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縁結びの副神の微笑み13

 一寸先は闇。そんな言葉があるし義父は突然失明したし、病気を宣告されて二日程度で亡くなった女性の話も知っているのに俺はバカだ。

 建物はあちこち壊れて右前方では火の手があがっていて目の前には巨大な犬。唸り声をあげて鋭い牙を剥き出しにしている。

 普通の犬五頭分はある大きさで尻尾が九本生えている白い毛の猛獣。頭には小さな角が生えている。

 悲鳴と逃げ惑う人々の中で俺は茫然としている。恐怖で足が動かない。

 

(どういうことだこれは。なんだあの化物)


 カンカンカンと緊急を知らせる鐘の音が響き渡っている。明日この街から家へ帰るのでメルに何かお土産と街を歩いていたらこの惨劇。

 腰が抜けてしまった。体が動けない。俺みたいな者は他にもいるし、人があちこちで倒れていて倒壊した家に下敷きの者もいる。


(地獄絵図ってこれ……)

 

 半年前と似たような出張だったのに今回はこの事態。

 昨日の今頃は農家で手伝い仕事後に楽しく次の契約話や雑談していたのに、少し前までのんびり買う物探しだったのに危急存亡の瀬戸際。


「動ける方は一歩でも遠くへ逃げて下さい!」


 叫び声がしてなんとか顔を動かしたら後方から馬や赤鹿に乗った警兵隊が向かってきていた。助かった!


「避難誘導!」

「一人でも多く逃がせ!」

「えっ、ルーベルさん!」


 十数人の部隊から一人が飛び出した乗馬兵官が化物犬へ突撃して行った。


「こっちだ化物狼! ほらよっ! こっちに来い!」


 乗馬兵官が抜刀して化物狼へ向かって突き進んでいく。

 別の方向を向いていた化物狼が突撃警兵に大咆哮。馬が驚いて前足を上げて停止。

 怯えた馬が暴れるからか警兵はヒラリと馬から降りた。馬が逃げていく。


「化物? 賢そうだな。いやとにかくこっちへ来い! 俺が相手だ!」


 石を投げた警兵が走り出すと化物狼が飛びかかった。足が速くて突き……ひっ! うおっ、避けた! あんなの避けられるのかよ!


「大狼です! 避難して下さい! 走れる方は出来るだけ遠くへ走り続けて下さい!」


 別の警兵が叫んだ。少し安堵したからか立てたので震える足を殴りつけて歩き出そうとしたけど震える足がもつれて転んだ。


「凄え! また避けた!」

「感心している場合か! 俺はルーベルさんの援護と囮になるから区民を逃がせ!」

「はい先輩!」

「引きつけておくから一人でも多く区民を逃がして下さい!」


 今の大絶叫は最初の警兵。気になって振り返ったら最初に大狼に突撃した警兵は大狼の前足で払われて吹き飛んだ。

 死んだ。絶対に死んだ。鋭い爪で血が散ったのが見えた。彼は半壊している建物の壁に激突してしまった。


「ひっ!」

「ルーベルさん!」

「なんであんなのに飛び込んだんだ!」

「区民を逃すためだろう! 今の間に何人も逃げられてる! 俺に囮死は無理です! ルーベルさんのあの動きで短時間しかもたないって俺はもっと役立たずです!」

「馬は逃げるから俺だな。赤鹿ならなんとかなるか? 俺が気を引きつけるからその隙にとにかく区民を逃がせ!」


 彼も囮死を選ぶって嘘だろう。赤鹿乗りの警兵も突撃。吹き飛ばされた仲間の近くへ向かっていく。


「皆さん逃げて下さい!」

「走れるだけ走って逃げて下さい!」

「先輩が囮になってくれているこの隙に近隣にいる区民を手当たり次第避難させるぞ! 大狼は災害で殺すのは困難だ! 散れ!」

「はい!」


(殺すのは困難ってなんだ。大狼って聞いたことある)


 伝説や文学上の生き物かと思っていた。実在するのかよ!


