【第Ⅴ章 ~Last Touch 最後の仕上げ】 1.帰ってきたミルドレッド
ロンドンから鉄道に乗って北に約1時間。イギリスの小都市、ピーターバロ。古い佇まいを多く残した街並みには、初夏の訪れを告げるオールドローズやラベンダーの淡い色が美しく映えている。
6月も半ばの日曜日、ピータバロ市でも一番賑やかな聖堂美術館通りでは、初夏の訪れを祝うささやかなカーニバルが催されていた。
通りには、似顔絵描きや、名のない画家たちが出す露店や、臨時に設けられたオープンカフェが設けられ、くつろぐ人々で賑わいを見せている。そんな中で、
「何ぃ! 今、ロンドンのナショナルギャラリーに展示してあるフェールメールの“ヴァージナルの前に座る婦人”は、お前が描いた”贋作”だって!」
「そう。うちの女教師のレイチェルが俺の知らない間にすりかえて、今年でかれこれ3年目になる」
古びたカフェのテーブルで珈琲をすすりながら、青年画家 ― キース・L・ヴァンベルト ― は、馴染みの店のマスターにうんざりとした顔を向けた。足元には、彼の相棒の中型犬 ― パトラッシュ ― が、相変わらずの可愛い仕草で、白と茶色の毛並の体をくるりと丸めて転寝している。
馴染みといっても、マスターは、厚い髭をたっぷりと頬に蓄えた男で、体格も良く、若いのか年寄りなのかちっとも分からない。それに、店を開く前はどこで何をしていたのか、キースは聞いたこともなかった。けれども、彼は今も昔も彼の良き相談相手なのだった。
「まぁ、事情を聞いてみれば、お前も大変な学園に巻き込まれたもんだ。……で、あの名門学校にお前を誘ったセレブな小学生のお嬢様とやらは、まだ、海外に行ったままなのか。それに、いくら学園の裏事情のためとはいえ、フェルメールの”贋作”まで描かされてしまうとは。何で、そんな大切なことをもっと早く俺たちに話してくれなかった? 色々と助けてやれることもあったのに」
キースは、マスターの言葉を聞いて、ため息を上塗りする。
いくら、気のおけない仲間だって、話せない事だってあるんだ。俺がフェルメールの贋作を描いた本当の理由が、あの絵に魅せられて、キャンバス中に入り込んでしまった成金画商の息子を外に出すためだったとか……その他にも幽霊の少女に頼まれて肖像画を描いたことがあるだなんて言ったら、頭がどうかしたんじゃないかって思われちまう。
けど、
「……実は、フェルメールの贋作の件だけじゃなくて、あの贋作には、”東洋マフィアの襲撃”っていう、厄介なおまけがついてるんだ。今は大人しくしてるけど、あいつら、きっと、また襲ってくるに違いない。そんな酷い学園に何時までも生徒たちを置いておくわけにはいかないだろ? だから、俺とミルドレッドはなるべく早く、あの悪徳女教師から、シティ・アカデミアを取り上げてしまおうとしてたのに……」
「おぃ、おぃ、面白いじゃないか。名門美術学校、ピータバロ・シティ・アカデミアを乗っ取るだって? 俺も一枚、その話に加えろよ。でも、お前、正直言って、そんな危ない学園やチャイニーズ・マフィアから、自分の身を守る自信なんてあるのか」
「まったくなし。……でも、かなり腕の立つ男に以前、用心棒の契約をもちだして、いい線まではいったんだが」
「用心棒? へぇ、それって、いったい、どこの誰」
「いや、そいつもこの3年間、まったく姿を見せなくて……」
これだけは絶対に言えるもんか。聖堂美術館にある聖ミカエルの肖像画と引き換えに、用心棒の契約を交わそうとした男が、3年間前にこの界隈を騒がせた連続切裂き魔だなんて。それでも、あの肖像画の前に立つと、あいつ ― イヴァン・クロウ ― は、天使みたいに優しく微笑むんだ。本当に殺人犯だなんて思えないくらいに。
……と、パトラッシュが、くわんと声をあげた。
その瞬間に、美術館通りに沿った一般道を、けたたましいエンジン音を巻き上げた黒塗りの大型バイクが走り去っていった。
”KAWASAKI”ゼファー1100。
「えっ、えっ、あのバイクって?」
まさかっ、
イヴァン!
イヴァン・クロウは、ゼファー1100のスピードにまかせて、手にしたナイフで咽喉を切裂いてくる連続殺人犯だ。けど、日本製のバイクなんて、このイギリスじゃ乗ってる奴は五万といるし。
キースが、その後ろ姿を目で追おうと、カフェのテーブルから身を乗り出した時、
“父と子と聖霊の名において、父なる神へ信仰の告白をせよ!
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神である主を愛せよ!“
大音声で聖書の一節を唱えながら、”悪魔祓い承ります”なんて看板を背に、胡散臭い神父が通りを過ぎてゆく。
ちぇっ、あの男もピータバロ市の名物と言えば、そう言えなくもないんだけど……
「キース、見てみろよ。また、空気の読めない奴が、カーニバルにかこつけて、おかしな商売をしてやがるぜ」
「あの胡散臭い神父って、聖書はあのフレーズしか言えねぇんだよ」
マスターの言葉に、苦い笑いを浮かべるキース。すると、彼らのテーブルの間近の道路に横づけるように、白いパジェロが止ったのだ。
また、日本車かよ……で、次は三菱の高級RV車?
その車から降り立ったエキゾチックな黒髪の美人。キースは琥珀色の瞳をきょとんと瞬かせた。
南洋と西洋を混ぜ合わせたような魅惑的な顔だち。背中で軽くウェーブした艶やかな髪と、小花をあしらった高級シルクのフレアスカートが、いかにも金持ちっぽい。そして、輝く漆黒の瞳。
キースたちのいるテーブルに近づいてきた彼女は、にこりと微笑みながら、パトラッシュの頭をなぜる。至近距離で見てみると、一見した時よりも年齢はずっと若そうだ。
誰だ? どきんと青年画家の胸が音をたてた。……どこかで見たことのある顔。
「キース、お久しぶりっ。カーニバルだっていうのに、相変わらず、しけた顔してんのね」
その高飛車な言いっぷりに、
「ミルドレッドぉ? お前ってミルドレッドか!」
キースは、小学生だったお嬢様のあまりの変身ぶりに、大きく目を見開いた。
Kieth & Mildred




