第二十六話 マルスプミーラのジャム
薄緑色した大きな丸い果物が、テーブルの上にひとつ。
ツァーレンの目に飛び込んできたその大きな果物はレテシア特産マルスプミーラ。丸い果実に薄い皮をもつマルスプミーラは、リリュシュがツァーレンのために用意した、料理への初めの一歩でした。
「ツァーレンさまは刃物を持たれたことが無いでしょう?ですからまずはナイフに慣れていただこうかと」
マルスプミーラのわきに果物を切るときに使う小ぶりのナイフをことんと置いて、リリュシュはにこにことツァーレンに言いました。
「でもそのまえに、そのドレスがぜーったいに汚れてしまいますから、タブリエを着ていただきます。子供のようで恥ずかしいかもしれませんが、この離宮にツァーレンさまを笑う人などいませんから、ご安心ください」
そういうやいなや、リリュシュは手に持っていたタブリエをツァーレンにさっさと着せてしまいました。
ツァーレンはいつもとは随分雰囲気の違うリリュシュに驚き、その妙な行動力に目を白黒させながら、リリュシュのなすがままになっていました。そうこうしているうちにいつの間にやらツァーレンの横に椅子が置かれ、目の前のテーブルにはなぜだか水を張った鍋が用意され、一個だと思われたマルスプミーラは足元の籠いっぱい準備されています。
「ではまず私が見本を見せますから、ツァーレンさまはじっと見ていてくださいね」
ツァーレンの横の椅子に腰をかけ、籠から一つマルスプミーラを取ると、しゃりしゃりとリズムよい音をたてながら鮮やかに剥いて、テーブルの上の皿にことんと置きました。
そして剥けたマルスプミーラの皮の先を摘みあげると、まっすぐ手を上に伸ばしました。
くるくるくるくる
綺麗な螺旋を描いた薄緑の皮が、ツァーレンのてのひらに載せられました。
「こういう感じに皮がむけれるようになるまで、特訓です」
「特訓?」
「そうです。ツァーレンさまは手先が器用でいらっしゃいますから、すぐに上達されます。楽しみですわ」
怖いくらいににこやかにほほ笑むリリュシュは、ツァーレンにマルスプミーラを渡し、ナイフを握らせました。
「さあ、始めましょう!」
リリュシュのツァーレンに対するスパルタ教育はこの時から始まりました。
***
「まあ、ツァーレンさま。そのようにナイフを持たれては手を削いでしまいますわ」
「まあ、ツァーレンさま。それではマルスプミーラを剥いているのではなく削っていますわ」
「まあ、ツァーレンさま。それでは芯しか残りませんことよ」
「まあ、ツァーレンさま。指を怪我することを恐れていては上達などするわけがございません」
ツァーレンが一つマルスプミーラを剥くたびに、リリュシュからの容赦ない叱責を受けました。
そして原形をとどめていない果実は、リリュシュの手によってさらに切り分けられ、皮とともに鍋にほおりこまれていきました。
「あの、リリュシュ?そのマルスプミーラをどうするの?」
「まあ、ツァーレンさま。そのようによそ事を考えていらっしゃるから果物一つ剥けないのですよ?……でもまあ、気にはなりますよね。ツァーレンさまは初めてマルスプミーラを剥くのですから、上手になど剥けるとは思っておりません。ですからこれはこのままジャムにしようかと思います」
「ジャム?」
「そうです。ジャムは形が必要ないですから。この鍋に入っている水は塩水です。塩水はマルスプミーラの変色をふせぎます」
「まあ。本当にリリュシュは何でも知っているのね」
「ツァーレンさま。料理をするものであればこの程度誰でも知っています。ツァーレンさまもおいおい覚えていただきます。さあ、手を休めるのはこのくらいにして、後二個剥いてくださいね。今日はそれでおしまいです」
それから一週間、朝餉のあとにはテーブルにマルスプミーラが登場して、鍋いっぱいになるまで剥き続けます。
たまに指も切りますが、リリュシュは怪我の状態を見て大事が無いと分かると「力の加減がへたくそです」と歯に衣着せぬ言いようでツァーレンに微笑みながら叱ります。
あるときは綺麗に剥けたと自分を褒めていると、リリュシュは剥いた皮を掴んで「もっと細く皮をむかないと、余分な果肉を剥いてしまいますよ?マルスプミーラも無料ではないのですから、もっと丁寧に剥かないともったいないです」とまるで貴族の子女らしからぬ言葉を使い叱ります。
―――――わたくし、もしかしたらリリュシュに嫌われているのかしら……
最後の一個のマルスプミーラを籠から出して剥きはじめると、なんだか悲しくなってきました。
しゃりしゃりしゃり。
単純なリズムでマルスプミーラを剥き終わると、リリュシュの前の小さな木のまな板の上に置きました。
「ツァーレンさま。上手に剥けましたね。時間も初めてのころに比べると随分と早くなられました。最後の一個はツァーレンさまが切って水に浸してください」
―――――初めて褒められたわ……!