「そちらの方! 怪我してなさそうだから早く立って逃げて下さい! 俺達がいるから大丈夫です!」


 俺に向かって何かが投げつけられて肩でパンッとその何かが破裂。動けという事だろう。少し大きめの音と警兵の笑顔で少し震えが減った。


「次は俺が行くからお前らとにかく人を逃がせ! お父さん探しは後だ君!」


 別の警兵は馬を走らせると地面に座って泣いている男の子の着物を掴んで腕に抱いてそのまま駆けていった。


「俺も行くって先輩も囮死にする気ですか⁈」

「赤鹿じゃねぇと囮にならねぇ! どうにか死なねえよ! お前らも動け! こんなの指揮も何もない! とにかく区民を逃がせ!」


 もう一人の赤鹿警兵も大狼に向かって駆け出して、他の乗馬警兵達の残りはあちこちへ散らばっていった。


「お前は次だ! 遠巻きで避難誘導して俺が死んだら頼む!」

「しかしテオさん!」

「いや、赤鹿集めてこい! 馬は役に立たねえ!」


 赤鹿は大狼に吠えられても馬のように逃げないで飛びかかった大狼からも逃げられている。弓矢はことごとく前足や尻尾で薙ぎ払い。


「はい!」

「早くしないと死ぬから頼んだ!」

「はい!」


 こんなの当然逃げる。そう思ったけど瓦礫の近くで子どもが叫んでいることに今さら気がついて、その子どもが大泣きしながら母親を呼んでいるから俺は思わず駆け寄った。

 

「これならなんとか助けられるかもしれない! 僕! 先に逃げなさい!」

「おかあちゃーん! うええええ!」

「逃げて! 貴方も逃げ……」


 助けようと思った女性が顔を引きつらせた。視線が俺の後ろだったので振り返る。

 赤鹿警兵が槍で大狼に襲いかかってくれたけど尻尾が彼に向かったので赤鹿が高く跳ねて俺達から遠ざかった。突きに使われた槍は大狼に噛まれて破壊。

 唸る大狼がゆっくりこちらへ向かって歩いてくる。わざわざこっちに来るなよ……。


(さっきまであっちにいたのに死ぬ……。メルさん……)


 帰ったら話し合いなんて本当にバカだった。他者より勘の良さそうなメルの今日は出張に発たないで、みたいな台詞を無視したこともバカ。


(連続殺人鬼のことがあったのに、あの日も結納前だし泊まりはって渋ったけど強めに言われて結果はあれで……)


 メルのもしもやかもしれないという世界は存在しなくてあるのは結果と今だけ、というかつての台詞が蘇る。だからこそ過去から学ぶべきなのに逆……。

 鋭い牙で噛みつかれて食われるのか爪で引き裂かれるのかなんなのか……。

 死にたくない。帰りたい。こんな死に方もだけど喧嘩別れなんて、メルに誤解されたままなんて最悪な死だ。

 

「僕。う、後ろに……。俺が食われてる間に逃げろ……」


 自ら囮になる勇気はないけど子どもを盾に逃げるなんて俺には出来ない。子どもを背中へ移動させて足を踏ん張る。


「俺を食ったら……。すぐ逃げろ……」


 足が動かなくて目も開けていられなくて歯が勝手に動いてカチカチ鳴る。

 今すぐ他人の子どもを大狼に投げてその隙に逃げてしまいたい。

 誰か子どもを逃したと見ていて、この子どもが生き残ってメルに俺は恥ずかしくない最後だったと伝えてくれないだろうか。


「奥さん。南三区六番地朝日屋……。生きて家族に……」


 身分証明書を投げたら良いと思って懐に手を入れた。


「こっちだ化物狼!!!」


 目を開くと弓矢が大狼に向かって飛んでいった。しかし前足で払われた。赤鹿警兵はまた矢を放ってくれた。今度は尻尾で薙ぎ払い。

 おかげで大狼は近寄ってこないけど犬とは異なる猫のような鋭い瞳孔の金色の瞳に見据えられて全身がガタガタと震えた。


「あ"ああああああ!!!」


 大絶叫の後に壊れた建物の柱が飛んできた。非常に残念なことにそれも大狼の前足で払われた。少し嬉しいことに大狼は俺とは別の方へ頭部の向きを変更。


「かかってこい化物狼! お前の相手はこっちだ!!」


 死んだと思った警兵が片手で刀を構えていて、大狼の視線が俺達から逸れて腰が抜けた。


(あんな柱を投げられるのかよ! 生きてた!!)


「かかってこい! こっちだ化物狼!」


 怒鳴った警兵の胸腹部は制服が破れて装備も破壊されているから剥き出しで血塗れ。思ったよりも大怪我ではない? いや大怪我だ!


