単独での突入
全体ミーティングの二日後、和歌山県東部異界が白色化した。その知らせを受けて征伐隊は突入のために移動を開始する。大半はバスでの移動だが、颯谷は突入場所が登山道の山頂近くということで、一人だけヘリで移動した。ヘリに乗るのはこれで二回目だが、やっぱりテンションは爆上がりだった。
この二日間、颯谷は意識して隠形状態で過ごした。不本意ながらも再び一人で異界征伐に挑むことになったのだ。感覚を一人でやっていたころに戻す必要がある。そう思ってのことだった。
手こずるかと思ったが、そこは昔取った杵柄ということか、彼はすぐに隠形状態を維持できるようになった。本当は迷彩状態を維持できるようにしておくべきなのだろうが、基地内と山の中では環境が違いすぎる。そちらは突入してからということにした。
(ま、これで最低限寝られるだろ)
颯谷はそう思っている。今回は速攻でケリをつけるつもりでいるが、それでも最低一日か二日くらいは時間がかかるだろう。一睡もしないというわけにはいかないはずだ。なんでこんなことになったのかと二日間はローテンションだったのだが、ヘリに乗ってそれも解決。気力も充実した状態で、颯谷は白色化した異界の前に降り立った。
他のグループはまだ到着していないというので、颯谷は腰を下ろして突入の開始を待つ。一緒にヘリから降下した二人の軍人が、お湯を沸かしてレトルトカレーを作ってくれたので、颯谷は礼を言って昼食代わりにそれを食べた。山の中で食べるカレーはうまかった。
「なんか、長閑ですね」
カレーを食べながら、颯谷はぽつりとそう呟いた。ヘリは一旦帰投したし、他の登山客の姿はない。山の中は市内の喧騒とは程遠く、柔らかな風が木の葉を揺らす音や鳥の鳴き声だけがかすかに響く。そこだけ切り取ればまるで隠れた名山にでも来たかのよう。しかし軍人の一人が苦笑交じりにこう告げる。
「後ろを振り返ってみると良い。ここがどこだかよく分かる」
「少しぐらいひたらせてくださいよ」
颯谷は唇を尖らせながら文句を言った。後ろを振り返れば、そこには巨大な白い壁。異界のフィールドだ。ここはまさに地獄の正門前である。颯谷はそれから目をそらしつつ、残りのカレーを胃袋に片付けた。
さてそんなこんなで一時間ほども待っただろうか。他のグループも続々とそれぞれの突入地点へと到着する。そしてさらに三十分ほどかけて準備を整え、いよいよ一番槍が異界の中へ顔を突っ込んだ。一番槍が伝える情報は軍人らが仲介してそれぞれのグループへ伝える。それを聞きながら、颯谷も突入の準備を始めた。
「常温、構造物確認できず、それから……」
まずはヘルメット。そして仙甲シリーズの各種防具。背中に背負うのはポータブルの無線中継器で、背嚢は身体の前に持ってくる。右手には仙樹の杖を持ち、左手にはポータブルバッテリー。脇差は腰にさした。はっきり言ってすごく重い。内氣功を使わなければ、たぶん歩くだけでふらつくだろう。頂上まで数十メートルの辛抱である。
「突入承認。では突入してください」
どうやら大きな変異はないらしい。颯谷は突入を指示した軍人に一つ頷いてから、異界の方へ歩き始めた。そして一度立ち止まり、大きく深呼吸してから突入する。だが身体が半分ほど入ったところで彼の動きが止まった。
二人の軍人が何事かと首をかしげるその目の前で、颯谷の足が地面に×印を描く。それを見た瞬間、突入を指示した軍人は手に持っていた無線機に向かって叫んだ。
「突入中止! 突入中止!」
§ § §
「突入中止! 突入中止!」
「突入中止! 突入中止だ!」
無線機を手に持った軍人がそう叫ぶのを聞いて、槇岡武雄は反射的に突入中止を命じた。今まさに突入しようとしていた隊員が、それを聞いてのけぞるように異界から距離を取る。後ろへひっくり返りそうになった彼を、仲間が支えた。
「おい、何があった!?」
「わ、分かりません。あ、ちょっと待ってください」
そう言って軍人は別の場所にいる仲間から事情を聞く。それによれば、桐島颯谷が異界に突入した際、地面に足で×印をつけたという。颯谷が伝えられたのはそれだけで、彼はもう完全に突入してしまったということだが、×印というのはさすがに不穏である。
(いたずらか……?)
