第二十話 上皇
ツァーレンの手は、火照りを帯びて真っ赤になっていました。
見る見る間に増えていく出来物に、無意識に手が伸び、掻くようにさすります。
「いったいこれはなんでしょう。朝餉のものが合わなかったのでしょうか」
「いつもと同じ朝餉だったわ。苦手なものなどなかったはず」
「他の場所にもあるやもしれません。少しお調べしてもよろしいでしょうか」
リリュシュはツァーレンの肌を調べましたが、不思議なことにその出来物は少し熱くなっている肌には現れていますが、冷めていたり、衣服に隠された場所には現れてはいませんでした。
リリュシュはすぐさまタオルを取り出し常備している水筒から水を湿らせて、ツァーレンの肌を冷やしました。体温が高いにはかゆみが強まることを知っていたからです。すると思惑通りかゆみが治まったのか、明らかにほっと息をついたツァーレンがいました。
「原因がわからないので今はこれ以上はどうしようもございませんが……」
「いいえ。随分とかゆみも引いたわ」
「それはようございました。離宮まではあと少しですので、しばらくこのままにして御典医さまに診ていただきましょう」
「……着いた早々、上皇さまにはご迷惑をおかけすることになってしまうわ」
「そんな。それでしたら私が何かの不注意をしてしまったがためにツァーレンさまに異変が現れたのですから、私が叱られてしかるべきです。至らなくて申し訳ございません」
「まあ、何をいうの。リリュシュはよくしてくれています。そんな風になど言わないで」
手に掛けたタオルをもう片方の手で押さえながら、ツァーレンはリリュシュの必要のない謝罪をにっこりと笑って流しました。
それから馬車はいくぶんか速度を上げてニコライの街を横切り、街道をひた走り、上皇さまの住まう離宮へと急ぎました。
めざす離宮はレステア城の北に位置し、広大な森のなかに人工的に作られた池を挟んで四か所に庭園があり、その中心の丘に小さな宮が四方の庭を見渡せるように建てられていました。
馬車はうねるように整備された道を走り、宮の手前にある池の前で停まりました。
「ようこそいらっしゃい」
リリュシュに手を引かれて馬車から降りたツァーレンに、一人の庭師が声をかけました。
白く長い髪を麻ひもでくくり、日よけには大きなつばひろの帽子、首にはタオルをかけて、腰には革製のはさみ入れ。どこをどうとっても庭師の男は、ツァーレンがスズーリエの王女だとは知らずか、浅黒い顔でにこにこ笑って手を差し出しました。
―――――握手しろということかしら?
ツァーレンの知りうる初めての挨拶に、いきなり握手というものはありません。
その上、風情をみても、王女であるツァーレンよりも階級は下のはず。下の者から上の者へ声をかけるのは失礼にあたると教えられツァーレンは戸惑いを隠せませんでしたが、もしかするとレステアではそういった堅苦しい礼儀作法ではないのかもしれない、それにここでこれから暮らすのだからここの人とは親しくならなければと思い、顔を上げて庭師を見た時、なんだかどこかで会ったことのある不思議な既視感に襲われたのです。
「まあ、上皇さま!またそのような形で!!ツァーレンさまが驚かれるでしょう?」
―――――え?上皇……さま?
ツァーレンは、まじまじとリリュシュに上皇と呼ばれた庭師を見てしまいました。
ツァーレンの中の上皇は、黒いシルエットで描かれた姿絵のそれで、情報としては自分よりも数十歳年上のレステアの賢王と言われた人でした。城の中で臣下に的確な指示を示し、道理に通じ、民から尊敬される、そのような人だと思っていたのです。その中には庭師の姿で人を驚かせるような茶目っ気のある人という認識はありませんでした。
すかさず体制を立て直し、挨拶をしようとドレスの端をつまんで腰を落としました。
「お初にお目にかかります。ツァーレンにございます」
「よいよい。型ぐるしい挨拶などいらぬ。……握手はしてくれぬのか」
上皇の差し出した手はそのままに、少し寂しげにツァーレンに微笑みかけてきます。
――――まあ、わたくしったら、なんて失礼なことを。
ツァーレンは慌てて手を差し出すと、上皇の土にまみれた手がツァーレンの手をがっしりと掴んでぶんぶん音が鳴るほどに何度も振りました。
それのなんと楽しそうなこと。
離宮の庭は、しばらく楽しげな笑い声が響いていました。
こうしてツァーレンはレステアの離宮に迎え入れられたのでした。




