56.天の高地の風雪竜、なのですわ!
神々の庭園、その美しい名前とは対照的に、ヒンメル高地の山麓は一年を通して厳しい気候にさらされている。
開拓村に先日現れたグランマムートによる襲撃による被害も、ルヴィアリーラが作り出した「スタリロ合板」の納品によって解決を見ていたのだが、問題はそれだけではない。
開拓村に降り立ったルヴィアリーラとリリアは、防寒装備を身に着けながらも肌を刺すような山風に身を震わせながらも、村民からの情報、そしてユカリから貰った地図を頼りに、頂上への道を歩んでいく。
吐く息も凍りつきそうな高山ではあるが、「万年氷石」や「サンライト鉱」といった希少な鉱物を採掘してきた歴史があるからか、登山道は意外なほど綺麗に整備されている。
だが、いかにヒンメル高地が高山であろうとも、この季節にこれだけの風が吹き荒れているというのは、明らかに異常だ。
ルヴィアリーラは、風の元素が異様に活性化していることを察して嘆息する。
「この風……あのトロールオーグと戦った時とよく似ておりますわね」
「え、えと、お姉様……つまり……」
「あの魔法陣、ここで起きていることと関わりがあるものだったかもしれませんことよ」
調べる前に爆弾で掻き消してしまったのは失策だったかと後悔していたが、むしろ逆だ。
この異様な風、そこにあの魔法陣と関連を感じる「呪い」が含まれていることを鑑みれば、放置しておくより、一秒でも早く破壊したのは結果的に正解だったといえる。
何故ガーロンたちが、あのような魔法陣を敷いていたのかはわからないが、恐らくその答えは、この山頂にあるのだろう。
吹き下ろす風に歯を食いしばりながらも、ルヴィアリーラは一歩ずつ歩を進め、呪われた飄風が吹き荒れるヒンメル高地を登っていく。
道中でアイテムを採取している暇はない。
頼れるのは、この一週間で補充した「爆炎筒」と、そして。
(恐らく、相手が風の力を使うのなら)
風の元素を焼き尽くすのは、火だ。
己の腰に吊り下げている星剣アルゴナウツ、その鍔の中心に埋め込まれている「素たる火の宝珠」を一瞥して、ルヴィアリーラは静かに息を吐く。
神々の遊び場は、人の身で同じことをするにはあまりにも厳しい。
だが、以前にグランマムートを倒した時、訪れたヒンメル高地の山麓はこんな異様な天気でなかったのだから、進む先になんらかの元凶が控えていることは確かなのだ。
ルヴィアリーラはその脅威に身構えて、思わず背筋を震わせていたが、歩む足を止めることはない。
そしてリリアもまた、人々の根底に刻み込まれた「竜」という言葉への恐れを抱きながらも、ルヴィアリーラの半歩後ろから離れることなく付き従い、歩いていた。
元より自分の命など、あってないようなものだとリリアは心得ている。
確かに、今であれば魔力に乞い願うことで極大魔法の行使が可能となったかもしれない。
だが、長い時間をかけて培われてきた、そして刻み付けられてきた無力感は、リリアの心から易々と消えてくれるようなものではなかった。
だからこそ、リリアは一時、奴隷の身分に落とされたのだ。
──それでも、ルヴィアリーラはそんな自分を拾い上げてくれた。
リリアがそのことに対して感じている恩は、ルヴィアリーラが感じている以上に、極めて大きなものである。
だからこそ、リリアは命を差し出す勢いでルヴィアリーラへの挺身を行うことも厭わなければ、こうして死の危険が伴う皇国依頼にも付き従っているのだ。
しかし、ルヴィアリーラは、リリアが思うように、決していつも無敵で豪胆な人間などではない。
それを悟らせまいと、傲慢で高飛車なお嬢様であるかのような振る舞いを続けているが、今、こうして会話が途絶えていることが、何よりもルヴィアリーラの恐れを雄弁に物語っている。
