常闇の異界1
「賢吾ぉぉ! 貴様、どういうつもりだ!?」
真っ暗な異界の中、突入した槇岡武雄が最初にやったのは、一番槍を務めた親戚、青島賢吾を殴り飛ばすことだった。武雄は賢吾の胸倉を掴んで詰め寄る。武雄のヘッドライトが賢吾の顔を至近距離で照らした。
「お、落ち着いてくださいよ、武雄さん。今は確かに夜ですけど、昼夜が逆転しているだけかもしれません」
「お前の予想など聞いておらんわっ!」
唾を飛ばしながらそう怒鳴り、武雄は賢吾を突き飛ばした。尻餅をついた彼を見下ろしながら、武雄はさらにこう叫ぶ。
「一番槍の任務はなんだ!? 異界の中の様子を、可能な限り詳細に外へ伝えることだ! 内部が現在夜であるというこの重要な情報を、どうして伝えなかった!?」
「い、異界の中が夜になるなんて、珍しくもなんともないでしょう!? 当たり前のことだから伝えなかった、それだけですよっ!」
「馬鹿者がっ、それが通用すると思っているのか!? 外が昼で中が夜なら、それは最重要の情報だ! そのうえで征伐が可能であると判断したなら突入の承認を出せば良い! 違うか!?」
「…………っ」
「だがお前は夜であることを伝えてこなかった。なぜだ!?」
「……だ、だって、武雄さん。オレ、今回で五回目なんですよ……? 今の時点で夜だってことは極夜の可能性だってある。武雄さんだってそれを考えるでしょう? 突入が中止になったらオレは、オレは死んでしまう……!」
そう言って賢吾は涙を流し始めた。おおよそ想像したとおりの理由だ。だからこそ、武雄は怒りが収まらない。その怒りのままに、彼はこう怒鳴る。
「見くびるなっ! 一番槍が『突入』と言えばたとえ地獄であっても突入するのが征伐隊だっ! その覚悟が我々になかったとでも言うつもりか!?」
「……すいません、……すみません、武雄さん……!」
賢吾が涙を流しながら謝罪する。その様子を見下ろしながら、武雄は大きく息を吐いた。そしてこう告げる。
「ふう……、まあいい。突入はワシが止めた。後続は来ない」
「…………っ!」
「おい、まさかもう死んだつもりか。ワシは最後まで諦めんぞ。お前はどうだ、賢吾!?」
「はいっ、あ゛き゛ら゛め゛ま゛せ゛んっ!」
賢吾がだみ声で叫ぶと、武雄は満足そうにうなずいた。それから手を差し出して賢吾を立たせる。こうしてたった二人になった本隊は、それでも行動を開始したのだった。
§ § §
異界の中へ完全に突入すると、颯谷は当初の予定通りまず山頂を目指した。周囲は真っ暗だが、ポータブルバッテリーにはLEDライトがついているし、足元を照らせば登山道が見えるので道に迷う心配はない。ほんの一分か二分で、彼は山頂に到着した。
「さて、と。これからどうすっかなぁ……」
山頂に到着すると、ひとまず荷物を肩から下ろして、颯谷は苦笑気味にそう呟いた。当初の予定では、一時間後にここから確認した異界の様子を、無線中継器を使って他のグループにも伝えるはずだった。だがこうも真っ暗では、確認もなにもないだろう。
「そもそも他のグループが突入したかも分かんねぇしなぁ……」
×印を描いて突入を止めたのは、他でもない颯谷自身である。たぶんもう一度誰かが一番槍をやって突入の是非を判断するのだろうと思うが、それを彼は知ることができない。さっさと攻略を始めてしまおうかと思ったが、彼はふとそれを思いとどまった。
(いや、待てよ?)
