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みにくいおひめさま  作者: れんじょう
『みにくいおひめさま』
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第二十七話 上皇と羽根


 空が薄藍から茜色に染まる頃、ツァーレンは時間を忘れて上皇に願われた刺繍をチュニックに施していました。

 紫苑色のチュニックの裾に大鷲を元にした意匠の刺繍を無心でちくちくと刺していきます。

 あまりにも熱心に針を刺していたものですから、部屋が陰って小暗くなっていることにも気がつきません。

 リリュシュが気を利かせて紅茶を運んできていましたが、それももうすっかりと冷めていました。


 ―――――あ。


 急に手暗くなったのは、部屋に明かりが灯ったせいでしょう。

 ツァーレンはぱちぱちと目を瞬かせると、周りの景色が違っていることに気がつきました。


 「ほう。これは見事」


 耳元に低く響く声がしたのに吃驚して身体を震わすと、ぬっと横から薄紫の天鵝絨(ビロード)が延びてきてツァーレンの手に握っていたチュニックを取り上げました。


 「上皇さま!……驚かせないでください」

 「何を言う。儂はきちんと声をかけたぞ。ツァーレン殿が針仕事に夢中になっておったのであろうに」

 

 ツァーレンににやりと笑うその姿は、いたずらが成功した子供のように無邪気なものでした。


 「しかし、この刺繍は見事。意匠だというにこの大鷲の迫力はどうだ。迫るものがある」

 「過分なお言葉。ありがとうございます」

 「このチュニックはもう仕上がるのであろう?」

 「そうです。あと大鷲の目を刺せばおしまいです」

 「ふむ。ではこれも頼みたいのじゃが」


 そう言ってツァーレンの膝に落とされたものは、真っ黒な羽根でした。


 ―――――鴉。


 ツァーレンに動揺が走ります。

 この離宮に来てから出来るだけ考えないようにしていたことが、たった一枚の羽根で急速に形になってツァーレンを苛みました。

 無意識にぐにゃりと歪んだ顔を、上皇はほうと片眉を上げて、けれど何もなかったかのように話し続けます。


 「美しい羽根であろう?黒光りして艶がある。この羽根の持主をぜひとも刺してもらいたいのじゃ」

 「……鴉、ですね」

 「そうじゃ。鴉じゃ。このハンカチの隅に一羽、刺してもらえぬか」

 

 上皇の懐から出てきたハンカチは、紫苑ではなく葡萄色(えびいろ)の、スズーリエで最後に刺した絹の色、そのものでした。

 がんっと頭を殴られたような衝撃がツァーレンを襲います。

 

 ―――――まさか……そんなはずはないというのに。


 思いだされる漆黒の天鵝絨のマント。

 内側には葡萄色の絹に鴉の刺繍。

 肩には懐かしいツァーレンの鴉の羽根。

 そして最後には鴉もマントも手に残らず闇に溶けて飛び去っていった。


 「ツァーレン殿?どうかされたか」


 上皇の心配そうな声が、ツァーレンを現実に戻しました。

 いつの間にかツァーレンの前に膝まづき、動揺に震える手を上皇の堅い手がすっぽりと包みこんでいます。これでは誤魔化しようもありませんでした。


 「……震えてるおるな。なにやら気分も悪そうじゃ。ツァーレン殿は根を詰めすぎる傾向にあるようじゃから、今日はこのくらいにして休まれよ。夕餉はどうする。食されるか?それとも何か柔らかいものでも頼もうか」

 「お言葉に甘えてもよろしいですか。夕餉は……少し胸が苦しいので頂けないと思います。どうぞこのまま休ませてくださいませ」

 「ではそのように。リリュシュは夕餉を作っているのじゃな?」

 「たぶん……そうだと思います。でも、リリュシュの手を休める必要はございません。少し、少し横になるだけでよくなると思いますので、どうぞこのまま」

 「わかった。ではゆるりと休まれよ」

 「ありがとうございます」

 

 最後にもう一度ツァーレンの顔を覗き込むと、上皇はじぃと見つめて何か言いたげでしたが、それでもやはり何も言わず葡萄色のハンカチをテーブルの上に置いて部屋を去りました。

 上皇が部屋を出たことを扉のしまる音で確認すると、ツァーレンは膝の上に残された羽根をぎゅっと握りしめました。

 そしておもむろに立ち上がると、そのまま寝室に駆けこんで寝台に座り込みました。

 

 ―――――やっと……やっと忘れられそうだったのに。


 ツァーレンは離宮での生活にすっかり慣れて、けれど毎日を忙しく過ごしていたために鴉のことを考える時間がなかった、ただそれだけでした。

 実際は、少しでも暇があれば、そしてもし手元に思い出として天鵝絨のマントが残っていたとしたら、思うことはただ一つだったでしょう。

 

 ―――――フロレス。フロレス。……ああっ。


 上皇の優しさは嫁ぐ相手を全く知りもしなかったツァーレンにとっては喜びでした。

 まだ心の準備が整わないにしても、日々の生活において上皇にならと考えるようになっていたところだったのです。

 これが政略結婚だと重々承知していたツァーレンの、それは救いだったのです。


 けれどたった一枚の黒い羽根は、その思いが真実に蓋をしたものであったことを露呈させました。


 誰も来ないと分かっている寝室で、ツァーレンは声を上げて泣きました。

 寝室の扉の前で上皇が空になった小瓶を弄びながら中の様子を窺っていることなど気付きもしないで。




 

 


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