81.図書館ではお静かに、なのですわ!
封海竜オーツェンツァーリ。
その悪名と威容は、古くはお伽話のような形で、そして断海遠征の結果は記録として残されている。
リリアを連れて皇国図書館を訪れていたルヴィアリーラは、そのオーツェンツァーリについて調べるべく、以前、「クラリーチェ」のことを調査した時と同様に片っ端から資料を読み漁っていた。
だが、どの資料に記されているのも、詩歌やお伽話を除けば絶望的な情報でしかない。
曰く、宮廷魔法師団三十人と正騎士百人を連れて遠征に赴いたが、その鱗に騎士の剣は弾き返され、魔法師たちの呪文も通じることはなかっただの、そもそも最初の遠征からして船が水を纏った、というにはあまりにも凶悪な、水の槍を吐き出したというべきブレスに沈められただの、命からがら転移魔法で逃げ帰ってきたであろう宮廷魔法師の著述はそんなものばかりだ。
とはいえそれも、肯けることではある。
竜というのは、人間に対する根源的な災厄とでもいうべきものであり、遥かいにしえより生きて、「龍」となったものとなれば、文明一つを丸々消し飛ばしかねないような、超常の生き物。
それこそが、竜──ドラゴンと人が呼んで恐れる存在なのだから、それに勝利した英雄の記録など、片手で数えられる程度のものしかない。
遥かウェスタリア3世の統治時代に生きた伝説の騎士ジークフリートは単騎で竜を殺せるほどの実力者であり、「竜殺し」の始祖であるとは、この国の民であれば子供でも知っていることだ。
だが、伝説の騎士ジークフリートを除けば、皇国や、隣国であるイーステン王国が竜と戦って勝利を収めたのはいつも多大なる犠牲を払ってのことであり、それは最早一つの戦争、否、生存競争とでもいうべきものだった。
ルヴィアリーラは、改めて閲覧した記録の数々に慄きながらも、生きて情報を持ち帰ってくれた宮廷魔法師に、心の中で感謝を捧げる。
勇気とは何も、強敵や難関に立ち向かうことばかりを指すのではない。
絶望的な状況の中、それでも次代に勝利を託すべく敢えて敵に背中を向けて、記録に封海竜オーツェンツァーリのことを残した彼らのそれもまた、断腸の思いではあったのだろうが、勇気に他ならない。
「ど、どうでしょう、お姉様……」
図書館ということもあり、普段のそれより三割ぐらい小さな、今にも消え入りそうな声でリリアがルヴィアリーラへと問いかける。
はっきりいってしまえば、今ここで得られた情報からは絶望しか感じられなかった。
「そうですわね……今のところ、三割といったところですわ」
ルヴィアリーラはむ、と小さく唸ると、頭の中で一つの仮説を組み立てながら、リリアの問いにそう答える。
「……三割、ですか?」
「ええ、希望が三割、絶望が七割……まあ色々と確かめなければいけないことは残ってますけれど、決して……『勝てない』相手ではなくってよ、リリア」
いつもの癖で高笑いをあげそうになるのを堪えながら、ルヴィアリーラは言葉を続けた。
確かに竜種全般について調べれば、どうやったら人間が勝てるんだと疑いたくなるような種──遥かいにしえより生きる「龍」や、一説によればボルカノ火山を爆発させて、機械文明の終焉に一役買ってからは休眠しているとされる、最も「龍」に近き竜、劫火竜ヴルカヌスなど、枚挙にいとまがない。
だが、果敢にも、或いは無謀にも皇国が「断海」を踏破しようと遠征を繰り返してさかたおかげで、オーツェンツァーリという一個体についてなら、ある程度の情報は出揃っているのだ。
「そういえば、リリアに訊きたいのですけれど……雷の魔法、あれは誰でも使えるものなのでして?」
それが当たり前だったから忘れていたものの、リリアは生まれ持った「虹の瞳」の力によってあらゆる魔法を使いこなす、大賢者と呼んでも差し支えない存在だ。
そして、ルヴィアリーラの問いかけにリリアがどう答えるかによって、自分が組み立てていた勝利への方程式はその形を変える。
そんな確信と共に、宮廷内だからとフードを脱いだリリアの瞳をじっと見据えてルヴィアリーラは問う。