仮に征伐隊が突入した場合、他のグループも無線中継器は持っている。であればそれを使って颯谷に突入したことを教えてくれる可能性はある。もっともそれは情報提供の要求の裏返しだろうから、約束しておいた一時間ほどはここで待機していたほうが良いだろう。
ただこうも真っ暗では、異界の様子なんて何も分からないことに変わりはない。ポータブルバッテリーに搭載されているLEDライトは強力で明るいが、しかし何キロも先まで照らしてくれるわけではないのだ。
(ライト、ライトか……)
真っ暗なこの異界の中で、ライトが命綱になってくるのは考えるまでもない。ポータブルバッテリーのLEDライトはたしかフル充電状態で25時間程度使えるという話だったが、無線中継器を使えば当然その分だけ電力を消耗する。充電用のソーラーパネルも持って来てあるが、あいにくこの暗闇の中では使えそうにない。
背嚢の中にも懐中電灯やヘッドライトはある。だがこちらは使えて数時間。仮に、征伐に一週間かかるとしたら全く足りない。もちろんこれから夜が明ける可能性もあるが、それを前提にするのは賭けだろう。
「山の中だし、凝視法で何とかなるか……?」
一人でやっていたころ、夜にどうしていたかを思い出して、颯谷はそう呟いた。そして早速やってみる。一旦ライトを消し、真っ暗になってから目に氣を集める。すると周囲の木々が発する氣の淡い光が、暗闇にぼんやりと浮かび上がった。周囲を見渡しても、怪異の姿はない。彼はひとまず胸を撫で下ろした。
(まあ、使えないことはない、か)
颯谷は心の中でそう呟く。ただ不安は残る。凝視法はその仕様上、氣を発しているモノ以外は見えない。だから光源がない状態ではどれだけ目を凝らしても背嚢は見えないし、当然その中の荷物も確認できない。
いや、背嚢が見えないくらいならまだ良いのだ。問題は移動である。凝視法を使っても岩などは見えない。となれば蹴躓く可能性がある。これから山を下りようというのだから、その危険性は現実的だ。実際、ポータブルバッテリーを置いた大きめの岩石は、凝視法ではまったく見えない。
(一人でやってた時は、夜はほとんど動かないようにしてたからなぁ)
颯谷は内心でそうぼやいた。つまり凝視法は周囲の簡単な確認には使えても、移動には使えない。見えるモノが限定されすぎているからだ。となればやはり、生命線となるのはLEDライト。バッテリーが残っている間に征伐を完了しなければ、ずいぶんと面倒なことになりそうだ。
「時間制限がきついな……」
険しい顔をしながら、颯谷はそう呟いた。こうなるとポータブルバッテリーを持っていたのは不幸中の幸いだ。そう思いつつ、彼は立ち上がった。そして今度は遠くを見渡す。
今回異界に閉ざされたのは山地。つまり木々が生い茂っている。そのおかげで凝視法を使えば、かなり大雑把にではあるが、異界の様子は確認できた。もっとも役に立つかは別問題だ。
「山があるな。それくらいしか分かんねぇ」
颯谷はシブい顔でそう呟いた。山があるなんてことは地図を見ればすぐに分かる。これでは何も分からないのと同じだと思いつつ、それでも何とか情報を得ようとして彼は目を凝らした。すると何か明かりのようなモノが点滅しているように見えた。
「んん~?」
颯谷はさらに目を凝らす。しかし遠すぎて良く見えない。彼は一度ポータブルバッテリーのLEDライトをつけると、背嚢の中から双眼鏡を取り出した。そして凝視法を使いながら双眼鏡を覗き込む。だがすぐに彼は悪態をついた。
「ああ、くそっ。レンズ越しだと凝視法が使えない……!」
そう言えばカーブミラーでも同じだった。それを思い出して颯谷は顔を険しくする。それでも双眼鏡を使いながら何か見えるモノはないかと探していると、やはり何か明かりのようなモノが一瞬だけ視界に入る。彼は目を凝らしてそれを探した。
「あった! 火……? 何か燃えてるのか……?」
双眼鏡で探し出した明かりは、どうやら炎のようだった。ただし青白く、いわゆる鬼火のよう。数は四から五つほどか。それが付いたかと思えば消え、また付いてと、点滅を繰り返している。颯谷は急いで背嚢から地図とコンパスを取り出した。
LEDライトの明かりを頼りに方位を確認し、地図上でその方向を調べる。すると鬼火のような明かりが見えたのは、どうやら異界の中心部方向であるらしいことが分かった。もちろんこんな暗闇の中だし、位置がずれていることは考えられる。だが……。
「行くしかねぇよなぁ、こりゃ……」
地図を睨みながら、颯谷はそう呟く。あからさまに何かあるらしいのだ。行かないわけにはいかないだろう。それにもともと中心部へは向かうつもりだった。時間も限られている。行かないという選択肢はない。
「問題は……」