「っ痛。うるああ"あ"!」


 彼は手拭いらしき布を噛んで刀を持っていない手で引っ張った。その後に大声で「こっちだ化物狼!」と再度絶叫。


「痛くねえ! テオさん目を狙って下さい!」

「さっきからしてる! つかず離れずここに留めろ! いやルーベルさんはもう逃げろ!」

「テオさんの翻弄の隙をついて目を仕留めるから頼みます! 化物狼には化物射的です!」

「化物射的ってさっきの馬鹿力、ルーベルさんも化物だろ!」


 大声を出しながら赤鹿警兵と怪我をしている警兵が動き回って大狼からの攻撃を避けている。


「馬鹿力はテオさんも似たようなもんじゃないですか! そこの人達逃げて下さい!」


 逃げたいけど立とうとしても立てない。赤鹿一匹と人間二人であの化物狼の囮。なぜ彼らは動ける。


「逃げ……逃げろ僕。今のうちに……」

「セツ! 逃げて! お母さんはどうにかなるから大丈夫! 早く今のうちに逃げて! 息子を連れて逃げて下さい! お願いします!」


 なんとか立って腕を動かす。子どもは母親へ近寄ってしゃがんで母親の手を掴んで引っ張った。


「お母ちゃん助けるから待ってて!」

「そっちじゃねぇ! 化物狼! こんだけ強くて弱い者虐めか! かかってこい!」

「ルーベルさん、目潰しとは、なんつう動きをしやがる!」

「く、来るなぁ!」


 わざわざなぜこっちに来る大狼!

 赤鹿乗りが駆けつけてくれて俺達の前に来たけど絶望。

 怪我をしている警兵がかなり大きな石を大狼へ投げて「だからこっちだ卑怯狼!」と大絶叫。

 勢い良く飛んできた石を避けると大狼はそのまま跳ねて石を投げた警兵に襲いかかった。

 避けた警兵を無視して大狼はそのまま前進。怪我で動けない道に倒れている男を咥えて遠ざかっていった。


「なんか知らないけど逃げた! あ"あああああ!」

「ルーベルさん! 手当てします!」


 叫ぶように呻いてよろめいた警兵に赤鹿警兵が赤鹿から飛び降りて駆け寄った。

 俺はまた腰が抜けてしまって座り込み。今度は恐怖ではなくて安堵でだ。助かった……。


「浅傷だから平気です。すり傷が変に痛むのと同じで。自分でやるんで避難誘導をお願いします。戻ってくるかもしれないからここら一帯の区民の救助や他地域の避難誘導をしないと!」


 彼は血だらけだし真っ青な顔だ。


「ああ、確かに浅そう。なんとか避けたんですね」


 それは朗報。


「ええ。俺の馬はどこに逃げた。赤鹿は凄え。なのに俺は赤鹿はまだまだ白目」

「飽きたか満足して帰ったんだよ——……」


 大狼が去った方角で下から空へ向かって物が大量に吹き飛んだ。


「いやがる。行きたいけど心が折れかけ。無理そうと思ったらルーベルさんに助けられた。なんとかだったし……俺は非難誘導に回る。とにかく区民を逃す」

「俺ももう御免です。死ぬかと思った。俺は馬がないから追えないっていい訳をします。テオさんは大狼が去った方向をあちこちへ連絡する係です。かなり重要な仕事だから囮よりも優先事項です」

「それだ。そうしましょう。ルーベルさんはどう見ても無理です。この傷ですから休んでて下さい。誰かつかまえて相乗り出来るようにするのと救助や応急処置要員も呼びます!」

「頼みます!」


 赤鹿乗り警兵は大狼が去った方向へ駆け出した。


「また化物狼に挑みに行くのかよテオさん。あっ、曲がった。っ痛。あ"あ"あっ! 痛くねぇ! 避けられなかったなんて力不足だ畜生!」


 怪我をしている警兵は羽織を脱いで体を縛った。


「怖かったですよね! 今助けます!」


 かなりの速度で駆け寄ってきた警兵は俺達に笑いかけた。近寄ってきたからより分かる。顔色はすこぶる悪くて汗もかなり滲んでいる。

 彼は俺を子どもを抱き上げるようにヒョイっと持ち上げて立たせて、俺の後ろにいる子どもの頭を撫でて「怖かったな」と笑いかけた。あの傷で動くのか。休まないのかよ……。


「力持ちだから母ちゃんを助けられる。危ないから下がってろ。大丈夫だ。見ただろう? 俺は力持ちだ。かすり傷で元気だし」


(……。この人、この顔にこの笑顔。遅刻受験生!)


 そう見える。かなりそう見える。彼は下級公務員試験に合格して兵官採用試験にも受かって警兵になっていたのか。


「う、うん……。うん! お母ちゃんを助けて警兵さん!」

「お父さん! お子さんと離れて下さい!」


 お父さん⁈

 違うけどそんな事を言っている場合ではない。子どもと一緒に距離を取る。いや、俺も手伝いだ!