凍てつく山嶺を歩む足も氷に変わってしまいそうな零下の気温は、ルヴィアリーラとリリアから容赦なく体力と気力を奪っていく。
だが、歩けば歩くほど寒くなってくるというのは、高度が上がっているというだけではなく、この呪われた風を吹かせる元凶が近いということなのだろう。
ルヴィアリーラはそう直感し、星剣アルゴナウツを鞘から抜き放つ。
「リリア、恐らく戦いは近いですわ」
「……はい、お姉様……」
「……生きて、帰りますわよ」
ルヴィアリーラがそれしか口にしなかったというのは、取りも直さずこの先に待ち受けている存在が危険極まるものである、という証なのだろう。
密かにリリアが起動していた魔力探知の魔法にも、もはや暴嵐と呼ぶべき強い風の魔力が一つ引っかかっている。
それは、元素の種類こそ違えどルヴィアリーラが起動させた「星剣アルゴナウツ・スカーレット」に匹敵するものだ。
つまり、最早風の化身と呼んで過言ではないものと、自分たちは戦おうとしているのだ。
リリアは分厚い手袋に覆われた小さな手で樫の杖をきゅっ、と握り締めながら、「それ」が控えている、ヒンメル高地の頂上へとその足を踏み入れる。
『Ooooooooo!!!!!』
それは、悶え、苦しんでいるように見えた。
あくまでもリリアの主観でしかないが、吹雪の中に姿を現した、飛竜を遥かに超える大きさをしたその竜は、自分の縄張りに足を踏み入れたルヴィアリーラとリリアを敵と見なしたのか、或いは、その身を苛む苦しみがそうさせたのか、高らかに咆哮し、のたうち回るようにその足を地面に叩きつける。
風雪竜シュネーヴァイス。
ヒンメル高地の主にして、普段は数多のワイバーンを従えながらも人々と積極的な敵対をすることがないはずだった、白亜の巨体は今やルヴィアリーラとリリアに牙を剥く、自然の猛威そのものと化していた。
「ちいっ! 『照らせ』、星剣アルゴナウツ・スカーレット!」
「『炎よ』、『清らに燃える焔よ』『憐み』、『焼き尽くしたまえ』!」
元より竜種に話など通じないが、問答無用と判断したルヴィアリーラは星剣アルゴナウツに秘められた火の元素、その力を解放し、リリアは焔の極大魔法を放つことで叩きつける白手袋の代わりとする。
リリアの放った極大魔法は、確かに白亜の巨体を呑み込み、清らなる焔は、全身を焼き焦がしたはずだった。
『GuRuOoooooooo!!!』
「……そんな、魔法が……っ……!」
しかし、白亜の竜、シュネーヴァイスの全身を覆っている、呪いの気配を強く漂わせる飄風は強引にその炎を引き剥がし、無に帰せしめてしまう。
「リリア、下がりなさいな!」
「……は、はい!」
振り下ろされた爪の一撃をアルゴナウツ・スカーレットで防いだルヴィアリーラは咄嗟にリリアを庇い立てると、そう叫んだ。
明らかに異常な事態が起きている。
それはルヴィアリーラの目にも明らかで、「鑑定」の魔術を使って、確かめたいところであったが、生憎荒れ狂う風雪竜シュネーヴァイスがそれを許してはくれない。
鋭い爪と、そして薙ぎ払われる尾の一撃は、明らかに狙いが定まっていなかった。
それでもルヴィアリーラの敵意を狙いの頼りにしているのか、攻撃はほとんど正確な位置に飛んでくる。
ルヴィアリーラは、その一撃一撃をなんとかいなしつつ、リリアが「鑑識測定」の魔法を起動するまでの時間を作らんと、白亜の竜種へと果敢に挑みかかっていく。
「これで……せいやああああッ!!!」
『GuRu……Ooooooooo!!!』
飄風を纏って振り下ろされる風雪竜の剛爪を、ルヴィアリーラはアルゴナウツ・スカーレットに注ぎ込んだ焔の魔力全てをかけて強引にその衣ごと剥ぎ取る形で叩き折った。
しかし、その反動は大きく、肩の筋が裂けるような痛みがルヴィアリーラを蝕んだ。
