79.鬼の居ぬ間になんとやら、なのですわ!
ルヴィアリーラたちが湯治場を完成させるまでの間、不自然なほどに「夜天の軛」、というよりパラケルススは何も仕掛けてはこなかった。
イーステン王国近くでは活動が相変わらず活発で、ウェスタリア神聖皇国からの派兵も決定されているというのに、いっそ不自然なまで、皇国の情勢は凪いでいる。
だが、そのおかげ──と、いうには若干不謹慎でこそあるものの、湯治場の建設は概ね滞りなく進み、ルヴィアリーラが依頼として提供した「エンゲルリウム」の導管はサビひとつつかずに、温泉を汲み上げていた。
建ち並ぶ石造りの建物は開拓村に似つかわしくない。
村というよりは新たな都市といった風情に開拓が進められている開拓村バスガルドに、ルヴィアリーラたちは一応、実地調査という名目で立ち入っていた。
「こう見てみれば、皇国も本気なのですわね」
「……本気、ですか?」
「ええ、ただの湯治場ではなく南方を開拓する拠点としたいのでしょう」
ウェスタリア神聖皇国は中央大陸セントスフェリアの西側をその領土としているが、広大なこの大地全てに人の手が入っているわけではない。
特に南方地帯は、この開拓村バスガルドができるまでは、ボルカノ火山という曰く付きの土地を抱えていることもあって開拓には二の足を踏んでいたのが現状だったのだが、ここに来て皇国が領土の発展に乗り出した辺りは強かだというべきなのだろう。
ルヴィアリーラは早速汲み上げた温泉に浸かって、タオルを頭に乗せながらそんなことを考える。
ディアマンテ・カルボン・ウェスタリア11世という人間を個人として評価するならば、「君臨すれども統治せず」として政治に関しては諸侯に一任しつつもその野心を隠し切れてはいない、というのがルヴィアリーラの見立てだった。
とはいえ、彼も隣国であるイーステン王国と積極的に戦争をしたがっているわけではないはずだ。
あくまで国民の生活をより豊かにするための開拓事業と南方開拓を打ち出したのだろうとルヴィアリーラは推測しているし、事実としてディアマンテが開拓に乗り出したのは、ルヴィアリーラを国認錬金術師として抱え込んだからでもある。
野心家である彼と自由を尊ぶルヴィアリーラでは反りが合わないといえば合わないのだが、目指している向きは同じだから結果として手を組んでいる、という風情なのだ。
パルシファルの陰謀も絡んでいたとはいえ、すっかりしてやられた御前試合の件を思い出しながら、ルヴィアリーラは苦笑する。
「……なんだか、わたしたちだけこのお風呂を借り切るの、勿体無いですね……」
「まあそうですわね、これだけ大きな温泉を作って、浸かってるのが二人では宝の持ち腐れですもの」
リリアの呟きを首肯して、ルヴィアリーラは広い浴場をぐるりと一望した。
ルヴィアリーラたちが貸し切りで温泉に浸かっているのは、ひとえに開拓の先駆者である「国認錬金術師」であるが故だ。
そして、スタークからそれとなく湯治を勧められた辺り、ディアマンテは近々また何か大規模なことに乗り出すのだろう。
「……陛下は欲張りなのですわね」
聞かれていれば不敬罪で斬首ものの言葉が、残響の尾を引いてぽつりと湯船に落ちる。
実際にディアマンテは「夜天の軛」との戦いも、版図の拡大も、全てを成し遂げようとしているように思えてならない。
パルシファルと聖女アリサが前線に送られているのは、あくまでイーステン王国と協力して「夜天の軛」を退治するためだとしているが、事実上の懲罰人事なのだろう。
だとしたら悪いことをした、と、ルヴィアリーラは少しだけ苦い顔をする。
とはいえ、信念と信念がぶつかり合えばどちらかが折れるのは一種の必然とでもいうべきものだ。
どこか遠慮がちにじりじりと隣に進んでくるリリアを抱き寄せ、頬を掌でそっとなぞりながら、ルヴィアリーラはそんな小さな痛みを押し隠すように儚げな笑みを口元に浮かべる。
