35.今はただお眠りなさい、なのですわ
頑丈な木材、といっても物事には限度というものがある。
掃除を終えたアトリエでベッドに寝転びながら、ルヴィアリーラは幼い頃に幾度も幾度も読み返し、そして今もこっそり屋敷から持ち出してきた「錬金術体系全著」という本のページを捲っていた。
かのクラリーチェ・グランマテリアが直々に、姉であるカリオストロ・エル・フリクモルトが発明したレシピをまとめた、角で殴っただけで人を殺められそうな分厚さのその本は、買えば目玉が飛び出る程の値段がつく。
それでも、ヴィーンゴールド家にこの本があったのはひとえに、プランバンがルヴィアリーラを愛していたことの証左であろう。
頑丈な、というのは、硬度のことを指しているのだろう。
ヒンメル高地の山嶺に設けられた開拓村の敵は、何もグランマムートのような魔物だけではない。
押し寄せ、降り積もる風雪こそが村民にとっての大敵であり、だからこそ皇国はその猛吹雪や大雪に耐えられる木材を作ってみせろと命令したのだ、と、ルヴィアリーラは推察している。
「一口に頑丈、と仰られましても……いえ、弱音を吐いてはいられませんわ。わたくしは、ルヴィアリーラなのですから」
ルヴィアリーラが頭を抱えているのは、皇国が指定してきた「頑丈な」という部分だ。
一口にそうはいっても、素材の剛性を高めるのは中々に難しい。
そうでなければ魔法師たちが「魔力付与」の魔法を使いこなすのに、宮廷に召し抱えられるほどの実力を求められたりはしない。
それは、体系的には魔法の代替である魔術に属する錬金術でも同じことだ。
ただし、「魔力付与」と錬金術が決定的に違うところがあるとするなら、その工程の前後だろう。
ルヴィアリーラは、木材──とりわけ広く用いられている「コルツァ材」に含まれる土の元素を活性化する方向で、その実現を検討していた。
「……ん、ぅ……」
「あら、リリア。起こしてしまいまして? ごめんあそばせ」
「……るゔぃあ、りーら、さま……」
ああでもないこうでもないと、「錬金術体系全著」と睨めっこをしながら唸り声を上げていたルヴィアリーラのそれが耳に障ったのだろう。
ちょうど二人寝れる分のベッドに入っていたリリアがもぞもぞと身をよじって、その半身を起こす。
そして、相も変わらず美しい虹色の瞳には、じわりと涙の雫が滲んでいた。
怖い夢でも見たのだろうか。
寝ぼけながらネグリジェ姿の自身に抱きついてくるリリアを、そっと受け止めながら、ルヴィアリーラは、小さく癖がついた銀髪を優しく撫でた。
「……ルヴィアリーラ様……ごめんなさい……わたし……」
「仕方ありませんわ、夢というのは人がどうこう……そうですわ!」
リリアを胸に抱きしめながら、ルヴィアリーラは閃いた、とばかりに目を大きく見開いて一人、合点がいったようにそっと頷く。
「……ルヴィアリーラ様?」
「リリアが上手く眠れない……ならばこれこそ錬金術の出番ということでしてよ!」
ぽん、と右手の拳で左の手の平を軽く打つと、ルヴィアリーラはリリアに少し待っていてくださいまし、とその額にベーゼを落とす。
そして、一目散に一階部分にある錬金窯へとルヴィアリーラは「躯体強化」の魔術を起動して走り出した。
錬金術は、困窮した人々を助けるためにこそある。
クラリーチェ・グランマテリアが「錬金術体系全著」を記した時に遺した言葉だとされているが、それは姉のカリオストロ同様、多くの錬金術師に受け入れられることはなかった。
それは錬金術という魔術体系における学問が極めて難しく、修められた人間の間でもエリート意識が生まれていたことが大きい。
そして、開祖であるカリオストロさえも、そういった唯我独尊的な、自らの研究と真理の探究にしか興味がないという性格だった。
だからこそ、体系化によって広く門戸を開いた妹のクラリーチェが姉よりも人々からは讃えられることとなったのだ。
しかし、クラリーチェが広く人々に錬金術の門を開いても、錬金術師たちは様々な理由からそのエリート意識や探究優先の思考を捨てることはなかった。
現に、今もこうして、ルヴィアリーラ以外に冒険者ギルドから暖簾分けされた公認のアトリエを開こうとする者はいないほど、錬金術も錬金術師も、数百年という歳月を経ても尚変わっていないのである。
しかし、そんな事情や旧弊などゴミ箱にでも捨てておけ、という信条で動いているのがルヴィアリーラという女だ。
井戸から汲んできた水を沸騰させて、そこに出来合いのポーションと、そして王都に向かうまでの道中、野営がてらに採取していた「安らぎのハーブ」を、ルヴィアリーラは窯の中に加える。
「ふふふ……これでリリアも悪夢に悩まされることなく、安心して眠れますわね!」
あーっはっは、と、高笑いを上げて、ルヴィアリーラは錬成へと取りかかった。
そしていつも通りにぐるぐると星剣アルゴナウツでかき回すことで精製されるものは、「ウェルミンポーション」と呼ばれる、効果の弱い睡眠導入剤だ。
名前通りに、ポーションとしての効果もあるため、体力や魔力の回復にも寄与するため、野営にはもってこいの代物である。
ルヴィアリーラは錬金術を行う際に、剣を窯の中に突っ込んで、素材ごとぐるぐるとかき回している。
だが、これは「理解、分解、再解」という錬金術における三原則を、ルヴィアリーラが直感的に実現するための手法であって、必ずしもこれが正解だというわけではない。
