第四話 歌を歌えば
ツァーレンが教師を招いて勉強を始めたのは、五歳の誕生日を過ぎた頃でした。
相変わらず肌は醜く、乳母をはらはらとさせいたツァーレンでしたが、本人にしてみればそれはいつものことなので乳母ほど嘆いてはいませんでしたし、ツァーレンの前におとずれる大人はみな、誰も肌のことは言わないので乳母の嘆きの意味が理解できませんでした。
ツァーレンは現在の自分を何も思い悩むことなく受け入れていたのです。
それよりも勉強をすることがツァーレンにとっては刺激的で、退屈な毎日だったものが今は楽しくてしかたがありません。
物覚えの早いツァーレンは、どの教師も舌を巻くほどどんどんと何でも吸収し、予定よりも早く勉強も進んでいくのです。
楽器を渡されたのも、このころです。
つま弾くだけでいろんな音階を楽しむことのできる弦楽器が一番のお気に入りでしたが、ツァーレンの指ではつま弾くことができず、かわりに工夫をして小さな板を爪代わりに指ではさみ、楽器を弾いていました。
だんだんと音楽というものが分かってくると、勝手に口が動いて弾いた音をそのままに口ずさむようになりました。
これには教師も吃驚しました。
特別訓練などしているわけでもないのに、歌い始めると高音域から低音域の幅の広い音階をスムーズに出すことができたからです。
天使のような歌声に、教師は歓喜しました。
音楽というものは感情が歌に深みを与えます。
教師はできうる限りの知識を持って、ツァーレンを指導し始めました。
そして感情を歌に託すように、音楽が友人のいないツァーレンの心の友になるようにと願ったのです。
その思惑以上に、ツァーレンは歌に傾倒しました。
勉強していない間は楽器を、もしくは歌を歌い続け、片時も音楽から離れないようになりました。
昼間よりも夜の方が歌に響きが出ることも知りました。
ツァーレンは自分の世界が広がったことを知りました。
ある夜。
乳母が部屋を下がった後、ツァーレンはこっそり夜の庭へ向かいました。
御典医は外に出てはいけないと言っていましたが、それは日差しの強い昼間のことであって、夜に外に出てはいけないとは言われてはいませんでした。
夜の庭は、昼間の雰囲気とは随分と違った不思議な雰囲気がありました。
昼の庭は葉がきらきらと輝いて、緑がどこまでも深く、部屋から覗くしかないツァーレンを優しく見守ってくれていましたが、夜の庭は葉の影が神秘的で闇との境目が見えず、何とも言えぬ寂しさに包まれていました。
ツァーレンは庭に入った瞬間に、自分が夜の庭の住人だということを理解しました。
―――――なんてうつくしいの。
ツァーレンは鉄紺の闇にぽっかりと浮かぶ金糸雀色の下弦の月を仰ぎました。
するとどこからか、美しい歌声が聞こえてきました。
その歌は、ツァーレンが全く聴いたことのない曲でしたが、しんとした夜に相応しい儚さが伝わってくるものでした。
あまりに美しいものですから、ツァーレンはその声に自分の声を重ねることができるだろうかと音を拾おうと喉元に手を当てました。
その時の驚きは、大人になっても忘れることはありません。
なんとその歌は、ツァーレン自身が歌っていたのですから。
『音楽というものは感情を曲に載せるからこそ深みが出、人を感動させうるにたるのだよ。けれども自分の感情が音源となって無意識に奏でる音は、技巧などなくても最も人に感動を与えるものだ』
音楽の指導をしてくれた先生が言っていた言葉を、ツァーレンは唐突に思い出しました。
あの時はどんなに言葉を尽くされても、難しくて意味が呑み込めませんでしたが、今の自分ならやすやすと理解できました。
―――――せんせいはきっとこのことをいっていらしたのだわ。
降り注ぐ淡い月明かりの下、ツァーレンは感動に震えて、高揚感に満たされました。
それはツァーレンにとって初めて知った感情でした。
―――――どうしたのかしら。なんだかふわふわとしてとてもきもちがいい……。
小さなツァーレンは、知らずと習ったばかりの輪舞曲のステップを踏み始めました。
もちろん、口から紡ぐ音は小鳥のさえずりのように、すべて歌になって夜の闇に広がります。
くるくるくるくる
素足が汚れるのを厭わずに、ツァーレンは踊り、また歌い続けました。
月の灯がシャンデリア、心地よく吹く風は賛美の拍手。
絵本で見た舞踏会の美しい場面のように、ツァーレンは夜の庭を楽しみました。
翌日。
寝室に主が眠っていないことに気が付いた乳母が、あわてて庭の中を捜し回ると、東屋のベンチに踊り疲れて眠っているツァーレンを見つけました。
不思議なことに身体にはすっぽりとくるむようにブランケットが掛けられて、手には一枚の大きな黒い羽根が握られていました。
乳母は安堵に息を吐き、そして訝しがりながらもすぐさまツァーレンを抱きあげて部屋へと駆けもどり、寝台に横たえました。よほど疲れていたのか、寝かされてもなおピクリとも動かずひたすら眠り続けていましたが、乳母が邪魔だろうからと、羽根を手から抜き取ろうとしても頑として手を緩めず、抜くことはかないませんでした。
これに驚いた乳母でしたが、熟睡していたはずのツァーレンがもぞもぞと動いて羽根を抱きしめるように寝入ったので、眠っていても気に掛けるほどに大切なものなのだなと思い、そのままにして部屋を後にしました。
太陽が一番天高く昇った時、ツァーレンはこっそりと扉から顔をだしました。
手にはやはり羽根を握りしめています。
「ツァーレンさま、おはようございます。よくお眠りになられたようで」
ちくりと嫌みをはさみながら、乳母は遅く起きてきたツァーレンのために軽い食事を用意しました。
「……おはよう……」
「昨夜のことは覚えておいでですか?夜の散歩は楽しかったでしょうか。けれど東屋で一晩明かすのはこの乳母やの心臓が持ちませんからぜひとも止めてくださいね」
「……ごめんなさい」
あまりにもツァーレンがしゅんとうなだれるものですから、乳母はこっぴどく叱らなければと思っていた気持ちがみるみるとしぼんでいくのが分かりました。
それに普段はおとなしく、そういう意味では全く手のかからない子供でしたから、すこしくらいは羽目を外してもいいのではないかとも思っていました。
――――ほんとうにお可愛らしい
ツァーレンがおずおずと上目づかいで乳母を見るものですから、乳母は笑いたくなるのを必死にこらえました。
産まれてからずっと自分の子供のように、いえそれ以上に手塩にかけて育ててきた自分の王女、ツァーレン。
なんとかわいらしく、また素直に成長したのかと感慨に浸っていた乳母の耳に、不愉快なほど大きな音が聞こえました。
礼儀も遠慮もなくしたそれは、無理やりに開けられた扉が軋む音でした。