それだけのことで、ツァーレンは舞い上がりました。
リリュシュはそんなツァーレンが可愛くてしかがたないのですが、そこはツァーレンの料理の先生ですから、きゅっと顔を引き締めて、まな板をツァーレンの前に置くと背後からツァーレンの手を取って切り方を教え始めました。
「はい。これで今日はおしまいです。明日からは卵を使いましょうね」
「でもリリュシュ。わたくし、自分が剥いたマルスプミーラを自分でジャムにしてみたいわ。……それともまだ早い?」
「いいえ。後は煮るだけですから料理の初心者でも大丈夫です」
二人は厨房に鍋を運び、下処理をしたマルスプミーラを鍋で煮始めました。
ツァーレンにとって、厨房に入るのも初めてですが、自分で火を熾すことも鍋で煮ることも何もかも目新しいことばかりで、自然に気持ちがわくわくとしてきます。
リリュシュもツァーレンのその気持ちが移ったのか、マルスプミーラを木べらでつぶしながら他愛ないおしゃべりに興じていました。
「ほう。よい匂いがすると思おたら、マルスプミーラのジャムか」
ひょっこりと上皇が厨房に現れました。
その姿はいつものくだけたチュニックではなく、背中に上皇の意匠である大鷲の刺繍を施した紫苑色のコートを着ていました。
「上皇さま!」
「まあ、上皇さま。お出かけでいらっしゃいますか」
二人が鍋から顔を上げて同じように驚いている姿に満足した上皇は、ちょいちょいと手招きでツァーレンを呼び寄せました。
「なんでございましょう」
「ツァーレン殿。儂は……その。甘いものはそれほど好きではないのじゃ。よい匂いとは思おておるが。出来れば菓子ではなく食事を作ってもらいたんじゃが」
カウンターの上に置かれている山ほどのジャムの瓶を見て、上皇は困ったように眉を潜ませました。
「上皇さま。これは違います。わたくしのナイフの練習に使ったマルスプミーラをジャムにしただけですわ。おかげでナイフの扱いが少しはうまくなったと思います」
「そうか。そうか。これは儂のためのものではなかったか」
「まあ、そんなつもりでは。もちろん上皇さまに食していただければ嬉しいですが……苦手でいらっしゃるのですよね?」
「儂は苦手なんじゃが……おおそうじゃ。瓶を少しもらえんか。ひとつ手土産にしたいでな」
その言葉にジャムを煮詰めていたリリュシュがこんこんと鍋の底を叩き、二人の注意を引きました。
「それでしたら、お時間があればこちらの作りたてのものをお持ちすればいかがですか?テーブルの上のものは私が煮たものですが、こちらのものはツァーレンさまが煮たものです。先さまに喜ばれると思いますが」
――――リリュシュったら、なんてことを言うの!
ツァーレンは恥ずかしさで真っ赤になりました。
もちろんジャムはほとんどがリリュシュが作ったようなものですが、確かにツァーレンも手伝ってはいたのです。
けれど、それだからこそ、土産に持っていけるようなものではないことを自覚していました。
「まあ、止めて。リリュシュったら」
「それは良い考えじゃな。かかか。面白い。これは面白い。愉快すぎるの」
「ではもう少しで煮詰まりますから、お待ちくださいね。あと、瓶は逆さにして持って行っていただけますか」
「ふむふむ。リリュシュは何でもお見通しじゃ」
「ええ。伊達に上皇さまと長らく付き合ってはいませんから」
何やら悪だくみをしているような二人を前に、ツァーレンの意見は通りません。
リリュシュはあっという間にジャムを瓶づめして、籠に入れて上皇に渡しました。
「ではいってくる」
「はい。いってらっしゃいませ」
上期限に馬に跨り出かける上皇を、ツァーレンは何とも言えない顔で送り出しました。
上皇の懐には出来立てのジャムの小瓶。
あれを誰に渡すのかと思うと、いてもたってもいられずそわそわとに動き回りました。
「上皇さまのお戻りを楽しみに待たれては?」
リリュシュが含みのある言葉でツァーレンの羞恥を区切ります。
-----楽しみなんて、とんでもない。上皇さまが恥をかかれてしまうというのに。
上皇が駆け抜けた先を、ツァーレンは恨みがましく見続けていました。
マルスプミーラ……もちろん○○のことです(笑)
……答え書いてましたね(笑)訂正しました。ご指摘ありがとうございました(^-^)




