力なく笑った。何とかなるとはいえ気乗りはしない。他にもネガティブなことばかり考えてしまい、彼は「ダメだな」と呟いた。この感じは良くない。彼は自分に「どうせ仮定だ」と言い聞かせた。
「あれだけあからさまなんだ。何かしらの手がかりくらいはあるはず」
あえて声に出して、颯谷はそう呟く。あの空間の歪みがあからさまに怪しいことは明らかなのだ。征伐と何の関係もない、ということはないだろう。よしんばコアやヌシとは関係なかったとしても、例えばこの異界の極夜を終わらせるような、そんな仕掛けが隠されているかもしれない。そういう可能性だってあるのだ。
「まずはそこへ行く。その後のことは、それからだ」
颯谷は自分にそう言い聞かせる。そしてまずは身体を回復させることに集中した。
作者「今作の仮面枠……」
颯谷「今まで仮面枠なんて出さなかったくせに。それにこれは眼帯ですぅ」




