12.絵の中の少年
キースは、少女の笑顔を見て、ふぅと一つ息を吐く。
本当は、また、幽霊のアンナを呼び寄せて、ミルドレッドの中に入り込ませるなんて、したくなかったけど……。俺の力だけじゃ、どうしようもないもんな。
「頼むよ。アンナ、この”ヴァージナルの前に座る婦人”の絵の中にいる少年の視線をほんの少しでいいから、外の世界に向けさせてくれ。俺たちの声は届かなくても、霊体のお前の声になら、きっと、絵の中の少年は答えてくれると思うんだ」
確信があるわけではなかったが、意外と自分の勘はあたるんだ。と、キースは相棒のパトラッシュに目で語りかける。すると、彼の足元にいた中型犬は、尾をいっぱいに振って、同意の意思を示してくれた。
アトリエに差す月明かりの下に、艶やかなミルドレッドの黒髪をなびかせながら、幽霊のアンナが、”ヴァージナルの前に座る婦人”の前に歩み寄ってゆく。
「キース、この少年の名前は?」
「えっと、確か、ウィリアム・M・グレンだったと」
分かったわと、アンナは、
「ウィリー、私の声が聞こえる? 聞こえないなんて言わせないわよ。だって、ほら、今、あんたの耳がぴくりって動いたもの」
絵の中の少年に向かってそう言った。そのとたん、キースは、アトリエの中の空気が密になったような気がした。
すると、
”誰だか知らないけど、邪魔しないでくれる。せっかくの綺麗なヴァージナルの演奏が聞こえなくなるじゃないか”
そんな少年の声が、どこからともなく響いてきたのだ。
た、多分……、これは、絵の中から聞こえてきてるんだよな……。
キースは、焦ってしまった。もちろん、こうなることを想定して、ちゃんと段取りは考えておいたけど、自分はもともと、幽霊とか怪異現象なんていうのは、大の苦手だったんだ。
「パトラッシュ、お願いだから、俺の傍にいてくれよな~」
わぉんと、可愛くも心強い声をあげた相棒の頭を撫でて心を落ち着かせる。そして、キースはふぅと深呼吸を一つしてから、いつもより生々しい感じがするその絵に向かって、
「なぁ、ウィリー、お父さんが心配してるんだ。だから、いい加減にその絵の中からこちらの世界へ戻ってこいよ。そのフェルメールは”贋作”だ。お前は、それを真作だと思って入り込んでいるが、”ヴァージナルの前に座る婦人”の本物は、今はロンドンのナショナルギャラリーに展示してある。お前の父親 ― グレン男爵 ― は、本物と見紛う贋作を贋作村で作らせて、色々と悪徳な商売もしてたけど、彼は、俺に約束してくれたんだ。息子がその絵から出てきて自分の元にもどってくれたら、今、持っている財産も贋作村の覇権も全部、捨てても構わないって」
キースは、返事が返ってくるのをしばし待つ。
すると、
”父が、あちこちで汚い商売をしてたのを僕が知らないとでも思っていたの? それに嫌気が差して、母だって家を出て行ってしまったんだから。でもね、父からいくら貰ったかは知らないけど、僕は騙されないよ。この”ヴァージナルの前に座る婦人”が贋作のはずがない。これでも、僕は小さい頃から色々な名画を見てきて、絵の目利きができるんだ。僕は、僕から母を奪った父とそっちの世界が大嫌いになった。この絵の中の婦人のヴァージナルの音色は、まるで、以前の母みたいに心に優しく響いてくるんだ。その音色を聞きながら、僕は一生、この絵の中にいる。だから、こんな風に呼び出して、邪魔をするのは、もうやめてくれ!”
ここまで、自分の息子に不信感を持たせたグレン男爵って、何て罪な親なんだろう。
その頑なな口調に、やっかいだなと顔をしかめたが、ここが勝負どころだと、キースは頑張ってみた。
「それでも、息子が戻ってきたら、今までの悪どい事業は全部、辞めるって言ってた時の、グレン男爵の目は嘘を言ってるとは思えなかったけどな」
”僕は信じない。そんなこと”
仕方ないなぁと、ため息をついたキースは、
「ピータバロ・シティ・アカデミア……目利きができるくらいに絵画に詳しいんなら、この学園の名前は知ってるだろうだけど……実は、この学園の裏家業は学校ぐるみの名画泥棒でもあるんだよ。俺はその学園のお抱え画家ってわけ。それで、俺が”汚い商売をしてる”グレン男爵と知り合いの訳が分かるだろ。……で、もう一つ、俺たちの秘密を教えてやると、実は先日、俺たちは、ロンドンのナショナル・ギャラリーから本物の”ヴァージナルの前に座る婦人”を盗んできたんだ」
と、 少年が入り込んだままの”絵”が乗せられたイーゼルとちょうど、対面の白い布がかけられたイーゼルを指差した。
”えっ……?”
「贋作なんかじゃない、本物のフェルメール。お前が入り込んでいる絵などより、数段、値打ちがある”ヴァージナルの前に座る婦人”の《《オリジナル》》」
一瞬の沈黙。
「見たくないか?」
”……そういえば、あの男もそんな事を言ってた。ナショナル・ギャラリーのフェルメールは、この絵よりずっといいぞって”
「あの男?」
”何日が前にこの部屋に来た黒いジャケットを着た男だよ”
「イヴァンか! あの男とお前は話をしたのか?」
キースは一瞬、声を詰まらせてしまう。幽霊のアンナじゃあるまいし、なぜ、あいつにそんな事ができるんだ?! けれども、絵の中の少年は、気にするでもなく、こう言った。
”絶対に騙されないけど、見るだけなら”
イヴァンに関しては、もっと、色々と探ってみたかったが、せっかくその気になった少年の気分を余計な質問をして、変えられたくない。それだから、キースは素早く布のかかったイーゼルの前に移動すると、なるべく大げさな仕草で、その布をはずしてみせた。




