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感染! エンジニア、パイロット的な狂気の思考に染まる!

 降下した先には、崖と直角に交わる峡谷がある。パイロットたちは、その峡谷に飛び込まなければならない。


 レースは、スピードがなによりも大事だ。必然、パイロットたちはコーナーを曲がるたび、最速で抜けられるラインを通りたがる。


 しかし最速ラインが、いつだって正解とは限らない。人食い崖と下段峡谷との接続が、その最たる例であった。


 峡谷へアプローチする際の、理想的なラインはなにか。着陸のとき同様、ゆったりと降下すればいいのだ。


 しかしレギュレーションは、そのラインを許さない。そもそもパイロットたちは、危険な峡谷にエントリーしたくないのだ。緩い降下を認めてしまうと、彼らはいつまでも峡谷の上を飛ぶだろう。それではオーバーテイクが発生しにくくなる。


 故に主催者は、下段峡谷への入り口を一点に限定したのだ。谷に架かるアーチ橋の下をくぐらなければ、即失格とするルールを定めたのである。


 このアーチ橋の位置がくせ者だ。高速かつ最短でパスしようとすると、飛行機が橋に激突してしまうのだ。理論上の最速ラインでアタックし、橋の鉄錆となったパイロットの数は、両手で数えきれないほどだ。


 だから近年は、最速ラインを敢行するパイロットがめっきり減った。高い降下率でディセンドし、崖の麓で機首を上げ、水平飛行で橋を突破するのが主流となっている。そうすれば、タイムは稼げないけれど、橋を確実にくぐれる。


 けれどもクローイは、安全策に中指を立てた。彼女は、他のパイロットよりもずっとずっと早いタイミングで機首を上げて、極端に浅い角度を取った。


 彼女がなにを試みているのかを、改めて言及する必要はないだろう。クローイは選んだのだ。たくさんのパイロットを殺してきた危険なラインを。


「プルアップ! プルアップ! プルアップ!」


 ヒステリックな不協和音が、オイルと燃料のにおいが染み付いた穴蔵に木霊した。ターナー工房のクルーたちの悲鳴であった。


 むろん、叫びがクローイに届くはずもない。けれども私は、彼らが叫ばざるを得ない理由も理解していた。


 これは一種のおまじないだ。こうすれば親切な神様が、クローイに声を届けてくれるはず――。彼らはそう思いたがっているのだ。


 人間は、顔見知りが死ぬところを見たくない生き物である。同時に人間は、見たくないモノを見ないようにするためには、努力を惜しまない習性を持っている。このプルアップの声は、そんな人類の性の表出であった。


 だけど、私は違った。私はプルアップの大合唱に加わらない。性に抗う。なぜなら、その必要がない、と信じているからだ。


 むしろ――。


「いけっ。そのまま。そのままを維持しなさい。クローイ」


 私はそう囁いた。


 私は、誰にも聞こえないように囁いたつもりだった。が、私の声は、隣に立つおじいちゃんに届いてしまったようだ。彼はぎょっとした顔をして私を見つめた。


「ターラ? お前、なにを言っている?」


 おじいちゃんは、あんぐりとしながら私に問うた。


「おじいちゃん。私は信じているんだよ。クローイはクリアできるって」

「お前……そいつは盲信ってやつじゃねえか?」

「ううん。違う。盲信じゃない。エビデンスもきちんと、ある」

「エビデンスだって?」

「うん」


 私は思い出す。エンジンの始動方法がさっぱりわからず、頭を抱えていたあの頃を。クローイが、私をスピードウェイに連れ出したあの日を。そして私は、オーバルコースに着陸したあの瞬間を、鮮明に思い出した。


 あのアプローチは、とても見事で危なかった。あのときの彼女は、タイヤとスタンドとの距離を、数インチまでに近づければ着陸できる、と、言っていた。そしてクローイは、その難問をあっさりとこなしてみせた。