問題は、このことを他のグループにも伝えるべきか否か、ということ。いや、伝えた方が良いのは分かっている。ただ実際問題として、伝えるべき相手がいるのかという問題が一つ。また伝えるためには無線中継器を使う必要があり、その場合ポータブルバッテリーの電力を相応に消費する。つまりそれだけライトを使える時間が減る。
「電力は温存したい、けど……」
突入がどうなったかについては、颯谷には何も分からない。他のグループの様子を知るためにも、一度中継器は使わざるを得ないだろう。もし発電機を持ってきているグループがあれば、ポータブルバッテリーを充電させてもらうという選択肢もあるのだ。「必要経費だ」と考えて颯谷は割り切ることにした。
そうと決まれば、颯谷は早速無線中継器を組み立て始めた。もっともやるのはアンテナを取り付けるくらいで、最後にプラグをポータブルバッテリーのコンセントに差し込めば準備完了である。あとは電源を入れれば中継器が起動し、トランシーバーの電波を異界の全域へ飛ばしてくれる。
準備が完了し、時間を確認すると、突入してからまだ三十分も経っていない。まだ時間があるので、颯谷はLEDライトの明かりを頼りにメモを書き始めた。中継器を使う時間を最小限にするため、伝えるべき内容をあらかじめ紙に書いておこうと思ったのだ。
また中継器はこの場に残していくつもりなので、このメモも一緒に残しておけば、万が一征伐に失敗した場合でも、第二次隊に情報を残せる。もっとも、わざわざこんな場所を突入経路に選ぶグループがあるとは思えないが。
メモを書き終えても、まだ時間はある。そこで颯谷は背嚢から巻物を取り出した。前回の異界から手に入れた、仙具の巻物である。異界の中なら何か効果があるのではないかと思い、こうして持ってきたのだ。
若干ワクワクしながら、颯谷は早速巻物を広げてみる。しかし巻物は相変わらず白紙の状態。彼は苦笑を浮かべつつ、「まあそうだよな」と内心で呟いた。とはいえ諦めるのはまだ早い。彼は次に、広げた状態の巻物へ氣を込めてみる。するとちょっと違和感があった。
「んん……?」
なんだか氣の流れがすっきりしないような。だが巻物は白紙のままで、表面上は何の変化もない。颯谷は首をかしげながら、巻物を巻いて元の状態に戻す。そしてその状態でもう一度氣を込めてみた。今度はすっきりと流れている、ような気がする。彼はもう一度巻物を開いてみる。すると巻物は白紙ではなくなっていた。
「これは……」
描かれていたのは、炎のような紋様。それが開いた巻物の、だいたい七割くらいを埋め尽くしている。巻物が白紙でなくなったのは画期的だが、しかしこの紋様の意味はどう解釈すれば良いのか。颯谷はまた首をかしげることになった。
「とりあえず写真撮って……、って、スマホ持ってきてない……。まあいいや。保留」
そういうことにして、颯谷は巻物を巻いて背嚢に戻した。そうこうしているうちに、そろそろ時間である。颯谷はトランシーバーを取り出し、それから無線中継器の電源を入れる。そしてこう語り始めた。
「あ~、もしもし。こちら桐島。こちら桐島。聞こえますか? どうぞ」
『…………』
返事はない。ということは他のグループはそもそも突入していないか、最低でも中継器は持っていないということになる。この時点でもうやめようかと思ったが、しかし聞いている人がいるかもしれないと思い直す。それで颯谷はこう続けた。
「返事がないようなので、とりあえず一方的にしゃべりますね。え~、まず異界の様子ですが、こうも真っ暗なのでほとんど何も分かりません。ただ中心部方向に、何か青白い炎みたいなのが点滅しているのが見えました。双眼鏡で見えたので、たぶん本当に何か燃えているんだろうと思います。オレはまず、そっちに行ってみるつもりです」
それだけ言ってしまうと、もう話せることが何もない。「以上、終わりです」と言おうとして、颯谷はその前にこう付け加えた。
「まあ、オレもやるだけはやってみるよ。死にたくないし。だから何て言うか、月並みだけど、頑張って。……以上、終わります」
そう言って颯谷は無線中継器の電源を切った。アンテナを取り外して片付け、袋のファスナーを締める。その際、メモも一緒に入れておく。そして山頂に生えていた木の根元に置いた。
中継器をしまった袋は、そのまま担げるようになっていて、しかも防水仕様だ。ここに放置しても壊れることはないだろう。まあ仮に壊れるとしても、持っていくと荷物になるし使うアテもないので、どのみち置いていくしかないのだが。
「よし」
背嚢を背中に担ぐと、颯谷は小さくそう呟いた。背中に背嚢、右手に仙樹の杖、左手にポータブルバッテリー、腰に脇差。忘れ物はない。充電用のソーラーパネルは、少し迷ったが置いていくことにした。彼は一つ頷き、登山道の標識を確認してから、下山を始めた。
群青色になっているはずの異界の空は、暗闇に閉ざされている。月も星もない暗闇の中を、颯谷は歩いた。
スケルトンさん「なんや、あいつ。友達おらんのかいな」