武雄は一瞬その可能性を疑ったが、「さすがにそれはないな」と思い改める。しかしではなぜ、颯谷は「×」なんてメッセージを伝えてきたのか。素直に考えるなら、それは一番槍が伝えなかった何か重大な事柄に気付いたからだ。しかしそれも武雄としては受け入れがたい。
今回、一番槍を任せたのは、武雄と同じ武門の能力者だ。今回が五度目の征伐隊入りで、これを生き残れば見事義務を果たしたことになる。一番槍を務めるのはこれが初めてだが、経験は十分に積んでいるし、信頼もしている。その彼がウソをついたり、必要な情報を伝えなかったりすることなどあり得るだろうか。
しかしその一方で、あの桐島颯谷が「×」と言ってきたのだ。これもまた重大である。また別の問題もある。すでに突入は始まっているのだ。あと一時間、いや五十分もすればもう異界に突入できなくなる。あれこれ考えている時間はない。
「……仕方がない。ワシがもう一度、一番槍をやる」
武雄は指示を待つ本隊の隊員たちにそう告げた。無線機を持つ軍人にも目くばせし、他のグループにもそれを伝えさせる。そして準備が整うと、彼は顔を異界の中へ突っ込んだ。皆が固唾を飲むなか、彼の伝えるメッセージが読み上げられる。
【くらい、夜、突入不可】
ただそれだけを伝え、武雄自身は異界の中へと入っていったのだった。
§ § §
「突入中止! 突入中止!」
「中止! 突入中止だ!」
無線機を持つ軍人が「突入中止」を叫ぶと、京香は間髪入れずに部隊の突入を止めた。一旦部隊が異界から離れると、彼女はすぐに状況を確認する。だが分かったのは桐島颯谷が突入時、地面に×印をつけたということだけ。
つまりなぜ突入が中止されたのか、その具体的な理由は何も分からない。さてどうするか京香が悩んでいると、無線機を持つ軍人が彼女にさらにこう告げた。
「水瀬三佐。本隊の槇岡さんがもう一度一番槍をやるそうです」
「分かった。ではそれ待ちだな」
京香はそう答えると、厳しい顔で異界を睨む。実はすでに一人、部隊の隊員が異界の中へ入ってしまっているのだ。彼女のことは心配だが、しかし隊長という立場上、部下に動揺した姿を見せるわけにはいかない。
京香はただ静かに、本隊からの情報を待った。長い長い数分が過ぎ、無線機を持つ軍人が彼女にこう話しかける。
「三佐、『くらい、夜、突入不可』です」
「……了解した」
堪えるように一度目を閉じてから、京香はそう答える。そしてこちら窺う部下たちにこう告げた。
「聞いての通りだ。突入は中止になった。各員、撤収の準備をしろ」
「三佐! ですが、霧崎軍曹が……!」
「突入不可ということは、現状の装備では突入しても成算が低いと一番槍が判断したということだ。軍曹のことは残念だが、この状況下で部隊を突入させることはできない」
「……っ」
「だが霧崎も後続が来なくて困惑しているだろう。せめて状況を知らせるくらいのことはしなくては……」
京香はそう言ってメモ帳を取り出し、そこへ状況の説明を簡潔に書き込んだ。最後に「霧崎の生還を信じている」と書き添え、そのメモ帳を自分の背嚢の一番上に入れた。そしてその背嚢を異界の中へ放り込む。それを見て、隊のメンバーのさらに四人が自分の背嚢を投げ込んだ。
これで背嚢は六人分だ。荷物は重くなるし、当然すべてを持ち歩くことなどできないが、しかし物資には多少の余裕ができるだろう。あとは霧崎軍曹のスキルと運を信じるしかない。
(いえ、もっと頼りになる存在がいたわね)
京香は桐島颯谷がすでに突入していることを思い出し、心の中でそう呟いた。×印をつけたということは、もしかしたら彼自身、征伐は難しいと思っているのかもしれない。だが現状、この異界を征伐できそうなのは彼しかいないだろう。
(どうか……)
どうかこの異界を征伐してくれ。そう願いながら、京香は部隊を率いて基地へ帰投した。
§ § §
「ふむ。『くらい、夜、突入不可』、か……」