「私は知っているんだ。あの娘はインチ単位の機体制御が可能ってことを。その技術を十全に発揮できれば、あのラインでの突破も可能だって」

「リスクとリターンが釣り合ってねえぞ。たしかに、あのラインで突破できれば、タイムをかなり縮められるが……だが、失敗すれば――」

「そうだね。クラッシュしちゃうね。死んじゃうね」

「死んじゃうねって……お前なあ」


 人でなしな返答だったのだろうか。おじいちゃんは顔をくしゃりと歪めたあと、片手で頭を抱えた。


「でも、クローイなら大丈夫。しくじるような腕じゃない」

「いやいや、だから……ああ、くそ。お前、いつの間にパイロット寄りの思考になったんだよ」


 たとえリスクがあろうとも、技量があれば問題ない――。この思考はパイロット特有なものだ。リスクを根絶したがるメカニックの習性とは、本来相容れないものだ。


 そうだ。おじいちゃんの言うとおりだ。私はいつの間にか、パイロット的な考え方をするようになっていた。私は可笑しくなってしまい、鼻笑いを漏らした。


「クローイの考え方が伝染したかもね」

「アーサーさん! ターラちゃん! なに呑気に話してんだ! ほら、アレ! ヤバイって!」


 私とおじいちゃんの問答が、クルーに見つかってしまった。私たちは、非難の絶叫を浴びせられた。


 私はスクリーンを見た。クローイはライン修正をしていない。彼女は危ういラインを取りながら、件のアーチ橋へ接近してゆく。その距離が詰まるほど、ガレージの悲鳴が強くなってゆく。


 わあ、と悲鳴が上がった。ガレージの外からだ。どうやら観客たちも、クローイのチャレンジは無謀である、と判断しているらしい。


 私は舌を打った。クルーといい、観客といい、まったくもって見る目がない。みんなは、クローイが橋の鉄錆と化した人々と同レベルだと思っているのか?


「ふふ。まあ、見てなさいよ。その懸念は杞憂に変わるから」


 私の情緒は、ちょっぴりおかしくなっているようだ。私は、舌打ちしたばかりだというのに、ごくごく自然な笑みをこぼしていた。


 この笑みは、優越感が由来だ。私は、彼らの知らないことを知っている。私は、彼らの心配事が実際に起こらないことを知っている。自分は、他人が知らないことを知っている――。この愉悦は、脊髄が痺れるほどに強烈だった。


「プルアップ、プルアップ、プル――。ああ、ダメだ! もう間に合わない!」


 クルーのひときわ大きな絶叫が、ガレージにわんわんと反響した。あと二回瞬きをすれば、私たちの飛行機は、橋にたどり着くだろう。もう、大きな姿勢変更はできない。


 もう、橋との衝突は避けられない。


 その未来を予想したのだろう。クルーたちの青白さときたら、新雪の雪原もかくやであった。気の弱い人に至っては、決定的瞬間を見ないためだろう、目を両手で覆って、スクリーンを見ないようにしていた。


 私の心臓もまた高鳴っていた。事故が怖いからではない。クローイが机上の空論とされる最速ラインで通過する――。そんな栄えある瞬間を心待ちにしているからだ。


 私は目を大きく見開く。瞬きも我慢する。なんだか息苦しくなってきた。気がつけば私は、呼吸すら忘れていた。私はそれほどまで、彼女がレース史に名を残す瞬間を期待している。


 飛行場は悲鳴に包まれる。ターナー工房のクルーも、観客も、そして他チームまでもが叫喚した。


 悲鳴のボリュームが最大に達した。その音圧は、地上でたくさんの打ち上げ花火が爆発したかのようだった。人の声で作られた爆弾が炸裂したそのとき、クローイの影とアーチ橋が重なった。


 直後、私の頬はほとんど不随意に緩んだ。


 クローイはレース史上に名を残した。彼女は橋の先に延びる渓谷を悠々と飛んでいた。順位が五つ上がった。

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