第三十七話 嵌め殺しの窓から見える月
その夜。
夕餉の後、フロレスはツァーレンを膝の上に座らせて、至福の時を楽しんでいました。
初めのころは膝の上に座らせると可愛そうなほどかちかちになって、何か言葉を紡ぐたびに飛び跳ねるように反応していたツァーレンも、最近ではフロレスの胸に手を添えて、凭れかかってきては気持ちよさそうに吐息をつくようになりました。
そんなツァーレンをフロレスは満足げに腕に力を込めて囲い込みます。
ツァーレンの小さな頭はフロレスの肩に載せられますが、ちょうど髪を結わえていたリボンの結び目が肩にあたりました。
フロレスはをするりとリボンを解いてその亜麻色のうねる髪に手をいれ、ゆっくりとほぐしはじめます。
とたんに髪に付いた甘い匂いがツァーレン本来の匂いと混じってふわりとたちあがり、鼻孔をくすぐりました。
「良い香りだ」
一房、髪をかきあげると、匂いを求めて髪にキスをするように顔をうずめました。
ふと視線を感じてツァーレンを見ると、物言いたげに上目づかいフロレスを見ているではありませんか。
好いている女の無意識の行動が男にとってどれほど甘美なのか思い知らせる必要があるな、とフロレスは思い、行動に移します。
それは誰も邪魔する者がいない、二人だけが住む館だからこそかもしれません。
フロレスはツァーレンが上げる美しい歌声に酔いしれました。
嵌め殺しの寝室の窓からは、暗闇の中に薄雲にさえぎられた月が鈍く光っていました。
腕の中ですやすやと眠るツァーレンの額に一つ口づけを落とすと、フロレスは自分の幸運を神に感謝しました。
王位継承権のない自分と隣国の隠された王女であるツァーレンを繋げるものなど何もなかったからです。
『後始末』と上皇は言いましたが、それどころかここに至るまでのすべてを上皇とフロレスは何度も話し合い奔走し、そして手に入れたのです。
「私はあなたが欲しかった」
神殿での式の後、王城の転移門を抜けて、一歩、森の館に足を踏み入れたとたん、フロレスはツァーレンを抱きしめてそう言いました。
この手の中にある温もりが、神殿で神に、そして国を挙げて認められた後だというのに、いまだに信じられずにいたのです。
あまりにも信じられないものですから、フロレスは抱きしめていた手をツァーレンの肩に押し付けて、一歩さがってツァーレンの可憐な顔を確かめようとしましたが、ツァーレンは顔を真っ赤に染めて俯いたままで一向にフロレスを見ようとしません。
しびれを切らしたフロレスは、肩に置いた手をそのまま上にあげて、ツァーレンの小さな顔を下から壊れも野のように包みこんで顔を上げさせようとすると、その手が温かいもので濡れました。
ツァーレンの涙でした。
濡れた瞳を長いまつげで隠しては表情を見せまいとしていましたが、溢れるように流れ続ける涙と火照った顔、なによりフロレスに触られることによって震えた身体が、ツァーレンの喜びを雄弁に物語っていました。
「鴉となって世界を飛び回っていたときに訪れたスズーリエの王城で、初めてあなたの歌を聞いた時は胸が苦しくて仕方がなかった。あまりにも胸が苦しくなるものだから二度と訪れまいと決めたというのに、切なくて優しい歌は私の心をつかんで離さない。できるだけ遠くにとこの森へと向かうのだが、夜になる頃には堪らずになって王城へと向かってしまう。それほどあなたは私の心を掴んで放してはくれなかった」
親指の腹でツァーレンの涙を拭きながら、フロレスは自分の心を明かさずにはいられませんでした。
「レステアに戻っても夜が近づくと心がざわめきだし、情けないこと仕事に身が入らない。それが叔父上殿に伝わってしまったのが……今となってはよかったのだろうが、あの当時は叔父上殿はしつこく、理由が分かるまで何度も責められて、やっと己の気持ちに気付かされた。私は小さなスズーリエの小鳥を愛していると」
フロレスの手の中で、びくりと震えるツァーレンの小さな頭。
止め処無く落ちる、大粒の涙。
何か言いたげに半開きになった、濡れた唇。
フロレスは自分の想いがツァーレンに通じていることを確信しました。
身体中から歓喜が湧きあがり、信じられないほどの高揚感がフロレスを襲います。
心臓が今までにないほどに打ち始め、震えだした手を悟られないようにツァーレンの顔から手を離して身体を手繰り寄せました。
「ツァー……愛している」
腕の中でツァーレンがぎゅっと何かを我慢するように小さくなりました。
フロレスはたまらず、もっともっとと身体が叫ぶがままにその大きな手をツァーレンの頭に、腰に広げきって抱きしめました。
「ツァーレン。私と生涯を共に生きてくれ」
絞り出したように切ない声は、ツァーレンの耳元に囁かれました。
「……は……い。はい、わたくしも愛しています、心の底から」
熱い吐息と熱い言葉が首筋にかかると、フロレスはツァーレンの頭を引き離し、そして大きく見開かれた瞳を射抜くように見ると、驚くツァーレンの唇をゆっくりと塞ぎました。
何度も、何度も、ゆっくりと。
腕の中では、もぞもぞとツァーレンが寝返りを打とうと動きます。
月を見上げていたフロレスは、くすりと笑いながら邪魔にならないように腕を抜こうとすると、無意識に気が付いたのか、フロレスの身体にピタリと寄りそって、また気持ちよさげにすうすうと寝入りました。
――――なんて可愛らしい。
フロレスはツァーレンを何度抱いても、何度横で目覚めても、きっとこの先死が二人をわかつまで一生涯、驚きと喜びに震えるでしょう。
「愛してるよ、ツァー」
ツァーレンの頬に掛かる亜麻色の髪を指で取り除きながら、フロレスは呟きました。
そうしてまた、何事もなかったかのように上窓の向こうの月を眺め始めました。
眠っているツァーレンの口元が、少し上がったことには気づきもせずに。
[おしまい]
これで本編は完結です。
長くお付き合いいただいてありがとうございました。
れんじょうが考える以上に、たくさんの方々に支えられてこの話は進みました。
途中、自分に課した課題を終えることができなくなったことが情けない限りですが、それでも最後まで話を勧められたことにほっとしております。
この後、ツァーレンの幼少期の話やフロレスの鴉のお話があるので、本編は完結しましたがこのまま[続き]として置いておきます。
またお会いできたら嬉しいです。
ここまで読んで下さったすべての読者の皆様に、感謝を込めて。
れんじょう拝