「あ、そ、その、お姉様……」
「気にしなくてもよろしくってよ、リリア。どうせわたくしたちしか入っていないのですから」
人肌が恋しい、と、リリアがそう思えるようになってきたのは最近になってのことだった。
ルヴィアリーラとの生活の中で、欠けていたものが、壊れて、ヒビが入ったままになっていたものが元に戻っていくような錯覚の箱に、取り残されていたモラトリアムがリリアに「義姉」を求めさせる。
相変わらず豊満で、自分よりも大きな胸に顔を埋めるように抱きつきながら、リリアはその儚くも、じわり、と身体の芯を伝うような温もりに縋る。
「リリアは、甘えん坊さんなのですわね」
「……え、えと……ごめんなさい……」
「謝る必要などありませんわ、わたくしの胸でよければいくらでも貸しましてよ」
利子もつけませんわ、と、軽い冗談を飛ばしてルヴィアリーラは、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべてみせる。
温もりに飢えているのは、何もリリアだけではない。
ルヴィアリーラも、貴族の身分を剥奪されて、実の家族であるプランバンや家族同然に過ごしてきた使用人たちと引き裂かれた身だ。
齢十六という、法の上では大人として数えられる年頃に差し掛かっていても、ルヴィアリーラもまだそこまで精神が育ちきったわけではない。
だからこそ、こうして「義妹」であるリリアに頼られるというのは、そう悪くないことなのではないかと、安らぎにも似た感覚をルヴィアリーラはそこに抱くのだ。
無論、片付けなければならないことなどいくらでもあることはわかっている。
ただ、鬼の居ぬ間になんとかかんとか、なる言葉が遥か東方、「断海」を決死の覚悟で越えるか、そうじゃなければイーステン王国から船に乗るしかない大陸には存在しているらしい。
要するに、息抜きをするときは全力で息を抜いてこそ、いざというとき、事に備えられる、という話だ。
ルヴィアリーラは指先で水鉄砲を作ってそれを虚空に飛ばしながら、甘えるように頬をすり寄せてくるリリアに、同じ声なき言葉で答えてみせる。
平和だった。
今この瞬間、世界に争いや憎しみの類が全てなくなってしまったのではないかと、そう錯覚するほどに、流れる時間は穏やかで、身体を温める熱もまた、掌に染みついたであろう血を洗い流してくれる気がした。
だからこそ、それが錯覚であると理解しているからこそ、ルヴィアリーラはどこか泣きたいような、アンニュイな気持ちになる。
「いつかこの世界の民が、笑ってこの湯治場のような湯に浸かれる未来が訪れたなら……きっとそれは素晴らしいことなのですわね」
ぽつりと呟かれた言葉はいつになく物憂げで、きっとこっちが本当のルヴィアリーラなのだろうと、肩にしなだれかかったリリアはそこにある悲しみを、見えない傷跡のことを想って涙ぐんだ。
自分のせいでどうこうという話ではなく、ただルヴィアリーラが無垢に願い続けている未来が、遥か遠いことを、そしてその気が遠くなるような未来と戦い続けている義姉を想えばこそ、涙がこぼれ落ちてくる。
「……はい、お姉様……」
「リリアが泣いてどうしますの」
「……ぐすっ、泣いて、ません……」
「ふふ……そういうことにいたしましょう」
きっと、今日も何処かで戦いが起きていて、明日になればまた新たな戦いに自分たちは駆り出されてゆくのだろう。
ルヴィアリーラは両手で温泉の湯を掬いながら、その水鏡を指の先からわざととりこぼしていく。
世界を拓くとはいったけれど、こんな風に、きっと取りこぼしてしまうものはいくつもあって。
「わたくしの可愛いリリア」
だからこそ、近くにある温もりを、何よりも大事なものを取りこぼしてしまわないように、ルヴィアリーラはリリアの額にそっと親愛のベーゼを落とすのだった。




