第三十三話 足早に過ぎる半月の日々
☆短めです。
好きな花。
ツァーレンは自分が何を好きで何が嫌いかなどと、考えたことはありません。
四季の草花を愛でる離宮の庭とは全く趣の違うスズーリエのあの閉ざされた一角の庭は、さまざまな樹々の微妙な配置で迷路が作られ、また刻々と変わる陽の影を楽しんだりするものでした。ですから身近で花を見る機会は離宮に来てから格段に増えたわけですが、それでも幾種類もある草花の名を覚えてはいません。
好きな花といわれてもツァーレンには咄嗟に名など出てくるはずもありませんでした。
「それでは誕生月の花を選ばれますか?最近では誕生日まで細かく花の種類が割り振られているようですが」
「そのような決まりがあるの?」
「決まり……ではないとは思いますが、一般的には誕生日の花というのがあります。誕生日の宝石というのもあるくらいですから。男性が女性に物を贈るときの目安にもなりますし」
「初めて知ったわ。ではわたくしの誕生日の花というのはなんなのかしら」
「では調べてまいりましょう」
リリュシュは早速書庫に行き、しばらくすると数冊の本をもってもどってきました。
「ツァーレンさまの誕生花は『藤』ですわ。月のほうでしたら『桜』。けれども本によっては花が違います。……結局ご自身が好きな花を選ばれるほうがよいということでしょうか」
「あら、それは残念だわ。けれど先に数個の意匠用の図案を考えてみてからそれを選ぶというのはどうかしら。藤も桜も他の花も現実の花と図案では随分と雰囲気が違うと思うの」
「まさにその通りですわ!すぐに手配いたします」
そして翌日には数枚の図案がツァーレンの目の前に用意されました。
それはどれをとっても見事なもので、ツァーレンは短期間で図案を仕上げてきた画師の技量に感嘆しました。
特に目を奪われたのは藤花の図案で、藤のぷっくらと膨らんだ花弁の薄紫の階調の素晴らしさが際立っていました。
「もう決められたようですね」
リリュシュは一枚の図案から目を一時も離さないツァーレンを見て、そう言いました。
たしかにリリュシュが言うとおり、ツァーレンは決めました。
桜も、矢車菊も、牡丹も、どれをとっても目を奪われうほど素晴らしいものでしたが、藤花ほど心惹かれるものはなかったのです。
その藤花の図案は、藤の花穂たれが左右に展開され、蔦が円を描いて図案全体にまとまりを与えている、左右対称と見せかけつつ蔦が非対称に巻きつくことによって堅さを取り除いたものでした。
それに藤は蔓が延びて広がります。
ツァーレンは己を藤に見立てて、蔓を延ばすように手を広げ、レステアという大きな樹に寄りそっていきたいと思ったのです。
「ええ、決めたわ。わたくしは藤をわたくしの意匠とします」
藤の図案はすぐに必要な枚数用意され、あちこちに配られました。
婚礼道具に意匠を施すために。
王の系譜に登録するために。
そしてツァーレンの手元にも一枚、原稿そのものを額に入れて渡されました。
ツァーレンはその藤の意匠を婚礼衣装に刺繍し始めました。
もちろん式まで半月しかない状態で始めた刺繍ですから、衣装の裾に小さく刺すくらいしかできませんが、それでもレステアの慣習に則れることを思うとツァーレンは安堵するのです。
式までの間、ツァーレンの出来ることは限られていました。
日々の生活はそのままに、日課となっていた肌の手入れも今まで以上に丁寧に施し、式次第を何度も反復しては失敗しないようにと頭に叩き込みました。
そのほかの時間はすべて婚礼衣装の刺繍にあてていたために予想よりも早く刺繍を施すことができ、完成した場に居合わせたリリュシュも上皇もその出来栄えを褒め称えました。
かと思えば、つぎつぎと意匠を施され離宮に納品される婚礼道具は式までの残り時間を否が応でもツァーレンに伝え、道具が戻ってくるたびにツァーレンの心臓は鼓動を早めました。
日々緊張していくツァーレンを少しでも安らげるようにとリリュシュは時間の許す限りツァーレンのそばに控えて手を尽くします。
上皇は式に向けて忙しいのか、離宮に腰を落ち着けることなくあちこちに出かけていっては疲れて帰ってくるようになりました。
そうして時間は思いのほか早く過ぎ去って、とうとうその日を迎えることになるのです。