思わず舌打ちと共に歯を食いしばるルヴィアリーラだったが、その隙を見逃してくれるほどヒンメル高地、神々の庭園の主たる竜種は決して生易しくない。
「が……っ、ああああああっ!」
振り下ろされるような尾の一撃を剣の腹でなんとか受け止めるが、ルヴィアリーラはその代償に走った強烈な痛みに呻き声を上げる。
骨が折れているかどうかはわからないが、確実に筋繊維は断裂しているだろう。
右手と比べればまだ動く左手で万能ポーチからヒーリングポーションを無理やり取り出し、口で蓋を開け放って一息に含むと、ルヴィアリーラは一拍を置いて放たれた風雪のブレスから全力で逃亡していく。
『OooooooooAhhhhhhh!!!』
「こん……の、うるっせえですわよ!」
ブレスを避けられた怒りからか、咆哮を上げるシュネーヴァイスに対し、効果は薄いと理解しつつも、万能ポーチから取り出した「爆炎筒」を投げつけるルヴィアリーラもまたヤケクソだ。
その戦いは、決闘というよりは獣と獣が己の意地を、或いは生存を懸けて喰らい合うといった方が適切な程に荒々しい。
そして、ルヴィアリーラが決死の覚悟で時間を稼いでくれたことで発動したリリアの「鑑識測定」が、風雪竜シュネーヴァイスが纏う呪われし風の正体を、白日の元に曝け出す。
「……お姉様!」
「なんですの、リリア!?」
「足元です! あの魔法陣……! ガーロン、っていうトロールと戦った時と同じものが……!」
「でかしましてよ、リリア! タネが割れれば……こっちのもんなのですわああああッ!」
荒れ狂う吹雪に隠れて見えづらかったものの、シュネーヴァイスの縄張りには、リリアが確かに見つけ出した通り、ガーロンが守っていたのと同じ魔法陣が描かれていた。
それが、風の元素に呪いをかけて増幅する類のものであることは判明している。
そして恐らく、この魔法陣と連動する形で旧鉱山にガーロンたちは魔法陣を描いていたのだろう。
ルヴィアリーラは、直感的にそう理解する。
ヒンメル高地もウェスタリア旧国有鉱山も、地脈の質を見るならばそれは申し分ないものだ。
だが、魔法師か錬金術師でもなければ、地脈について重要視する傾向にはない。
そして、魔法師がエーテルから、完全なる無からその力を抽出することを至上命題としているのならば──
「お姉様!」
思考の沼に沈みかけたルヴィアリーラだったが、それを現実に引き戻すように、リリアの叫びが耳朶を震わせる。
それに遅れて、シュネーヴァイスが咆哮したのに連動したと思しき鎌鼬が、ルヴィアリーラの全身を切り刻んでいく。
「ぐっ……!」
アルゴナウツ・スカーレットは、炎の剣としての性質だけを兼ね備えているものではない。
その瞬間、ルヴィアリーラが押し寄せてくる死から逃れることを意識したことで、刀身を覆い尽くしていた焔は優しく聖衣ローズリーラを包み込んで、飄風から彼女を守るもう一枚の衣へと姿を変えていく。
──そういうことでしたの。
瞬間、ルヴィアリーラの脳裏に、パズルの欠片同士が噛み合うような感覚が閃いて落ちた。
星剣アルゴナウツ・スカーレット……と、いうより、この星剣アルゴナウツは、ただクソ重いだけで、そしてどんなに雑に扱っても刃こぼれしないだけの剣ではない。
ルヴィアリーラは、聖衣を焔の衣が包み込んだことで、それを直感的に理解していた。
「……第二ラウンド、開始と洒落込みますわよ、リリア!」
「は、はい、お姉様……! でも、どうすれば……!」
「簡単ですわ、わたくしに……あの極大魔法をぶち込んでくださいまし!」
鎌鼬による一撃を防ぎ切ったことで、焔の衣を剣に戻しながら、困惑するリリアに向けて高らかにルヴィアリーラが宣言する。
あの、ガーロンを倒した時、無意識に行っていた連携は、偶然の産物などではない。
