「……なにかしてしまったのだろうか」
覚醒してまず初めに感じたのは土の匂いだった。そしてずきりと痛みが走り、ミハイルはかすかなうめき声を漏らしながら頭を押さえた。
「……ここは」
ゆっくりと目を開け、寝転がっていた状態から体を起こして周囲を見回す。一瞬くらくらとした感覚に襲われるも、四方を囲む土に愕然とした。
足元にも湿った土しかなく、顔を上に向けると高く伸びた土壁の向こうに茂る木々と、赤らみはじめた空が見えた。
「穴、か?」
どこかで穴に落ちてしまったのだろうかと考えたが、しかし穴に落ちるような場所にいた覚えはない。
ミハイルはどうしてこうなったのかを考えるが、答えは見つからなかった。教師に呼ばれて少しの間学舎に留まり、それから寮に向かっていたはずだ。
なのにどうしてか今は痛む頭と共にここにいる。
「登れそうにはないな」
唯一外と繋がっているのは頭上にぽっかりと空いた穴だけ。土壁はミハイルの背丈の倍以上はありそうだ。
さすがに無手で土壁をよじ登ることはできない。これが岩でできた壁ならば手を引っかける場所を探すなりして登れただろうが、土でできた壁は下手に掘ると崩れるかもしれない。
跳躍力にはそこそこの自信があるミハイルだが、助走もなにもなく自分の倍以上も飛び上がれるわけではない。国一番の騎士であれば可能かもしれないが。
「……助けが来るのを待つしかないか」
それまではできるだけ体力を温存しようと、土壁に背中を預けて腰を下ろす。
そして自分の体に異常はないかと確認しはじめた。
衣類に多少の汚れはあるが、それはこの場にある土でできたものだろう。他に変わった点があるとするならば、なぜか痛む頭だ。まるでなにかで殴られでもしたかのような、ずきずきとした痛みがある。
だが不意を打たれるほどミハイルは弱くはない。近づいてくる気配に気がついてればそれ相応の対応をしただろうし、覚えているはずだ。
少なくとも、ミハイルよりも弱い相手であれば。
「私の背後を取ってどうにかできるとしたら……フェイか、アルミラくらいか」
国一番の騎士と、ここ最近なにかと言葉を交わすことになった弟の元婚約者のことを思い浮かべる。
あの二人であれば、ミハイルの背後を取り気づかれないうちに襲うことも可能だろう。
「私に危害を加える理由はないはずだ……ないよな?」
抱いた疑念を振り払おうと口にしたものの、アルミラ相手に命の危機を感じたことを思い出し、思わず疑問形になるミハイルだった。
「いや、あれはレオンがいたからで……そもそも、本気ではなかったはずだ」
背骨が折られそうな勢いではあったが、もしもそうするつもりなら最初から遠慮なく折ればいいだけだ。
組みつかれた時点でミハイルの負けは確定していた。
本気でこちらの命をどうにかしようとしていたのなら、ミハイルも黙っていたりはしなかっただろう。本気ではないのと、レオンがいたからだということがわかっていたからこそ、誰かに報告することもなく自分の中に留めた。
「それに、恨まれるようなことをした覚えは……ないと思いたいが……」
人の恨みとはどこでどう買うかわからない。できる限り恨みを買わないようにと生活しているミハイルではあるが、ここ最近はアルミラに対して踏み込みすぎていた。
などということを考えてしまうのは、たった一人穴の中に置かれているからだろう。
平時であればもう少し冷静な判断を下せるが、もうすぐ日が暮れ、この場は暗闇に閉ざされる。月明かりが届くかどうかもわからない穴の中で、ただ考えることしかできない状況がミハイルから正常な判断を奪う。
思わず独り言が増えてしまうほど、今のミハイルは寂しくて不安だった。
「……なにかしてしまったのだろうか」
心配で見かけるたび声をかけてしまってはいたが、気を悪くさせるようなことはしていなかったはず。そう思うものの、もしかしたらレオンの兄に絡まれること自体疎ましかったのかもしれないと、なぜか気が沈むような発想に至ってしまう。
世の中の恋物語には、可愛さあまって憎さ百倍とばかりに相手の家族や親類、果ては飼っている動物にまで恨みをぶつける者が登場するものもあった。
もしかしたらアルミラもその手合いだったのかもしれないと、ミハイルはさらに不安になる。
沈み込むミハイルに合わせるかのように、少しずつではあるが辺りも暗くなりはじめている。
消灯時間になれば寮を管理している使用人がミハイルの不在に気づくかもしれないが、夜の捜索は難しく、危険だ。
山や森に迷い込んだ人を探すにしても、日が出てからの捜索になることも珍しくはない。
下手すると真っ暗闇の中で一晩過ごさなくてはいけなくなるだろう。
ミハイルは立てた膝に自分の顔を埋めるように俯き、小さく息を吐いた。
母親が亡くなってからは一人で過ごすことの多かったミハイルではあるが、さすがに穴の中で一夜を過ごしたことはない。
さらには夕食も食べておらず、最後に食べたのは昼時だった。助けが来るのがいつになるかはわからないが、それまで持ちこたえることができるかどうか。渦巻く不安がミハイルの思考をどんどん沈めていく。
「……アルミラ、ではない……はずだ」
命を狙うのならばこんなよくわからないところに捨て置くよりも、直接的な手段に出たほうが簡単で手っ取り早い。そしてアルミラにはそれをするだけの実力がある。
直接どうこうした場合は嫌疑をかけられることになるが、穴に放り込んで無事生還しても同じことだ。心当たりはないかと問われれば、ミハイルはアルミラと国一番の騎士の名前を出すだろう。
「そんな疑われるような真似をするとは思えない」
それに真っ向からではなく暗殺という手段もある。それならば疑いを逸らすこともできるだろう。
なにしろミハイルを狙いそうな相手として真っ先に名が挙がる人物がこの国にはいる。
レオンの母親、コゼットだ。
マリエンヌが亡くなってから、コゼットはよくミハイルを睨んでいた。ミハイルに仕える使用人を定期的に替えたりなどの嫌がらせを行ったり、レオンをあからさまに優遇したりと好き勝手していたのだ。
今さらミハイルの暗殺を企てたとしても誰も不思議には思わない。
「いや、コゼット様も私をどうこうする理由はないはずだ」
レオンが次期王になることは決まっている。それなのにあえて危険を冒しはしないだろう。
結局思考は堂々巡りになり、どうしてここにいるのか、誰の手によってここにいるのかわからないまま時間だけが過ぎていく。
赤かった空が次第に黒に塗り替わっていく。闇に閉ざされていく空間に、ミハイルはぼんやりと上を見上げた。いっそ眠ってしまえば楽なのかもしれないが、安眠できるような精神状態ではない。
眠ろうと思えば思うほど焦りが生じ眠れなくなるだろう。
「ミハイル殿下」
そして、声が聞こえた。
「ああよかった。こちらにいらっしゃったのですね」
暗闇に光が差し込む。その眩さにミハイルは目を細めながら、穴の向こう側で柔らかく微笑むアルミラを見つけた。




