魂、ゴンドラに置いてきた。――那須ロープウェイ紅葉遠足
十月。那須の空は高く、紅葉は「見ろ」と言わんばかりに派手だった。
その日、日ノ本文化部は遠足という名の外出イベントを決行していた。
「秋だもの! 紅葉よ! 昭和の遠足は紅葉と相場が決まってるの!」
琴美が胸を張る。相場という言葉の使い方が雑だ。
「昭和でも令和でも、ただの観光だろ……」
真平は荷物を持たされている。文化部の遠足は、だいたい真平の肩から始まる。
「でも那須はいいですよねぇ……景色がやさしい……」
美優がにこにこしながら言う。彼女の笑顔は、旅館の玄関に常備しておきたいレベルの安心感がある。
「今日はデータ取る」
巫鈴がさらっと言った。何のデータか聞きたくない。
「パォ~~! 紅葉! 食べられる?」
シャオは自由だ。
「食べられない。でも食べる流れにはなる」
ズーハンはもっと自由だ。
「ちょっと、二人とも自然保護って概念知ってる?」
沙羅が額を押さえる。
「萌香、撮るなよ。今日は映えで人を殺す日じゃない」
真平が釘を刺す。
「え? 今日は真平ちゃん半泣きが撮れたら勝ちでしょ」
萌香はスマホを胸に抱えた。戦争の準備が整っている。
「……で」
勇馬が眼鏡をくいっと上げる。嫌な予感しかしない仕草だった。
「今日の移動ルート、標高差、風速、気温、混雑率、落下リスク――ざっくり予測してきました」
「やめろォ!! 言うなァ!!」
真平が叫ぶ。
「え、真平、苦手なの? ロープウェイ」
沙羅が横目で見る。
「苦手っていうか……俺は空中で宙ぶらりんになる椅子に弱いんだよ」
真平は言い切った。人生で初めて強がらなかった。
「大丈夫よ! 文化部がついてる!」
琴美が背中をバンと叩く。力が昭和プロレス。
「パォ! 真平先輩、手つなぐ?」
シャオが心配そうに言う。
「ありがと。でもそれやると俺が保護者側になれなくなる」
真平は変なところで矜持がある。
那須ロープウェイ乗り場。
チケット売り場の前で、真平は既に顔色が薄い。
「見て! 紅葉の海! 昭和の絵葉書みたい!」
琴美がテンションを上げる。絵葉書は昭和に限らない。
「……風、強くない?」
真平が空を見た。
「平均風速、秒速5メートル。体感はもっと強いかも」
巫鈴が即答する。
「体感とか言うな!!」
真平が即ツッコミする。声が裏返った。萌香が勝利の笑みを浮かべる。
「真平さん、飴どうぞ~。気分落ち着きますよ~」
美優がそっと差し出す。旅館の娘、こういう時の正解行動が早い。
「ありがとう……人生で初めて飴が命綱に見えた」
真平は飴を握りしめた。
「さぁ行くわよ! 昭和魂の高度、上げてくわよ!!」
琴美が先頭に立つ。高度は魂で上がらない。
「私は高いところ平気。落ちる確率は低い」
巫鈴がさらっと追い打ち。
「落ちる確率って言葉をこの場で使うな!!」
真平が二度目の裏返り。萌香のスマホが光った。
「撮るなって言っただろ!」
「え? 撮ってないよ。配信の準備だけ」
「それが一番やばい!!」
ゴンドラに乗った瞬間、真平の魂は天井に貼り付いた。
「……あのさ、誰も立つな。揺れる」
真平の声は低い。怖い時の男は低音で誤魔化す。
「パォ~! 窓の外、きれい!」
シャオは窓に張り付く。危ない。
「姉貴、座れ。酔うぞ」
ズーハンが説得する。珍しく兄らしい。
「揺れの周期は約4秒。風の息がある」
巫鈴がメモを取る。
「やめて! 分析してる場合じゃない!」
沙羅が言う。だが誰も止まらない。
勇馬が真面目に補足した。
「ロープウェイは安全基準が厳格で、冗長設計です。落ちる可能性は――」
「言うな!! 言うな勇馬!! 今落ちるって言いかけた!!」
真平が両手で耳を塞ぐ。
「……真平ちゃん、顔色、死んでる」
萌香が小声で言いながら、スマホの角度を微調整した。
「お前の方が先に社会的に死ぬぞ」
真平が静かに釘を刺す。
ゴンドラが風で少し揺れる。
真平が一瞬、声にならない声を出した。
「……っ」
「ほら、ここで深呼吸!」
美優が優しく言う。
「吸って、吐いて。旅館のお客様も高い橋で怖がるとき、こうします~」
「旅館のお客様、橋で何してんの」
沙羅が冷静にツッコむ。
「観光で……えへへ……」
美優が照れる。かわいい。場が少し和む。
「真平、見て。紅葉が勝ってる」
琴美が外を指差す。
「勝ち負けじゃない……でも……」
真平は恐る恐る窓の外を見た。
赤、橙、黄。山が燃えているみたいに色づいている。
たしかに――綺麗だった。
「……うわ。これは反則だな」
真平がぽつりと言った。
「でしょ? だから人は秋に山へ行くのよ!」
琴美がドヤ顔をする。ロープウェイの功績を全部自分に持っていくタイプ。
