沙羅 戦士になる
学校での韓信映画騒動がようやく落ち着き、沙羅は久しぶりにゆっくりとした時間を楽しんでいた。
「やれやれ、ようやく文化部のバカ騒ぎも終わったか……」
温かい湯に浸かりながら、彼女は安堵の息をつく。お気に入りのバスソルトを入れ、香りに癒されながらリラックスモード全開。
「明日はバイクで軽くツーリングでもするかな……」
そう考えながら、ゆっくりと湯船から上がり、バスタオルを巻いて脱衣所へ向かう。
——そして、その瞬間だった。
鏡に映る自分の体を見た沙羅は、目を見開いた。
「………………は?」
何かの見間違いかと、一度目をこすってみる。
バキッ!!!
腹筋が、割れていた。
しかも、綺麗なシックスパック!!!
「えっ!? いやいや、私そんなトレーニングした覚えないんだけど!?」
彼女は思わず鏡に顔を近づけ、再度確認。
そこに映るのは——間違いなく、アスリートのように整った肉体。
「きゃあああああああ!!!!!」
バイクのエンジン音もかき消すほどの絶叫が、磯貝家の風呂場に響き渡った。
「お、お姉ちゃん!? 何!? どうしたの!?」
驚いた萌花が風呂場のドアを勢いよく開けると、そこには死んだ魚のような目をした沙羅がタオル一枚でへたり込んでいた。
「……萌花。」
「お姉ちゃん、なんでそんな顔してるの!? 何があったの!? お風呂で何かヤバいものでも見たの!?」
沙羅はゆっくりと顔を上げると、まるで 世界の終わりを見た人間のような目 で震えながら言った。
「……私……韓信みたいになってる……」
「は?」
萌花は、言葉の意味を理解できずフリーズする。
「ちょっとこれ見て……」
沙羅がタオルを巻いたまま、鏡の前に立つと——
萌花は見てしまった。
姉の腹筋が、綺麗に6つに割れていることを。
「えっ、お姉ちゃん……いつから ‘ボディビルダー’ になったの……?」
「違うわよ!!!! そんなつもりないのに、勝手に腹筋が鍛えられてたのよ!!!」
「いやいやいや!!! そんなことある!? 人間、そんなことにならないよね!?」
沙羅は頭を抱えながら、絶望的な表情で震えた。
「……私、ついに韓信の呪いを受けたのかもしれない……」
「いや、韓信の呪いって何!?」
「文化部のせいで、気づいたら無意識に鍛えられてた……私はいつの間にか “戦士” になっていたのよ……!!」
「お姉ちゃんが戦士になってどうするのよ!!!」萌花のツッコミも虚しく、沙羅は震える手でスマホを握りしめた。
「……くそっ、こうなったら “元凶” に話をつけるしかない……!」
その夜、伊勢野真平は、心穏やかに自室でくつろごうとしていた。片手にはスナック菓子、もう片方にはポットに入れたお茶。完璧な深夜のお供を持ち、ルンルン気分で部屋に入る。
「いやぁ、久しぶりに夜更かしするかぁ~♪」
だが——
何かがおかしい。
室内の空気がいつもより冷たい。
明かりもつけていないのに、そこには確かに人影が——。
ベランダ越しに入ってきたであろう幽霊のような姿が、部屋の片隅にじっと立っている。
「……おまえが……この身体にした……」
「…………は?」
次の瞬間、真平の脳内に警報が鳴り響いた。
『いやいやいやいや!? 俺、なんかした!?!?』
「ぎゃあああああ!!!??」
スナック菓子とポットが宙を舞う。心臓が飛び出そうな勢いで、真平は数歩後ずさった。
「沙羅ぁぁぁぁ!? おまえ! ただでさえ少なくなっている俺の寿命を減らす気か!!!」
「お前のせいだ……!!!」
「いや、意味がわかんねぇよ!!!???」
真平は恐る恐る、闇の中に佇む沙羅を観察する。
スウェットの上下で、腹筋をバキバキに割った女が夜襲してきた。
「……いや、怖すぎるだろ、この状況……」
沙羅は真平を押し倒してマウントを取ると
「文化部のせいで、私は ‘こんな身体’ になっちまった……!」
「おいおいおい、何の話だよ!?」
「見なさい、これ!!!」
沙羅は突然、スウェットを捲し上げ、腹筋を見せつけるポーズを取った。
真平は 見てしまった。
美しいシックスパックが、月明かりに照らされて輝いていることを。
「…………いや、すげぇ……」
「そう!!! すげぇのよ!!!」
「なんでキレてるんだよ!?」
「私は ‘普通の女の子’ だったはずなのに!! 文化部の騒動に巻き込まれた結果、いつの間にか ‘戦士の体’ になってたのよ!!!」
「いや、俺のせいじゃないよな!?!?!?」
「ちょっと確認するわよ!!」
「は!? 何を!?」
「お前の腹筋はどうなってるのか!!」
「えっ」
沙羅は無言で近づき、強引に真平のシャツをめくる。
「ちょ、待て待て待て!!!!」
「…………は?」
真平の腹筋は、どこにでもいる “普通の男子高校生のそれ” だった。
「おい、何その顔!!! なんで ‘お前が腹筋ないのかよ’ みたいな失望した表情してんだよ!!?」
「おかしい……同じ文化部で、同じように動き回ってたのに……」
「いや、俺の方がむしろ雑用ばっかやってたけど!??」
「なんで私だけ ‘無意識に鍛えられて’ たのよ!!!!!」
「知らねぇよ!!!」
沙羅は必死で考えた。
「あれ……もしかして……私、無意識に鍛えられてた……?」
改めて考えてみると、文化部での活動は異常だった。
「……文化部のせいね。」 彼女は呟いた。
「これ飲んで落ち着け、スナック菓子もあるから。あと映画でも一緒に見よう」
深夜、真平の部屋。
スウェット姿の沙羅が、バキバキに割れた腹筋を見せつけながら憤るなか、真平は何とか場を和らげようと、湯気の立つお茶を差し出した。
「……映画?」
沙羅は疑わしげに眉をひそめる。
「あぁ、なんつーか、お前も ‘普通の女子高生’ に戻った気分になれるようなやつな。ホラー以外で。」
「……ホラー以外ならいいけど……」
渋々ながらもスナック菓子を手に取る沙羅。彼女の腹筋はすでにアスリートのそれだが、心はまだ女子高生である。
「真平、明日ツーリング付き合いなさいよ」少しむくれながら沙羅は言う。
「猫カフェ以外ならどこでもいいぞ」
二人はゆっくりと映画を鑑賞した。