シュネーヴァイスが破壊したはずの爪を再生していくのを視認しつつ、一刻も早くあれを叩き切って決着をつけんと、ルヴィアリーラは焔の剣を構え直す。
どうやら、この巣に敷かれた魔法陣は相手に再生能力をも付与するものらしい。
──だからこそ、だ。
わたくしを信じてくださいまし、と、その赤い瞳で訴えかけるルヴィアリーラに、虹の瞳を潤ませながらもリリアは確かに頷き、応えてみせる。
「感謝しましてよ、リリア! ちぇえええええすとおおおおおおっ!!!」
後隙を晒すことを覚悟した上で、ルヴィアリーラは「躯体強化」を起動すると同時に、全力で跳躍して、風雪竜の脳天を真っ二つにかち割らんと、星剣アルゴナウツ・スカーレットを大上段に振りかぶった。
正直に言ってしまえば、怖い。
それがリリアの偽らざる本音だった。
もしもルヴィアリーラが賭けに敗れて、自分の極大魔法で焼死してしまったら。
人を蘇らせる法など、神々が認めることがないと誰よりも理解しているからこそ、リリアは恐れを抱く。
だが、恐れとは裏を返せば誇りに変わるものだ。
いつだって、ルヴィアリーラは命をかけて自分にそれを教えてくれた。
冒険者が、御伽噺の中のように勇気に溢れ、日々世界を開くような存在でないことぐらいはリリアにもわかり切っている。
──それでも。
それでもこれは、自分たちにとっての、冒険だ。
危険と隣り合い、死と背中合わせになり、一握りの栄光を手にするために命を懸ける行いだ。
そして、リリアは──リリアーヌ・アイリスライトでもない、「28番」でもない、「リリア」は、ルヴィアリーラと、敬愛するお姉様と同じ冒険者だ!
「『炎よ』、『清らに燃える焔よ』『憐み』、『焼き尽くしたまえ』!」
魂の叫びに代えて、リリアは焔の極大魔法を四節で詠唱し、起動させる。
定める狙いの、視線の先は炎を纏った剣を大上段に振りかぶった、ルヴィアリーラだ。
巨大な火球が、敬愛するお姉様の頭上に現れて降り注ぐその光景に恐れを抱き、涙を滲ませながらも、リリアは決して目を閉じることなく、退くことなくその光景を見届ける。
やがて放たれた焔は、ルヴィアリーラを呑み込む──ことはない。
その全ては星剣アルゴナウツ・スカーレットが持つ宝珠の中へと吸収されて、刀身から噴き出す炎はやがて、風雪竜を覆い隠してしまうほど巨大なものに変わっていく。
ちぇすととは、ぶち殺した、の意だ。
ルヴィアリーラがその言葉を叫んだ時点で、この戦いの趨勢は、すでに決していたということなのだろう。
「これで……終わりでしてよおおおおッ!!!!!」
『Ru……OooooooooAhhhhhhh!!!』
リリアの極大魔法を纏った星剣アルゴナウツ・スカーレットはその刃で風雪竜シュネーヴァイスの巨体を呑み込むと、彼が纏う呪われた風の衣を引き剥がすように、そしてその上から無理やり真っ二つに引き裂くように、ルヴィアリーラの膂力によって振り下ろされる。
苦悶の叫び声を上げるシュネーヴァイスは、悪あがきに風雪のブレスを放とうとするが、それも全てアルゴナウツ・スカーレットが纏う聖なる焔の前には無力だった。
その瞬間、ルヴィアリーラは一つの伝説となっていた。
そして、リリアもまた同じだった。
神々の庭園を遊び場としていた竜の巨体が燃え盛る炎に飲み込まれ、崩れ落ちていく。
──竜殺し。
数多の御伽噺に語られる英雄の代名詞にして、不可能という言葉の言い換えにもなっているその偉業は、この時代において、ルヴィアリーラとリリアという二人によって成し遂げられた。
猛り爆ぜる炎が消えたその後にあるものは、残心を持って剣を振り抜いたルヴィアリーラの姿と、そして。
極大の爆炎でもってかき消された魔法陣の上にぽとりと落ちた、呪いの色に染まりし、一つの宝玉のみだった。