むしろ、ルヴィアリーラのやり方は正規の錬金術師からすれば邪道もいいところなのだ。
手を合わせたり、釜をかき回すだけで、物ができるなら苦労はしないと、普通の錬金術師は声を揃えて愚痴ることだろう。
だが、錬金術はあくまで、三原則の実現による結果の出力──要するに、魔力を通して、神の法則を、現世というキャンバスに、その結果を出力する「魔法」から派生した「魔術」である。
だからこそ、どんなやり方であれ、最終的にルートパスが開通し、条件さえ満たしていればやり方の違いなど些末な話なのだ。
しかし、ルヴィアリーラにわざわざ難癖をつけて詰め寄ったところで彼女の性格上、大して意味がないのも確かなのだろうが──
「完成でしてよ!」
釜の中身が光を放つとともに、風と水、二つの元素の力を感じさせる小瓶がふわり、と宙へ浮き上がる。
そうして、恙無く出来上がったウェルミンポーションを手にすると、ルヴィアリーラは釜の火を消して、再びばたばたと慌ただしく、二階部分に駆け上がっていく。
「できましたわよ、リリア!」
「……え、えと……お、お早いですね……」
「ポーションの錬金は基本でしてよ、さあ、これをくいっと」
小瓶の蓋を開け放つと、ルヴィアリーラは涙をごしごしと拭っていた、同じネグリジェ姿のリリアにウェルミンポーションを手渡した。
リリアの柔肌には、目立つところに傷こそついていないが、腹部を中心とした目立たない場所には、まだ、痣が残っている。
だからこそ、悪夢を見るのだろう。
ルヴィアリーラは、自身の想像も及ばないようなリリアの過酷な半生に想いを寄せて、じわり、と鼻の頭の辺りに熱が滲むのを感じる。
それはまるで、地獄のようで。
身分を剥奪されて追放されただけの自分など、ただぬるま湯に浸かっているだけに見えて。
ちびちびとポーションを飲み干したリリアの瞳が、少しずつとろん、と熱を帯びて、静かに目蓋が下がっていくのにルヴィアリーラは安堵しつつ、その眦に浮かぶ涙にそっと唇を寄せる。
「……るゔぃあ、りーらさま……えへへ……なんだか、うれしい、です……わたし……ほめられたこと、なくて……なでられたことも……えへへ……ぐすっ……」
「大丈夫。大丈夫ですわ、リリア。その分わたくしが貴女を褒めますわ。貴女はここにいていい……いえ、わたくしにとって、貴女は必要不可欠な、唯一無二の親友なのですから、いてもらわなければ、わたくしも困ってしまいますのよ」
親からも、誰からも愛されたことなどなかった。
愛の代わりに受け取ってきたのはいつだって暴力か、冷笑か、或いは存在の黙殺のどれかばかりで。
だから、リリアには、ルヴィアリーラがどうして自分なんかにここまで良くしてくれるのか、そして自分なんかを親友と呼んでくれるのかはまだわからない。
ただ、その温もりはとても頼もしくて、まるで。
「……おねえ、さま……」
そんな言葉をリリアの唇は無意識に紡いで、思考回路は遮断される。
お姉様。そう呼べる存在はリリアの住んでいた屋敷にはいなかった。
商品として売り出されていく同期の中にも頼れるリーダーのような存在はいたが、リリアはその互助から爪弾きにされる側だった。
それでもどうしてか、ルヴィアリーラを見ていると、浮かんでくるのはその言葉だったのだ。
「……お眠りなさいな、リリア」
お姉様。
自分がそう呼ばれたことに、ルヴィアリーラは少しだけ複雑な思いを抱きつつも、今だけはリリアの「姉」として、眦に浮かんだ涙をキスで拭いながら、そう囁きかける。
ルヴィアリーラにも姉はいた。
生まれることの叶わなかった、そして魔法が使えなくなる代わりに、二人分の魂を一人の体に収める、という禁忌を贈り物にして、今の錬金術師としてのルヴィアリーラを作り上げた姉──本来のルヴィアリーラにして、サフィアリーラという名前をいただいた魂だ。
だが、ルヴィアリーラはそれを知らない。
それでも、時折、五歳になる時まで自分の脳裏に囁きかけてきた声は、「姉」のものではなかったのだろうかと、そう思うのだ。
ぐっすりと眠りについたリリアの横顔は穏やかで、春の梢に包まれているかのようだった。
そこにはもう、憂いも何もない。
ただすやすやと、年頃の少女が少女らしく眠る姿だけが、カンテラが照らす、夜の帳の中に映し出されている。
「……リリア、わたくしは……嘘は言いませんことよ」
どこまで自分の言葉を信じてもらえているかはわからない。
それでも、リリアにかける言葉はいつだって、全て、ルヴィアリーラにとっては嘘偽りのない本当のことなのだ。
それを全て信じてもらえる日は、きっと遠いのかもだろう。
それでも、諦めたりなどしない。
なぜなら。
「……わたくしは、ルヴィアリーラなのですから」
銀の髪束を指先で掬って、さらさらと弄びながら、慈母のように、或いはリリアが評した通り、姉のように、ルヴィアリーラは優しく微笑むのだった。
リリアにとってルヴィアリーラは光なのですわ! 同じようにルヴィアリーラにとってリリアもまた光なのですわ!
【ウェルミンポーション】……弱い睡眠導入作用のあるポーション。寝ている間の自然治癒力を高めるという珍しいポーションであり、冒険者、特に魔法師や僧侶の間では夜営のお供だとされているが、地味に調合難易度が難しいために市場に出回ってるものは、ハイポーションくらいのお値段。