「真平さん、ちょっと顔戻りましたね」
沙羅が小さく笑った。
「戻ったっていうか……現実逃避の行き先が景色になった」
「それを戻ったって言うのよ」
沙羅が即断した。
山頂。
風は冷たいが、空気はやたら美味い。人間は単純だ。
「パォ~~! だんご!」
シャオが売店に一直線。恐怖の後の糖分は強い。
「GG! 俺はソフトクリームで回復する」
ズーハンも突撃。兄妹は食に忠実。
「真平、足、まだふらついてる」
巫鈴が言う。
「ふらついてるんじゃない。魂が遅れて到着してる」
真平が答えた。
「いいね、その表現。採用」
巫鈴がメモる。採用するな。
琴美が急に立札を見つけて叫んだ。
「次、殺生石よ!! 昭和怪談の本場!!」
「昭和怪談の本場って何」
沙羅が呆れる。
「だって九尾の狐よ? 昭和の怪奇特集に絶対載るやつ!!」
琴美は譲らない。
「真平、今度は呪い方面か」
萌香がニヤニヤする。
「俺は高所の次に呪いが来る文化部が怖い」
真平は本音を言った。
殺生石。
硫黄の匂いが鼻を突く。地面から白い湯気がうっすら立っていて、雰囲気がそれっぽい。
「うわ……ホラーの入口みたい」
美優が小さく言う。
「安心して。ここは観光地」
巫鈴が言い切る。
「安心しての前に硫黄臭が強すぎる」
沙羅が鼻をつまむ。
「パォ……なんかここ、食欲なくなるです……」
シャオが珍しく弱気。
「それ逆に危ない。お前の食欲が落ちる場所はだいたいヤバい」
真平が真顔で言った。
琴美が立札の説明を読み上げる。
「九尾の狐が退治されて、石に封じられた……うんたらかんたら……」
「うんたらかんたらで呪い説明すんな」
沙羅が突っ込む。
「でも雰囲気あるじゃない!」
琴美は満足そうだ。
その瞬間、風がひゅうっと吹いた。
真平がびくっとする。
「……来た。イベント風」
「イベント風って何」
萌香が吹き出す。
「こういうとこで風が吹くと、ホラーのBGMが脳内再生されるんだよ!」
真平が叫ぶ。
「大丈夫ですよ~。呪いより風邪のほうが現実的です~」
美優が優しく言う。
現実的すぎて逆に怖くない。
巫鈴が地面を見て、静かに言った。
「硫化水素の濃度は――」
「測るな!」
全員が同時に言った。
温泉神社。
鳥居をくぐると空気がすっと澄んだ気がした。気分の問題かもしれないが、気分は重要だ。
「……なんか落ち着く」
真平が息を吐いた。
「恋と呪いの話を聞いた後の神社は効くよね」
萌香が言う。お前は何を観測してきたんだ。
「真平さん、お守り見ます?」
美優が小さく笑う。
「見る。俺は今日、守られたい」
真平は即答した。
琴美が売店で叫ぶ。
「見て! 交通安全と家内安全と学業成就! 昭和なら全部買う!!」
「今も昭和も、財布は一個だよ!」
沙羅が止める。
「巫鈴、こういう時は理屈で止めて」
真平が投げる。
「琴美さん、予算超過は家計破綻を招く。結果、家内安全が崩れる」
巫鈴が淡々と言った。
「すごい正論で刺してきた!」
琴美がひるんだ。
「……助かった」
真平が心底ありがたそうに言った。
帰り道。
バスの座席で、真平は疲れがどっと出た顔をしていた。
「真平、泣いた?」
沙羅が小声で聞く。
「泣いてない。目に硫黄が入っただけ」
「ロープウェイでも同じこと言ってた」
「……今日は目が忙しいんだよ」
真平が負け惜しみを言う。沙羅が小さく笑った。
前の席では、シャオとズーハンが土産袋をガサガサやっている。
「パォ~! 温泉まんじゅう、今食べる!」
「GG! 今が旬だ」
旬じゃない。だが説得力はある。
「……文化部の遠足って、結局食だな」
真平が遠い目で言った。
美優がふわっと笑って言う。
「でも……今日、みんな笑ってました~。それが一番だと思います~」
その一言で、車内が一瞬だけ静かになった。
巫鈴が小さく頷く。
「幸福度、上昇。記録」
記録するな。
琴美が後ろの席から顔を出す。
「次はね! 紅葉の次は! 昭和の冬――鍋よ!!」
「やめろ」
沙羅が即答した。
「鍋はいいけど、琴美が買いすぎるのがダメ」
「買いすぎは文化!」
「文化じゃない」
真平が淡々と否定した。
バスの窓の外、那須の山は夕陽に染まって赤かった。
今日の赤は激辛粉末じゃない。平和な赤だ。たぶん。
真平は小さく息を吐いて、ぼそっと言った。
「……まあ、楽しかったわ。怖かったけど」
「でしょ?」
沙羅が短く返す。
美優がにこっと笑う。
シャオが「パォ~」と鼻歌を歌い、ズーハンが「GG」と相槌を打つ。
文化部の秋は、だいたいこうだ。
景色が綺麗で、騒がしくて、最後は腹が満たされる。
――そして真平の寿命が、ほんの少し縮む。




