憤怒! 此度の借金工房は血に飢えておる!
クローイが姿勢を大きく崩す。飛行機は、乱暴におもりを吊された天秤みたいに、左右の翼をゆらゆらと揺らしていた。
これは危険な挙動だ。私たちの飛行機は離陸したばかりだ。機体は、まだまだ不安定な状態にある。
にも拘わらず、ああも派手に翼を揺らすとどうなるか。まず速度が落ちる。速度が落ちると、翼は飛行に必要な揚力を作れなくなる。揚力がなくなると、機体はたちまち重力に囚われる。最悪の場合、墜落する。
クローイは若年ながらも、飛行時間が豊富なパイロットだ。むろん、離陸直後に翼を振る危険性を熟知しているはずだ。
しかし現に彼女は、そんな危険な挙動をとっている。それはなぜか。答えは単純明快、今の彼女はコントロールを失いかけているからだ。
「タービュランスだ! あの小僧!」
おじいちゃんが叫んだ。その声には、怒りがたっぷりと含まれていた。クローイが危ない挙動をしている理由は、エルドレッドにあった。
飛行機が通ったあとというのは、気流がひどく乱れている。これがタービュランスだ。こいつが結構厄介で、飛行機がタービュランスに巻き込まれると、姿勢を乱すことがある。
今、クローイがふらふらと飛んでいるのは、この気流のせいだった。
「速度が落ちてる!」
私は悲鳴染みた声を上げた。クローイは目に見えて失速していた。
「墜ちる!」
飛行機は私の叫喚どおりの挙動をとった。群青の飛行機が、重力という見えざる手で鷲掴みにされ、地面へと引き寄せられていた。
「耐えろ、耐えろ、耐えろ!」
私は祈った。おじいちゃんも、ベテランさんも、クルー全員が祈った。どうにか耐えてくれ、と。
祈りは通じなかった。高度が下がる。
飛行機は地面に帰ってしまった。しかしクローイは、意地を見せた。飛行機が地面に戻る寸前、クローイは姿勢を水平に戻したのだ。
ランディングギアがアスファルトを捉え、飛行機は再び滑走路を疾駆する。クローイは、いわゆるタッチアンドゴーを試みようとしていた。
クローイは墜落を免れた。しかし払った代償は安くない。タービュランス、そして再接地。この二つは、クローイの速度を確実に奪っていた。他の飛行機がクローイをどんどん追い抜いていく。彼らは空へ飛んでゆく。私たちの順位が落ちてゆく。
私は下唇を噛んだ。このレースはスタートが重要だったのだ。先頭、できるならば五番目以内に空に上がりたかった。その理由は、今の滑走路上空を見ればわかる。
「くそっ。空が。ぎゅうぎゅう詰めだ」
舌打ちを伴ったおじいちゃんの独言。
そう。スタートで出遅れると、空の渋滞に巻き込まれてしまうのだ。その場合、離陸可能速度に達しても地面を這い続けなければならなくなる。コンマ一秒を争うレースにおいて、それは言うまでもなく痛手であった。
いまや滑走路の直上は、飛行機たちで埋め尽くされた。今、彼女が機首を上げれば、他機との接触を引き起こすだろう。事故は避けたい。だから、離陸できない。
「くそっ。ああ、どんどん抜かされていく……かといって飛び立てる隙間もねえ。くそっ、くそっ」
なまじ一位争いをしていたのがよくなかったのだろう。おじいちゃんの言に見るように、ターナー工房が抱いた落胆は大きかった。
結局クローイが離陸できたのは、彼女以外の飛行機が、すべて飛び立ったあとであった。首位争いから最下位へ。天国から地獄とはこのことだろう。
最後の飛行機が上がると、ピットウォール付近がにわかに騒がしくなった。クルーたちが、各々のガレージに戻りはじめたのだ。
私たちもいつまでもこの場に居る理由はない。ターナー工房ご一行も、宛がわれたガレージに戻るべきだった。
しかし私たちは、かの民族移動に取り残された。怒りが冷め止まなかったからだ。
「……ねえ。アーサーさん?」
工員の誰かが言った。風が強い日の柳の枝みたいに、その声は揺れていた。
「なんだ?」
「喧嘩もさあ! レースの華ですよね!」
そう言うや否や、クルーたちが工具を高々と掲げ上げた。
「まあ、まあ。とりあえず落ち着けよ。な? 俺たちがここで暴れても――」
みんなは、エルドレッドの割り込みに、我を忘れているようだった。おじいちゃんがクルーたちをなだめようとする。けれどもクルーたちは聞く耳をもたなかった。
「許せないですよ! 一歩間違えれば大クラッシュ! 人死にが出るところでした!」
「その通りです! 立て直せたからいいけれど! レース開始数秒で赤旗が出るところでした!」
「アーサーさん! 俺たちが、どれだけ苦労してあの飛行機を飛べるようにしたか、わかっているでしょう!? アーサーさんも苦労したでしょう!?」
はじめの内は、なだめ役に回っていたおじいちゃんだったけれど、工員たちの怒りにあてられたのだろう。おじいちゃんの顔が、みるみる赤くなっていった。ついには彼も、他のクルーと同じく工具を力強く握り締めた。
私はベテラン工員さんに目配せした。クローイがいっとき首位に立ったときも、彼は冷静であった。だからこのときも、彼は冷静なままだろう、と私は思ったのだ。
その目論見は当たっていた。彼は、腕組みをしたままで工具を手にしていなかった。だが、怒りも覚えているらしい。暴徒になりつつあるおじいちゃんたちを、彼は止めようとしなかった。
おじいちゃんたちは、怒りのボルテージを高めてゆく。暴力を肯定する台詞を口々に紡ぎ、チームはみるみるうちに先鋭化していった。
