11 隣の佐知子さん
俺はしみじみと幸せを噛みしめていた。
穂乃果の将来の夢を聞いてから一週間。嘘みたいに平穏な日々が続いている。
時折、穂乃果にベランダに呼び出されてはBL本の感想を求められ、LINEが来たかと思うと、推しカプに対しての熱い思いがぶちまけられる。
まあ、志乃ちゃんに会えば逃げられ、家では咲良から家政婦ばりに見張られていたが、おおむね幸せと言っても間違いはないだろう。
「拓馬、部の設立許可が出たってさ」
放課後、帰ろうとした俺に風見が話しかけてきた。
「あれか。結構早かったな」
「部のネームプレートも設置されたんだって。部室も今日から使えるらしいし、見に行こうぜ」
ホームルーム終了後、穂乃果が蜂須賀先生と出て行ったのはそれだったか。
「風見さーん、早く行きましょ」
まるで自分の教室のようにそこにいるのは登呂川蜜だ。
奇妙な組み合わせで部室に向かうが、相変わらず登呂川の目には風見しか映っていないようだ。
イケメンは大変だなあと無責任に考えながら廊下の角を曲がると、部室が見えた。
部屋の前には蜂須賀先生と穂乃果が立っている。
「おーい、穂乃果」
穂乃果は扉の上のプレートを見たまま動かない。きっと感無量なんだろう。
何か真っ青な顔してるけど。
……あれ、何だ。何で変な雰囲気なんだ。蜂須賀先生が穂乃果の隣で焦っている。
「おい掛彬、しっかりしろ。保健室行くか?」
「先生、どうしたんですか?」
「お前ら、いいところに。掛彬がさっきから動かなくなったんだが」
「なあ、穂乃果どうした」
何が起こったというのだ。穂乃果の顔色はさらに青く、小刻みに震え始めた。穂乃果の視線を追うとそこには部の名前のプレート。
そう、PL部の表示が――あれ。
「なあ穂乃果、あれ」
ようやく俺の存在に気付いたか、穂乃果はガキガキとぎこちなく俺の方を向いた。
「た、たっくん、どうしよう」
その時、偶然通りかかった女生徒が足を止める。
「え、まさか」
「佐知子、どうかしたの?」
「いやいやいや全然! 全然さっぱりなんともないよ!」
足早に通り過ぎる佐知子さん。
さもありなん。プレートに書かれている文字は、
BL部
俺もあまりのことに固まるしかない。
「おい、秋月まで何で固まってるんだ。おい、風見。ネームプレートに何か問題でもあったか?」
「えーとですね、俺の口からは何とも」
「せんせー、なんかBLって調べたらこんなん出てきたんだけど」
混乱する蜂須賀先生に登呂川がスマホを差し出す。肌色率の高い検索結果を眺めつつ、先生が小声で「なんじゃこりゃ」と言ったのを聞き逃さない俺。
「そういや聞いたことはあるけど、こんなんただの偶然だろ。なあ、掛彬」
「か、書き間違いですぅー。ただの書き間違いですぅー」
うつろな口調で繰り替えす穂乃果。
よし、それで押し通せ。穂乃果のキャラが若干代わってる気がするが。
「……それでか。職員会議で変な雰囲気になったのは」
「先生、単に設立届の書き間違いですよ、俺もPL部にするって前から聞いてたし」
俺も助け船を出す。なんというか俺もBL部に出入りするのは嫌だ。
「そうですぅー、書き間違いですぅー」
穂乃果は既に心配なレベルにキャラがぶれている。ちゃんと戻るのか。
先生もなんかただならない雰囲気に気付いたらしく、
「なんか分からんが良く分かった。じゃあ、ちょっと訂正の手続きしてくるよ。ビーでなくてピーエル部でいいんだな」
素直に流れに従うことにしたらしい。急ぎ足でその場から立ち去った。
「穂乃果、とにかく部屋で休もう。もう使っていいんだよな」
「はい、鍵はここに」
穂乃果は息も絶え絶えだ。これ以上のダメージを受ける前に静かな所で休ませよう。
その時、遅れてやってきた水無月が驚きの声を上げた。
「うわ、BL部ってなんだこれ正気か」
今のがとどめだ。穂乃果はゆっくりと俺の腕の中に倒れてきた。
――――――
―――
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
穂乃果は皆が止めるのも聞かず、机に額をこすりつけて謝り続けている。
さすがに止めを刺した張本人だという自覚があるのか。水無月が背中をポンポンと叩きながら慰める。
「別に誰が悪いわけでもないんだしさ、そんな謝ることないよ。書き間違いなんて誰にでもある」
「水無月さ~ん、ありがと~」
穂乃果は涙を浮かべながら水無月に抱き着いた。水無月は仕方が無いとばかりに溜息をつくと、穂乃果のしたいようにさせている。
「でも、偶然こんな変な書き間違いなんてついてないよねー。気にしなくていいよ」
登呂川は穂乃果の頭を撫でながら、もう片手でスマホをいじる。
「BLって良く聞くけど、こんなんなんだねー。うわー、えろーい」
穂乃果の体がビクビクと震え始める。もうやめて。とっくに穂乃果のライフはゼロよ。
とはいえ下手に口を挟めば泥沼になる。このまま書き間違いとして、皆の記憶が薄れていくのを待つのが一番だ。
今の俺には皆に午後ティを振舞うことくらいしかできない。人はそれをパシリともいう。
「とりあえず、ガムテープで隠しといたよ」
風見が応急処置を済ませて戻ってきた。これであとは部名の修正手続きが終わるのを待つだけだ。
多分何人かには見られたかもしれないが、いつの間にか無くなっていれば記憶に留めておく人もいないだろう。
……ただし、佐知子さんには要注意だ。見つけ次第処置した方がよかろう。
穂乃果の顔にも血色が戻りつつある。
なんとなく落ち着いたころ、蜂須賀先生が戻ってきた。
何故だかイライラを隠そうとせず、空いてる椅子にどっかと座る。
「先生、ありがとうございました」
誰も話さないので俺が口を開くと、先生は不機嫌そうに手をパタパタさせ、開口一番。
「なんか教頭がムカつく感じでさ」
愚痴だ。しかもレベルが低い感じの大人の愚痴だ。
「確認もせずに出したのかーとか、職員会議を何だと思ってるのかーとかグチグチと」
先生は黒タイツに包まれた足を組み、午後ティを勝手に開ける。それ、俺の分です。
「じゃあPLは何の略なんだーとか、おまけに私の評価がなんだかんだとしつこいから」
ペットボトルの半分を一気に飲み干し、机に叩きつける。
「BL部で間違いありませんって、啖呵切っちゃった。てへっ」