「手伝います!」


 近寄ろうとしたらこちらを見ない警兵に手で静止された。


「邪魔なんで下がって! 運が良さそうな重なり方……。うおらぁ! っ痛! あはは! 大丈夫なんで少し待ってて下さい!」


 状況を軽く確認後に重なっていた瓦礫や木が次々とどかされて「おお、片足だけ。化物狼も逃げたし幸運の副神様ですね。おかげで助かりました。死ぬかと思った」と警兵は女性を横抱きにして安全な場所まで運んだ。


「お母ちゃん!」

「ありがとうございます! ありがとうございます!」

「下手に動いてまた化物狼は困るから……。なんだ。どうしたらよかなんだ? とりあえず他の人も助けないといけないんでこの怪我なら添え木を探して固定して下さい! そこらにありそうです。そういうの学んでますか!」

「あ、はい。はい! 学校で習ったので知識はあります」

「副神奥さん! 頼りになる旦那さんでよかですね! 添え木を結ぶのに使って下さい! 頭は大丈夫そうだから奥さんを運べそうなら化物狼と逆の方へ逃げて下さい!」


 お礼を告げる前に警兵は腰に下げている鞄から包帯を出して俺に渡した。俺を見ないで女性の怪我の様子を確認している。


「あの! あの公務員試験に遅刻しましたよね! 火事で!」

「ん? 火事? 試験? ああ。はい。そんなこと忘れていました。懐かしいな」


 衝撃的過ぎる縁だけどやはり本人!

 顔を頼りにちょこちょこ探していたけど積極的ではないから見つけられず。なのにまさかこのような再会の仕方をするとは。命の恩人になるなんて。


「俺、あの日いました」

「へぇ。そんな偶然あるんですね。その格好やあの怯えっぷりは兵官ではないですね。もしも兵官なら役立たず兵官なので励んで下さい。兵官でなければ区民や父親としてとても立派で大活躍です! よかな旦那さんでお父さんですね!」


 一瞬振り返った彼に優しく笑いかけられて俺はつっかえながら「偵察受験で兵官ではないです……」となんとか口にした。


「偵察? 他は大丈夫そうなんで足の固定をして逆方向に逃げるか隠れて下さい!」と彼はサッと立ち上がって駆け出した。大狼が去った方角。


(まさかあの怪我で追いかけないよな)


「動ける方は怪我人の手当てや運ぶのを手伝って下さい!」


 彼が使った黄色い発煙筒の煙が上がっていく。倒れている人の確認。すぐに移動したから亡くなっていた者だろう。


「助けようとしてくれてありがとうございました!」


 声を掛けられてハッとした。彼を眺めている場合ではない。


「お兄ちゃんありがとう!」

「本当にありがとうございます」

「いや自分は何も……。ああ、添え木を探してきます!」


 逃げたいけどどこへ逃げたら安全か分からない。逃げた先に大狼がいたら次は死にそう。かといって大狼が戻ってきても絶望。

 鐘は鳴り続けているから大狼はまだ去っていない……と思ったら大狼が去った方角に黒煙。

 壊れた家屋から使えそうな木片を探して応急処置なんてした事がないけど小等校と中等校の授業で練習したので思い出しながら、不安を抱きながら、痛みで呻く女性の声に耐えながらなんとか達成。


「逃げるべきなのかここ……。うおっ!」


 大狼が去った方角で爆発音がして土埃が上がった。


「あれはなんだ? こっちに逃げ戻ってきたりしないよな……」

「見つからなそうな物陰は危ないでしょうか? あの狼は体が大きいから狭いところは見つかりにくい気がします」

「そうしましょう。幸運の副神様って言われましたからきっと貴女の勘が正しいです」


 勘と口にして勘の良いメルの事をまた思い出して涙が溢れて止まらなくなった。


(メルさんの勘は大事なのに俺は……)


 謝っていないし、何を言いかけたのか聞いていないし、誤解を解いていない。


(死にたくない。このまま生き残りたい……。メルさん……)


 俺は周囲を軽く調べて壊れきっていない壁を発見。崩れないかと周りの様子を確認。

 ここにしようと決めて戻って、肩を貸してくれたら片足でどうにか動くと言った女性を近いからと言って抱き上げて移動。

 重くなさそうな女性なのに精神的な疲れとそんなに力持ちではないからキツい。

 

(あの警兵は怪我をしているのに軽々運んだ。朝日屋地区兵官もわりと馬鹿力だしな)