ついに覚悟を決めたのだろう。おじいちゃんが、カートライト工房のガレージに向けて、一歩を踏み出した。頭から湯気を立ち上らせる工員たちもまた、おじいちゃんの一歩に追従した。
これは、まずい。
私だって当然、怒りを覚えている。この場にエルドレッドが居たのならば、私は奴の顔を引っぱたくであろう。でも、喧嘩はダメだ。ここは私が止めないと。
私は、もつれそうになる脚を律しながら、行員たちを追い越し、くるりと向き直ってとうせんぼした。
「ダメ」
私はハッキリと暴力を否定した。私の声は歓声を突き抜け、工具を握り締める男たちに届いたようだ。クルーたちの間には、ざわざわとした戸惑いが広がっていた。
「殴り込みなんてもってのほかだよ。そんなことしても、無意味」
「で、でも。ターラ。見ただろう? あのボンボンがやったことを。一歩間違えればあの娘は、墜落死してたんだぜ? 許せるわけねえだろう」
おじいちゃんは、とにかく私を説得せねば、と判断したらしい。私を説諭しようと試みた。静かな話し口だった。多分彼は、俺はこんなにも冷静だぞ、と、私に伝えたいのだろう。
けれども、そのような演技をしてしまう時点でダメだ。私は、おじいちゃんが冷静だとは思えなかった。冷静な人は、自分は冷静である、と主張しないものだ。
「私だって頭にきているよ。あんな危ない真似するなんて、信じられない」
「ならよう。わかるだろ? 誰かがあの若造に灸を据えなきゃならねえんだ。だから、そこをどいてくれ」
「どかない。どきたくない」
「ターラ」
おじいちゃんは困った顔をした。頭が冷えてきているのかもしれない。説伏するチャンスはここしかない。
「たしかにあのボンボンは危険なことをした」
「だったら――」
「でもね、おじいちゃん」
私はおじいちゃんの言葉を遮った。
「あれがどんなに危ないことだったとしても。レギュレーションはエルドレッドを裁いてくれないよ。禁止された動きじゃない」
「ターラちゃん! だからこそだぜ!」
私とおじいちゃんの問答にしびれを切らしたか。血走った目をしたクルーが、横やりを入れた。
「レギュレーションで裁けないからこそなんだよ! 裁けないからこそ、俺たちが報いを与えなければならないんだよ!」
「でも、暴力はよくない」
「いや! やらなくちゃダメだ!」
声の主が、私とおじいちゃんの間にずいっと割り込んだ。ラチェットを肩に担ぐ彼は、クレーンの免許を持つ、ひときわ若い工員だった。
「ここでヤキ入れておかないと、余計にまずくなる! バツがないとわかれば、来年から同じ真似をするチームが出てくる! 暴力で! 見せしめないと! ダメなんだ!」
そうだ、そうだ、と声が上がった。私は、クルーたちに共感できなかった。私からすれば彼らの言い分は、ただの屁理屈にしか思えなかった。
私は努めて胸を張った。それは不退転の意思表示であった。
「あなたたちの言い分も、ある一面では正しいのかもしれない。派手な報復行為をすることで、暗黙の了解を形成できるのかもしれない」
「だろう!? なら、ターラちゃん! そこを――」
「でも。私は。それでも。どかない」
私ははっきりと拒んだ。それでもここをどかない、と低い声で明言した。
私の低音は、ついさきほどまで滑走路に滞留していたエンジン音よりも、迫力があったようだ。クルーたちは、一様に息を呑んだ。
「喧嘩は絶対にしてはいけない。だからみんな。その工具をおろそ?」
「じゃあ、許すのか? あんな乱暴な飛行しやがったエルドレッドを?」
クレーンの彼はそう問うた。私の機嫌をうかがうような、そんな控えめな声音であった。彼は工具を握ったままだった。
彼らの翻意は近いだろう。ならば、私は切り札を使うだけだ。
「ううん。やっぱり許せないよ。私だってアイツの頬を張りたい。でも、我慢する。手は、出さない」
「どうして? このままじゃやられっぱなしだぜ?」
「そのどうして、の答えは簡単だよ」
「と、言うと?」
「喧嘩したら。レギュレーション違反で失格になるから」
「……あっ」
クレーンの彼も、比較的冷静なあのベテラン工員も、果てにはおじいちゃんまでもが、とても間が抜けた声を上げた。彼らは怒りのあまり、喧嘩するべからず、のレギュレーションを失念してたみたいだ。
暴徒一歩手前まで上り詰めたみなさまがたは、わずかに俯いた。彼らは、視線を握り締めた工具に移す。それぞれの工具は、太陽光線を鋭く返していた。
「工具を血で汚していいの? 油汚れはベンジンで落ちる。でも血糊の掃除は大変。余計な手間、増やしたくないよね」
「そりゃあ。まあ」
おじいちゃんが渋っ面で答えた。
「それに、だよ? クローイはリタイアしてない。まだ空を飛んでいる。逆転優勝の可能性は十分にある。それなのに喧嘩するの? 折角のチャンスをふいにするの? どうなの?」
「でも、ターラちゃん」
冷静な声がした。クレーンの彼の前にそっと躍り出たのは、ベテラン工員であった。
「ここから巻き返せるというのか?」
「もちろん」
私の即答は、ベテランさんにとっても予想外だったらしい。彼ははくりと空気を噛みつぶし、目をまん丸にして私を見つめていた。
「私は信じてる。ここから一位をもぎ取れる、ってね」
私は、飛行機たちが消えていった方角を見つめた。目をこらせば、群青の飛行機が今にも見えてきそうだった。




