第二十九話 一枚の紙
☆短めです
喜雨が乾いた土に湿り気を与え、夏の暑さに打ち負かされた緑に命を与えます。
それは草木だけではなく、生きとし生けるものすべてに平等に息をつくことを許しました。
「この雨でなんとか水も貯えることができますね」
続いた日照りはすべて物から気力を奪い、身も心も水分に飢え、荒んでいく一方でした。
けれども恵みの雨が降り、窓から入る熱風と湿り気が、乾いた離宮を生き返らせたのです。
「本当によかったわ。人ももちろん畑も庭も、乾いてくずれていきそうなほどだったから」
「ええ、本当に。それにしてもこうやって雨が降ったということは、夏も終わりを迎えたということですね。早いものです。こちらにツァーレンさまが来られた時は、まだ春も入ったばかりでしたのに」
リリュシュの何気ない一言に、ツァーレンは忘れていた事実に愕然としました。
離宮にやってきたのは、リリュシュの言うとおり春のこと。
あれからすでに三カ月。
季節は春から夏に移り、そしてもう秋の足音すら聞こえてきそうでした。
「二人とも、ここにいたか」
ツァーレンが流れた月日に立ちくらんでいると、出かけていたはずの上皇の声が聞こえました。
あわてて気持ちを抑え込んで平静を保ち、扉を開け放った上皇にツァーレンは笑いかけました。
「上皇さま、おかえりなさいませ。突然の雨でたいへんでございましたでしょう」
上皇が出かけたその時は相変わらずの目も眩むほどのきつい日差しで雲ひとつなく、それが予期せぬ喜雨でずっしりと濡らして上皇は帰ってきました。
「久々の雨じゃ。突然ではあったが嬉しさの方が先立つわ」
かかかと独特の笑い声を上げながら、上皇、足元が濡れているのもお構いなしに部屋に入ってきました。
「上皇さま!マントをお脱ぎください。ツァーレンさまの部屋が濡れてしまいます」
「リリュシュは冷たいのぉ。少しくらいかまわぬだろうに」
「何をおっしゃいますか。それにそのように雨に濡れたままですと、風邪を召されてしまいます。さあ、マントをこちらに。ああ、それに雨の恵みでお風呂の準備もできますから、すぐに用意させますわ」
「よいよい。それに二人に話がある」
「その前に、マントをこちらに。本当に風邪をひかれてしまいます」
「リリュシュは儂の保護者みたいじゃ」とぶつぶつ言う上皇に、「何を言っていらっしゃるんですか?お歳を考えてくださいませ」とつんとやり返すリリュシュ。
二人の関係を知らないツァーレンは、いつものやり取りにくすりと笑いながらも不思議なものを見るように二人を眺めていました。
そうこうしている間にリリュシュに負けた上皇がマントを手渡しながら、おどけていた顔を急に引き締めてツァーレンを見つめました。
「ツァーレン殿。そなたがここにやってきて、三か月経った。もうここでの生活には慣れたであろう?」
「はい。おかげさまをもちまして。それにリリュシュがよくしてくれますから、随分と料理の腕も上がったかと思います。……そろそろ上皇さまに召し上がっていただいてもよいくらいには」
その答えに満足げに頷くと、上皇は濡れないように懐に入れていた書類をツァーレンの前に差し出しました。
ツァーレンは訳が分からず、上皇が差し出した書類を受け取るとそこに書かれてている文字に目を走らせました。
けれど文字を追うごとに、ツァーレンは自分の血の気が引いていくのがわかりました。そして読み終わる頃には立っているだけでも相当の気力が必要なほどになったのです。
「……これは……」
「読んで字の如し。どういう意味かはわかるであろう?今からきっかり半月後、式を執り行う」
「まあ!ツァーレンさま!おめでとうございます」
どさり
リリュシュの祝辞はツァーレンの耳には届きませんでした。
上皇とリリュシュの目の前で、ツァーレンは鈍い音と共に足元から崩れたからです。
「ツァーレンさま!?」
「ツァーレン殿!」
慌てて駆け寄る二人には、ツァーレンが倒れる直前に呟いた言葉を聴きとる術はありませんでした。