本隊の武雄が一番槍として伝えてきた情報を繰り返して呟き、トリスタンは表情を険しくした。「夜」ということは、少なくとも今現在、異界の中は真っ暗なのだろう。今後明るくなる可能性は否定されていないが、しかしそれは賭けになる。突入不可は妥当な判断だろう。
これが完全に突入前なら、トリスタンも迷わずに帰投を命じただろう。だがこちらもやはり、一人がすでに突入してしまっている。ヴィクトール少尉だ。そして彼はフランス軍でも貴重な氣功能力覚醒者だった。
「……エドワール大尉。私の代わりに部隊を掌握し、隊を基地へ帰投させろ」
「はっ。ですが少佐はいかがなさるのですか?」
「私はこれより異界に突入し、ヴィクトール少尉とともに生還を目指す」
トリスタンがそう言うと、部隊の隊員たちがざわめく。そんな中、エドワールが眉間にシワを寄せて口を開いた。
「……意見具申をお許しください」
「許す」
「ありがとうございます。……確かにヴィクトール少尉は本国における異界征伐のための貴重な戦力です。しかし重要性で申し上げるなら少佐が上回ります。少佐もまた氣功能力覚醒者であり、また隊長であるからです。隊には少佐が必要です。どうかお考えなおしください」
「貴官のいうことはもっともだ、大尉。しかし私はこれが分の悪い賭けだとは思っていない。その根拠はソウヤ・キリシマだ。彼がすでに突入している以上、征伐の成算は決して低くない。……成人もしていない子供をアテにするのは、大人として恥ずかしいがね。だが並のアニメの主人公よりは彼のほうが頼りになる。これも事実だ」
トリスタンがそう言うと、エドワールはちょっと困ったような顔をした。上官のユーモアだというのは分かっているが、しかし彼がアニメオタクなのは隊の全員が知るところ。どこまでがユーモアなのか、咄嗟には判断できない。そんな部下に笑いかけながら、トリスタンはさらにこう続けた。
「なに、モンスターの少ない外縁部で身を隠しているさ。征伐が人任せというのはいささかストレスだが、我々が出しゃばっても邪魔にしかならないだろうからね」
「……了解しました、少佐。ですがせめて、持てるだけの物資をお持ちください」
エドワールのその進言を受け入れ、トリスタンは全部で四つの背嚢を持っていくことになった。正直、内氣功を使ってもかなり重い。トリスタンはふらつきそうになりながら、しかし部下の手前それは必死にこらえて、異界へ突入したのだった。
§ § §
異界の中へ一歩足を踏み入れた颯谷は、しかしすぐに動きを止めた。なんと異界の中は真っ暗だったのだ。彼は一瞬混乱したが、すぐに左手に持ったポータブルバッテリーのことを思い出す。コイツにはLEDライトもついているのだ。暗闇の中、彼は手探りでどうにかそのライトをつけた。
「夜、ってことか……?」
ライトを左右に振って、颯谷は周囲の様子を窺う。真っ暗なことを除けば、特別変異があるようには見受けられない。もっとも、こうして真っ暗なことが最大の変異なわけだが。そして何より、今こうして異界の中が真っ暗なことを、一番槍は伝えてこなかった。
「やばい、よな……?」
颯谷はそう呟いた。「やばい」というのは自分のことではない。他のチームのことだ。彼らがどんな装備や物資を用意しているのか、詳しいことは知らない。だが前提条件として、昼間に活動することを想定しているはず。仮にこのままずっと夜なのだとしたら、その前提が崩れることになる。
「止めた方が良いよなぁ。でもどうするかなぁ……」
中途半端に突入した姿勢で、颯谷はそう呟いた。両腕はもう異界の中に入ってしまっているので、ハンドサインは使えない。異界の外に出ていて、ある程度自由に動かせるのは左足だけだ。それで左足のつま先を使い、地面に×印を描くことにした。
「こうやって……、こう、だ……!」
一度異界の内側に入ってしまったモノは、もう外へ出すことができない。そのせいで足が動かしづらかったし、目視もできないので上手く×印が描けたかはちょっと自信がない。メッセージがちゃんと伝わることを願いつつ、颯谷は異界の中へ完全に突入した。
颯谷「これは……、足が、つるっ!」




