第二十五話 弌室にて
ツァーレンが離宮に過ぎて一週間がたちました。
日々が穏やかに過ぎていきます。
離宮の中ではツァーレンが生涯の友とした帽子を被ることもありません。
上皇が言うとおり、離宮の数少ない使用人たちはみなツァーレンを見て頬笑みはしても顔をゆがめることはなく、ツァーレンは緊張と安堵から胸が苦しくなることしばしばでした。
離宮に来てからツァーレンがしていることといえば、上皇に頼まれたチュニックへの刺繍とレステアの歴史をレステア国の本で学ぶことくらいでした。時には上皇がツァーレンの傍らに赴き、ゆっくりとした時を一緒に楽しむことも、また勉学の指導をしてくれることもありました。
けれど不思議なことに、一週間たっても結婚式の話題が一度も上らず、夜のお勤めもなにもないのです。
疑問を口に出せばそれは現実に動いていくのではないかと恐れ、ツァーレンはそのことを上皇やリリュシュに聞くことを躊躇います。
―――――いつかは、式をあげるのだろうけれど。でも今は。
ツァーレンの人生において、今が一番穏やかで心安らぐ時を過ごしていました。
***
「もう出来物も腫れもなくなりましたね。……やはり外になんらかの原因があるようです。ただ症状がが深刻なものではないのが幸いです。どうされますか。このまま一生外に出れないというのは酷な話ですから、少しずつ様子を見て外に出られては。外に出る時には出来るだけ肌を見せなければさほど問題もないと思われますが」
一週間ぶりに受けたアデーレの診察は、予想を大きく外れることなく下されました。
ツァーレンの手は、日にち薬のようにゆっくりと腫れが治まり、出来物もなくなっていたのです。
初めの日に夜の庭に行こうとしているときにリリュシュから声が掛かって以来、夜、こっそり外に出ようという愚かな考えも封印していました。
その成果が、今日の診断となったわけです。
―――――うれしい。肌を見せさえしなければ外にていいなんて、夢のよう。
ツァーレンは自分の出来物と腫れの引いた手をさすりました。
もちろんさすった手に不快感はありません。
自分自身の肌を取り戻して、そしてとうとう外に出ることが叶うことで、ツァーレンは口元が自然にほころびました。
「お顔の方も、たった一週間で随分と落ち着かれましたね。リリュシュさまが作られるグリスがよほどツァーレンさまの肌に合うと見えます。あと一か月もしないうちに本来の肌を取り戻すでしょう」
「本来の……肌……」
「そうです。もう肌のあちこちに現れているでしょう?まだ出来立ての肌なので薄い桃色ですが、落ち着くと元の色にもどります。よく努力されました。リリュシュさまも」
アデーレはツァーレンの後ろに控えているリリュシュに微笑むと、さっとツァーレンに視線を戻しました。
「では、何もなければ一カ月後に。何かあればいつでも御連絡下さい」
アデーレは黒く大きな鞄を取り出すと、ツァーレンの症状を書いたカルテとバインダーを丁寧にしまい、リリュシュを伴い部屋を下がりました。
「どうじゃ。今から少し庭を散策せんか。弌室の花が見事に咲いておるぞ」
「はい。ぜひ」
部屋に戻ってきたリリュシュの手には、上皇が庭仕事をするときに被る麦わら帽子と似た、幅広の帽子がありました。もちろん肌を隠すための手袋と上着も忘れません。
ぬかりなく準備が終わると、ツァーレンは上皇に連れられて、弌室と呼ばれる春の庭に降り立ちました。
そこにはツァーレンに見たこともないレステア独特の花々が、細心の注意を払った無造作ささで植えられていました。
「なんて美しいんでしょう」
切り花以外の花を間近で見たことのなかったツァーレンは、一つ一つの花を慈しむかのように手に触れて、感触や匂いを楽しんでいました。
後ろでは上皇が、そんなツァーレンを温かく見守っています。
けれどいくら外に出ることが許されたからといって、いきなり長時間陽の下にいると太陽に慣れない身には酷く辛くなることを知っている上皇は、ツァーレンに部屋に戻るように促がしました。
もっと庭を見てみたいと思っていたツァーレンですが、上皇の優しげな瞳がツァーレンを案じていることを物語っていて、素直に従うことにしました。
部屋に戻る道すがら、上皇はツァーレンに言いました。
「そうじゃ。ツァーレン殿にお願いがあるんじゃが」
「なんでございましょう」
「儂にツァーレン殿が作った料理を食べさせてはくれぬか」
「はい?……わたくしの作った、料理ですか?ですが、上皇さま。わたくし、料理を作ったことなどないのですが……」
「そうじゃろうな。じゃが、儂が作った野菜でそなたが料理する。それが儂の夢じゃ。老い先短い年寄りの小さき願いを叶えてくれるか」
―――――上皇さまは、ずるい。老い先短いだなんて言われてしまってはせざるを得なくなるというのに。
「でも、わたくし、刃物も持ったこともないのです。いったいどうすればよいのかもわかりません」
「まあそうであろうなあ。一国の王女が料理など作ることはまずないからの。じゃがこの離宮は別格よ。宰相ゼイン・ウィンスロー伯の娘であるリリュシュも、初めはできなんだが今ではそこそこのものを出しよる。ようは慣れじゃ、慣れ。時間は沢山ある故、いつでもかまわぬ。そなたが納得できるものができたら、儂に出してくれぬか。それとも王女であるそなたは料理など下人のすることと思うておるのか?」
「いいえ。そのようなことは思ってはおりません。ただ、どのようにすればいいのか、さっぱり」
「リリュシュに聞けばよい。リリュシュは面倒見のよい娘じゃから、丁寧に教えてくれると思うがの」
「まあ、そうですわね。ではリリュシュに聞いてみます。……あまり期待せずにお待ちいただけますか?」
「それは困るのぉ。期待はするに決まっておる。なにせツァーレン殿お手製の料理とくれば、それだけでも美味しいものと決まっておるしな」
かかかと、いつもの軽快な笑い声が庭に響きました。
けれど今回ばかりは上皇の笑いもツァーレンには響きません。
なにせ上皇がツァーレンに課したものがあまりにも手に負えないと思っていたからです。
―――――わたくしが、料理をする……?まさか、そのようのことが待ち構えていただなんて、誰が予想するというの。
リリュシュに帽子を預けながら、これからどうなるのかと不安に苛まれていたツァーレンでした。
☆話が進みません(泣)




