第三十四話 レステアの歓迎
婚礼の朝はいつもよりも早く訪れました。
朝を知らせる鳥がさえずる前からリリュシュは動き始め、軽い朝餉を準備し、ツァーレンを起こして湯浴みさせて、髪には椿油、肌にはグリスを塗りこんで、ツァーレンの晴れの日の支度にとりかかりました。
その甲斐もあってツァーレンの亜麻色の髪は艶を放ち、小さな花と金の細い鎖を織り込みながら緻密に結いあげた髪型はツァーレンの小さな顔を強調させるに役立ちました。
スズーリエで用意された婚礼用のドレスは乳白色で、首には箱ひだを、肩から腕にかけても折をつけたシフォンをすとんと流しつつ手首でバルーンのように膨らませた上に真珠を一列あしらったカフスでメリハリをつけ、胸元からAラインで広がるスカートは絹とシフォンの二重で甘く優しい印象に仕立てられていました。それはツァーレンの儚げな雰囲気にぴったりと合って、まるでおとぎ話に出てくる妖精が具現化したようにも思いました。
あれほど醜かった肌も、数か月の間にリリュシュの魔法の手によって腫れも赤みも見事に引き、堅くなっていた皮膚もすっかり元の若々しい張りを取り戻していました。
もちろん発疹も多少は残っているものの、目立つものはありません。
目を覆っていた堅い瞼も薄くなり、ツァーレンの新緑の瞳がきらきらと輝きを放っています。
もう帽子を被り、その姿を隠す必要などまったくありはしません。
リリュシュの目の前に入るのは、白い肌を薄く桃色に染めた一人の美しい花嫁。
スズーリエの醜かったツァーレンは、もうどこにもいませんでした。
「いかがでしょうか、ツァーレンさま」
リリュシュは己の渾身の作と言っても過言ではないツァーレンの花嫁姿に満足していました。
ツァーレンも鏡の中で頬を染めた自分の姿をまるで同じ動きをする別人のような錯覚に陥りながらもその姿がまぎれもない自分自身であることに驚きと喜びをかみしめて、リリュシュに何度も頷くのでした。
「さあ、ツァーレンさま。時間ですわ。神殿へと参りましょう」
式の執り行われる神殿はレステア城の東に位置し、離宮からでは王城を右手に見ながらの行程となりました。
離宮を出た瞬間から、沿道は王族の結婚を祝福する国民で溢れていました。
ツァーレンは歓喜に溢れる人々の歓声を馬車の中で驚きを持って聞いていました。
離宮での生活でツァーレンが学んだことは自分がレステアでは醜く恥ずかしい存在ではないということでしたが、それでもまさかレステアの国民が一瞬で通り過ぎる馬車を祝福しようとしてくれるとは思ってもみなかったのです。
「おめでとうございます」
「おめでとうございます!」
老若男女さまざまな声が、沿道から響きます。
「ツァーレンさま。お手を振られては」
リリュシュは呆然として動かないツァーレンに、結婚を喜ぶ国民に応えてもらおうと責付きました。
「あ……ああ、そうね」
ぴしりと固まっていたツァーレンの身体がやがてゆっくりと動き出して、おそるおそる手を降り始めると、沿道から湧きだす歓声はさらに大きさを増しました。
「ツァーレンさま。これをお使いください」
リリュシュから差し出されたハンカチで、ツァーレンは自分が泣いていることを知りました。
―――――私の場所は、ここにあるのね
自国では感じることができなかった温かみが、歓声が上がるごとにツァーレンの心にしみ込んでいきました。
馬車は定刻通りに神殿の入り口に到着しました。
従者により扉が開かれると、リリュシュが先に降りてツァーレンが一呼吸おいて降りてくるのを待ちます。そして馬車から華奢なレースに包まれた手が現れると、そっとその手を取りゆっくりと外へと導きました。
かつんとツァーレンのヒールが石畳に触れて、その姿を現すと、静かに音楽が奏で始まりました。
馴染みのない音節の音が、不思議なことにツァーレンの感性にすとんと落ちて、緊張しきった身体を少しだけ和らげました。
「ツァーレン殿。さあ、こちらに」
いつの間にかツァーレンの横には正装の上皇が腕を差し出して立っていました。
正装を着た上皇はそれはそれは威風堂々として立派でした。
銀の淵飾りをした紫紺の長衣には上皇の意匠である大鷲が銀色の光を纏いきらきらと輝いていましたし、いつもは麻ひもでくくられた長い白髪はその質量を存分に披露するように背中に垂らされ、風になびくとまるで白い大鷲が飛び立つような迫力がありました。
「ほれ、何をしておる。儂の肘をとらんか」
少し首を傾けて小声で話す上皇は、茶目っ気たっぷりに片方の目を閉じてツァーレンを見ました。
その落差に思わずくすりと笑い、そのまま上皇の肘に手を添えると、二人は揃って神殿を扉をくぐりました。
神殿に入ると、音楽が天井から降り落ちるように聞こえてきました。
通路の両側には色とりどりの花のように華麗な正装をした国賓たちが上皇とツァーレンを待ちうけています。
ツァーレンはその中を上皇と共にゆっくりと歩きます。
祭壇の手前でスズーリエの父王とその妃が信じられないものを見るようにツァーレンを凝視していましたが、思わず立ち止りそうになったツァーレンを上皇は何事もなかったかのように誘導して、そのまま二人の横を通り過ぎました。
そしてとうとう祭壇の前までたどり着くと、司祭の祝福の口上が始まりました。
その時です。
開かれた扉の向こう側から、一羽の黒い鳥が何かを咥えてすぅと飛び込んできました。
ほとんどの人は司祭の祝福を聞き逃すまいと前を向いていたので、そのことには全く気が付きませんでしたが、唯一、司祭だけはその姿を確認することができました。けれども司祭はそのことには触れず、式を予定通り進めていきました。
ばさり。
黒い鳥が羽音を立てて、くるくるとツァーレンと上皇の頭上を回ります。
そのころには国賓たちもこの異様な風景に驚きざわめきはじめました。
背後が急にざわめきはじめたことに何事かと上皇が皆の目線の先を追うと、そこには一羽の鴉が舞う姿が見えました。
「……おそいわっ!」
上皇はその重く低い声で、鴉に向かって叫びました。




