消臭!それは青春のあとしまつ
夕暮れの廊下に、規律正しい足音が響く。
扉の前で一度深呼吸し、特別顧問大野博美は静かにノブを回した。
「失礼しま――」
次の瞬間、黒髪がぶわっと揺れ、顔が一瞬で歪む。
鼻腔を襲ったのは、美優が切れて部員を花屋旅館の清掃に連れて行った後の数分前の屁地獄の残り香だった。
「……ッ!? くっさ!! ここで何が行われたの!?」
思わず窓を全開にし、手をブンブン振る。しかし、臭いは居座る。
「これはもう文化部じゃなくて汚染部。いや、世界遺産級の公害だわ!」
机を叩き、椅子に腰掛けては即座に立ち上がる。
「座ったら終わりよ……! スカートに染みついたら、法廷で異議あり!って言う前に失神者が出るじゃない!」
必死でハンカチを鼻に押し当てる博美。目は潤み、顔は変顔状態。
「……まったく、あの人たちは……」
ふと視線の端に、掃除道具入れが映る。袖をまくり、モップを握ってゴシゴシ。
「私が悪臭の後始末とはね。判例に残したら青春=臭気被害って後世に伝わるわ……!」
そのとき、棚に見慣れないスプレー缶が目に入る。
――『勇馬特製 昭和の力・消臭スプレー』
「……また妙なもの残して……」
呆れつつキャップを外し、シュッシュッ!
白い霧が舞い、レトロな石鹸の香りが広がる。
「……あら」
あれほどしぶとかった悪臭が、すっと消えていく。
「……本当に昭和ってすごいのね」
肩を落とし、机に腰掛け、備え付けの急須で湯を注ぐ。
「……こういう時間だけは、悪くないわね」
だが、冷蔵庫を開けた瞬間――ラップをかけられた、あのジャガイモスイーツが目に飛び込む。
博美は数秒フリーズ。次の瞬間、こめかみに手を当て、深いため息。
「……今度は食のテロね」
スプーンでひと口。もさっ。
博美は静かに目を閉じる。
「おいし」
スプーンを置き、お茶をすする。
「……青春というのは、本当に消化に悪いものね」
ラップをかけ直し、冷蔵庫の奥へ戻す。
夕日差す部室を振り返り、静かに笑う。
「……まったく、あの人たちは。でも、誰かが後始末をしておかないとね」
扉を閉めた瞬間、部室は清潔で落ち着いた空間に戻っていた。
──月曜の昼休み。
最初に部室へやってきたのは、部長の吉峰琴美だった。
扉の前で仁王立ちし、鋭い目つきで中を睨む。
「…………」
彼女の頭にフラッシュバックするのは、先週の屁地獄大騒動。
手で鼻を覆いながら、そろりそろりと扉を開ける。
「……まだ……残っているかしら……臭気……」
琴美はまるで敵陣に潜入する忍者のように、部室へ足を踏み入れた。
だが――
「……え?」
部屋の中は驚くほど清潔で、澄んだ空気が広がっていた。
むしろ、ほのかに石鹸のような香りすら漂っている。
「……な、なんで? あの臭いが……消えてる……」
鼻をひくひくさせながら、机の下、カーテンの影、冷蔵庫の前を確認する琴美。
どこを探しても、残り香は見当たらない。
「……これは……もしや……」
琴美は真剣な顔で腕を組んだ。
そして、ぽつりと呟く。
「――昭和の奇跡、再び!」
鼻高々に宣言しつつ、部室を見渡す琴美。
もちろん、彼女は知らない。
その奇跡の裏に、一人の女性の苦闘があったことを。




