第二十三話 帽子
羞恥で悶えた夜がしらじらと明け、結局一睡もできずにいたツァーレンは起き上がることにしました。
ジョーゼットで作られた軽く薄いカーテンが、朝の光を緩やかにして部屋へと招き入れます。
昨日はみることが叶わなかった参室を見ようとカーテンを開けると、そこには朝のやわらかい陽ざしの下で朝露に濡れた緑の草がさわさわと揺らめいていました。
―――――あれは、何?
一部の草花が風もなく揺らめいているのを不思議に思って凝視していると、草の間から白い何かがもそりと動きました。そして急に上に伸びたかと思うと、つば広の麦わら帽子が見えたのです。
―――――まあ!あれは上皇さまだわ。
上皇の日課など知る由もないツァーレンは、まさか夜が明けて間もない時刻から上皇が庭の手入れをしているなんて思いもよりませんでした。
ツァーレンの驚く視線を感じたのか、反対側を向いていたはずの上皇がくるりと向きをかえ、麦わら帽子を手に取って、ツァーレンに向かって大きく振ってきました。「おーい」と声まで聞こえてきそうです。
つられてツァーレンも手を振ろうとしたところ、ふと、あることに気がつきました。
―――――……帽子!帽子をまだ被っていないわ。それに、夜着のまま。
寝起きのままの姿を、こともあろうに上皇さまの前に晒してしまった失態に気がついたツァーレンは、ふいと真っ赤な顔を庭から逸らし、あわてて寝台に戻りました。そして寝台の上に倒れこむと、顔を隠せばすべてが隠れると思ってか、枕に顔を伏せて悶えました。
―――――ああ、恥ずかしいっ!それに顔を……顔を見られてしまったわ。どうしましょう。いくら少しは良くなったといっても、それでもまだ醜いというのに。
夜の闇の中では醜いかどうかの区別はつきづらいというのに、朝の日差しの中では色も形も陰影までもはっきりと見えてしまいます。
上皇が初めて見るツァーレンの顔が一番醜く見える日差しの下でだったことに、動揺を隠せませんでした。
その頃、参室のまだ青い庭の中央で、上皇さまは振り上げていた手を下ろしながら誰もいない庭に向かって呟きました。
「いきなりすぎたか。ツァーレン殿はやはり思うたとおりの恥ずかしがり屋じゃな。そうは思わぬか。……ふふん。それはまだ早かろうて。待つというのも意外と楽しいものよ」
風がごうとまるで返事をするように吹き荒れます。
上皇は飛んで行こうとする帽子を慌てて握りしめ直すと、声を上げて笑いました。
ひとしきり笑った後、上皇はツァーレンのいる部屋を一瞥すると、庭いじりの道具を片付けて自室に戻っていきました。
こんこんこんと控えめなノックがなりました。
返事を待たず寝室の扉が開き、リリュシュが音を立てずに入ってきます。
「ツァーレンさま。おはようございます。朝餉の準備が整いましたが、いかがいたしますか」
リリュシュの挨拶に言葉を返す気力もなく、ツァーレンは寝台でうつぶせに寝そべったままでした。
身じろぎすらしないツァーレンを、リリュシュはまだ旅の疲れが取れずに眠っていたいのだろうと思い、外れている上掛けをツァーレンに掛け直すと、そっと部屋を後にしました。
―――――いつまでもこうしていても結果は変わらないのに。
自分がいかに子供っぽいことをしているか重々承知しているツァーレンでしたが、上皇に自分の醜い顔や夜着を着たままの姿を見られたこと、それに上皇がツァーレンに挨拶をしているというのに自分の恥ずかしさが前面に出てしまって挨拶を返すことすらせず逃げ出したことをどう弁解していいのかわからないのです。
けれどこのままこうしていても何の解決になることがないことは理解しています。
せっかくのきっかけを自分が寝ている振りをして失くしてしまったツァーレンは、なんとか顔を上げて身体を起こし、リリュシュのいる居室へと顔を伏せながら向かいました。
「おはようございます。ツァーレンさま。良く眠れましたでしょうか」
何も知らないリリュシュは、ツァーレンの世話を甲斐甲斐しく始めます。
「上皇さまより朝餉を一緒にと。ツァーレンさまが起きられたら知らせよと頂いておりますが、いかがなさいますか。もちろん急なことなのでお断りさせていただいても大丈夫ですわ。上皇さまったら朝の、土が柔らかいうちに庭の手入れをされるものですから、支度が誰よりも早いのです。ですから私たちと時間の流れが違うのですからお断りしても」
「いいえ。大丈夫。わたくしが起き上がるのが遅かったから心配をかけてしまったわね。上皇さまにすぐにお伺いすると伝えてもらえるかしら」
「はい。わかりました。ではすぐに上皇さまにお知らせいたします」
リリュシュは言葉の通り部屋を下がり、上皇の元へと言伝に向かいました。
ツァーレンはどうやって失礼を詫びようかと思い悩みましたが、よい言葉が浮かびません。
そうこうしているうちにリリュシュが戻り、ツァーレンは部屋を出る時の身だしなみとして帽子を被って顔を隠そうとしました。
するとリリュシュはすかさず帽子をツァーレンから取り上げて、型崩れしないための箱にそっと帽子をしまいました。
「リリュシュ?帽子をちょうだい」
「いいえ。ツァーレンさま。上皇さまが、帽子を被らないで来るようにとの仰せでした。私もそのほうがよいと思いますわ」
―――――そんな。帽子が無いと人前に恥ずかしくてでれないというのに。
ツァーレンは呆然と、そこに立ち尽くすほかありませんでした。