「……ど、どうなんでしょう……ご、ごめんなさい、わたし……使えますけど、よくわからなくて……」
「むむむ……」
何がむむむだ、と、自分でもそう言いたくなるが、ルヴィアリーラはリリアの口から飛び出してきたその答えに、頭を抱える他になかった。
なんせ、封海竜オーツェンツァーリとの戦いの記録に記されているのは、当たり前だが「どんな攻撃が通じなかったか」と、「いかにして遠征が失敗したか」であり、その時にどんな攻撃が多少なりとも有効であったのか、ということについては何一つ書かれていないのだ。
そうなれば、自分たちも先人と同じ轍を踏みかねない。
ルヴィアリーラが奇妙な唸り声を上げながら、小首を傾げているその時だった。
「あの……ルヴィアリーラさんで、よろしいですよね?」
「貴女は……」
そんな具合に眉根にしわを寄せていたルヴィアリーラに話しかけてきたのは、長い黒髪を結い上げて、銀のティアラを額にいただく白いドレスの女性──以前、御前試合で相見えた、そしてルヴィアリーラが婚約を破棄されるに至った原因である「聖女」アリサであった。
「アリサです。って、ご存知ですよね」
「まあ、それは……御前試合の件についてなら申し訳ない限りですわ」
アリサが与える「祝福」の効果を知らず、ルヴィアリーラはパルシファルの顔面を何一つ遠慮せずに殴り飛ばしていたが、思い返してみれば、それは感覚を共有しているのだから、痣の一つも残りかねない暴挙に他ならない。
「そんな、いえ! パルシファル様に『祝福』を与えると決めたのは私ですから……どうか顔を上げてください!」
深々と頭を下げるルヴィアリーラに、慌てた様子でアリサはわたわたと両手を振りながら言葉を紡ぐ。
確かにパルシファルは小悪党とでも呼ぶべき、ある意味では傲慢の象徴とされる貴族らしい矮小な一面を持ち合わせていたが、この聖女アリサの感覚は庶民のそれや、貴族の間では異端だとされていたルヴィアリーラのそれに近いらしい。
「感謝いたしますわ、聖女アリサ。それで……改めて、わたくしたちに何か御用で?」
「あ、はい。たまたま通りかかっただけなんですけど……リリアさん、でしたよね? 彼女が雷の魔法を使えるとかどうとか、そう聞いたので……」
ルヴィアリーラの背中に隠れながらぷるぷると小動物のように自身を威嚇しているリリアを指して、アリサはそう言った。
雷の魔法。それは初級クラスのものであったとしても、極めて習得が難しいものだとされている。
ルヴィアリーラには魔法師の適性がまるでなかったからわからないものの、パルシファルの手解きによって魔法を習っていたアリサは、初等であってもその術式の難解さに舌を巻いたことを今でも覚えている。
「雷の魔法は、光輝神ジュエリウスの法に最も近い魔法なんです。だから、例え宮廷魔法師であっても、おいそれと使えるものではないとパルシファル様が仰っていたのですが……」
「まあ、でしたら朗報ですわ!」
ルヴィアリーラはその言葉を聞きつけた瞬間、間髪入れずにアリサの両手を握りしめていた。
もしも歴代の宮廷魔法師団が、雷の魔法を用いてもオーツェンツァーリに敗北を喫していたのなら、ルヴィアリーラたちが勝利を収められる可能性は限りなくゼロに近い。
だが、言い換えるなら、そうでないのなら勝てる可能性は極めて現実的なものになる、ということだ。
ルヴィアリーラは脳裏に、リリアが招来する雷霆の凄まじさを浮かべながら、子供のようにきらきらと真紅の瞳を輝かせる。
「これで勝てる可能性は七割! 足りない分は勇気で補えばきっとなんとかなりますわ!」
矛盾と問題だらけではあるが、まず一つ難題が解決された喜びに、ルヴィアリーラは思わずあーっはっは、と高笑いをあげながら、そう宣言した。
そうだ。リリアの魔法が通るのなら、そして自身の持っている選択肢が機能するのであれば、オーツェンツァーリだろうがなんだろうが、理論上勝てない目はない。
「図書館ではお静かにお願いします」
そして当然の如く、司書を務めている女性から睨み付けられて、すごすごとルヴィアリーラは肩を竦めて、どこか申し訳なさそうに椅子へと腰かけるのだった。




