第二話 きっかけ
☆なぜか乳母視点。
肌のトラブルに関して緻密な記載があります。
苦手の方は回避してください。
「お可哀想なツァーレンさま。王女さまはこれっぽっちも悪くないというのに」
乳母は己の憐憫を子守唄にしてツァーレンに歌います。
第一王女であるツァーレンの乳母であるならば、権力が約束されたも同然でしたが、ツァーレンは王さまに見限られた王女。そのような王女に取り入ろうとする貴族はいるはずもなく、逆に関係を取ろうものなら王さまの不興を買うことでしょう。
王女とともに城の隅の部屋でじっと縮こまるしかなくなった乳母は、今日もまたその想いを紛れ込ませ、ツァーレンに歌うのです。
お妃さまが亡くなって数日。
ようやく訪れた春の日差しが、白に覆い尽くされた庭を緑に変えていきました。
部屋に閉じ込められたツァーレンも、己の庭には出ることを許されています。
乳母は自分の利己的な想いとは裏腹に、赤子のツァーレンに親の愛情以外のものすべてを与えようとしていました。
それは生まれてすぐに亡くなった自分の赤子の代わりだったのかもしれません。
それとも生まれてすぐに手渡された、みどりごであったツァーレンに本物の愛情を感じていたからかもしれません。
赤子に日光浴をさせようと、青々とした庭に乳母は降り立ちました。
いくら雪が解けたとはいえ、まだ土は湿り気を帯びていました。
乳母は滑らないようにと注意しながら、ゆっくりと樹の迷路を歩きます。
初めて入る迷路でしたが、乳母は迷わず東屋へとたどり着きました。
それは樹の壁をずっと同じ手で触っていたからです。
迷路は同じ手でずっと伝うように壁を触ると終点にたどり着くことを乳母は知っていたのでした。
「ツァーレンさま。外の空気は気持ちいいですわね」
腕の中ですやすやと無防備に眠るツァーレンを、乳母は満足げに微笑みました。
―――――なんてお可愛らしいのでしょう。亡きお妃さまにそっくりの亜麻色の髪が光を浴びてきらきらと輝いているわ。それに今は瞑っているけれど、瞼が開いた時のあの吸い込まれそうな新緑の瞳ったら。
愛おしそうにツァーレンの顔を眺めていると、ふと、見慣れない出来物があることに気がつきました。
部屋の中ではわからなかったのですが、それは強い日差しで明暗が付く外だからこそ気が付いたほどの出来物でした。
毎日お風呂に入れ清潔を保っているはずなのに、どうして出来物ができるのか。
乳母は不思議に思って、他にもないか確かめようと、東屋を後にしました。
その日を境に、ツァーレンの身体にはあちこち出来物ができるようになりました。
それはひとつひとつは小さいものでしたが、たくさん出来るために隣の出来物とくっついて酷くなり、膿がでるほどになったのです。
―――――どうして。なぜ。
乳母はどうしてこのようなことになったのか、さっぱりわかりませんでした。
それでも彼女の持てる限りの知識を使って、汗をかいたら荒れた肌に染みないように水を湿らした布でふきとり、沐浴も一日二回に増やして今まで以上に清潔に保つようにしました。
けれどどんなに気を付けていても出来物は数を増し、とうとう乳母は女官長に頼りました。
すぐさま御典医が呼び出され、ツァーレンの肌を診察しましたが、よい治療法がありません。
清潔にすること、そして荒れた肌に悪いからと外にでないことを乳母に約束をさせ、御典医は帰って行きました。
ツァーレンは庭にも出ることができなくなりました。
このころから、ツァーレンはむずがゆい皮膚をひっかくことを覚えました。
たまたま湿疹に手があたり、それが気持ちよかったのでしょう。
気がつくと拙い動きをした指が湿疹をかきむしり、柔らかくなった皮膚に傷をどんどん作っていきました。
傷が治り、かさぶたができる。
湿疹ができて、広がっていくとかゆみが増し、それをまた引っ掻く。
ツァーレンの肌は悪循環の生傷が絶えなくなりました。
もちろんそれを阻止しようと乳母は手を尽くします。
けれどツァーレンは赤子ならではの思いもつかない行動で、乳母の策をなし崩しにしてしまうのです。
まるでそれはいたちごっこのようでした。
赤子のツァーレンに大人の乳母が軽くあしらわれているのです。
乳母はそれでも根をあげることなく、ツァーレンの肌を取り戻そうとしました。
肌に良いとうわさされるものはできるだけ取り寄せて、ツァーレンに試しましたがうまくいきません。
よくなるものはほとんどなく、それどころか状態が悪くなるのもありました。
乳母はなくなくそれらを諦め、清潔を保つことだけに専念することになったのです。
このころのツァーレンは、顔中が赤く腫れあがり、膿が結晶となって肌の上に黄色く張り付き、あちこちに鋭い切り傷が絶えない、そんな赤子だったのです。
結局は悪者になりきれない優しい乳母でした。