 朝日屋みたいに誰かが警兵達を支援したとか積極的に寄付しているなら感謝しないと。警兵本人達にお礼は大前提として。

 乗馬警兵が何名か戻ってきて馬から降りたり、赤鹿警兵が何名か止まったり動いたりした後に大狼が去った方へ進んでいった。


「逃げられる方は逃げて怪我人を運ばそうな人は助けて下さい! 怪我などで逃げられなそうなら隠れて下さい!」


 そういう声が聞こえてきた。気がつくのが遅くなったけど移動してしばらくしてから母子に父親を探すか尋ねた。

 

「川漁師で少し遠いからきっと大丈夫です。ありがとうございます。シエルさんのご家族は?」

「煙や火事の気配がない向こうの方の宿に泊まっていたんで多分平気です。家で留守番中の妻に土産と思ってこの辺りまで来たらこれ。運が悪いです。いや、すり傷だけなので逆か」

「逃げられるのに駆けつけてくださりありがとうございます」

「腰を抜かしたり震えて動けなかったりですみません」

「この子を庇って逃げろと言ってくれました」


 話をしていると女性は辛そうになってしまい熱発。汗を拭きながら何が最善手なのか少し迷っているうちに日が沈み出して夕焼け空。緊急事態を告げる鐘の音が鳴らなくなった。

 それから空に登る青い色の発煙筒の煙も見えた。これはかなり安堵。多分大狼が去ったというお知らせ。


「動いて良さそうですね」

「表へ行きましょう。熱があるので早く医者か薬師さんに診せないと」


 火消しと警兵が何人かいて俺達にすぐに気がついてくれた。


「自分は元気なので帰ります! 家族の無事を確認したいのでお願いします!」

「歩けるなら怪我のなさそうな子どもを連れて行って欲しいです! この先に臨時救護所を作ってあるので」


 駆け寄ってきた火消しに泣いている一歳くらいの子どもを任された。


「すみません。自分の事しか考えていなくて」

「皆さんはそれでよすです! こんな大災害地で恐ろしい目に遭ったから当然です! 采配していくのは自分達火消しや警兵なんで! 快く協力してくれてありがとうございます! 人手が足りないんで助かります!」


 肩を叩かれて、兄達くらいの火消しに笑いかけられた。丸まりそうな背中を伸ばして一言お礼を告げて歩き出す。


(この子の親も生きていますように……)


 口頭で案内されたように歩き続けたら救護所を発見。火消しに事情を説明したら子どもを預かると言われたので渡して宿へ向かった。

 無事な街並みの中にある宿はもぬけの空で誰もいなくて受付に置き手紙があった。

 店の者も客も警屯所へ避難したという内容。他にも手紙はいくつもあって、急いで書いたような文字の俺宛の手紙を発見。

 立候補したハンを警屯所へ残して他は全員このまま家に帰る。

 旅行者は帰れ、出来るだけ遠くへ逃げるように、という指示なのでそういう避難をすると書かれていた。

 火事場泥棒対策なのか見回りしている警兵達にお礼を告げながら警屯所の場所を尋ねて警屯所へ到着するともうすっかり夜。

 騒然とはしていない。避難者受付と避難者確認はここ、という案内板がすぐに目に入ったのでそこへ移動。

 避難者確認の列に並んで一覧を確認したら朝日屋ハン・ソイスを見つけられた。教えられた場所へ行って探してハンと再会。


「若旦那さあああああん! なんですかその格好⁈ 歩いているから大きな怪我はないんですよね⁈」


 両腕を掴まれて確認のように眺められた。


「かすり傷しかないです。宿で手紙を読んできました。大狼が暴れた地域に居合わせて死ぬかと思った。警兵達に助けられてこの通り無事だ」

「いつまでも来ないからそうじゃないかと思って怖かったです! 大狼が去ったと聞いて探しに行こうと思ってもすれ違ったら合流出来ないし……」


 泣き出したハンの背中に腕を回して軽く背中を撫でた。ハン達は屋根の上を走る大狼を見たそうだ。


「ああ、帰……」


 今すぐ帰りたいけど俺は人に助けられてこれを放置するのか?

 

「帰りましょう若旦那さん。また来るかもしれません! 若旦那さん?」

「警兵達に命がけで助けてもらいました。特に二人。囮になってくれて一人でも逃げろって……」

「なんすかその大英雄!」

「確か……。ルーベルさんとテオさんだ。テオさんは赤鹿乗りで……。だからこのまま帰って良いのかと。俺は助けられたのに……。一刻でも早くメルさんにも他の家族にも会いたいけど……」

「素晴らしい考えですけど心配するメルさんやニライさんが来てそこに大狼が来たらどうするんですか⁈ 一人でも逃げろって言われたならそれこそ逃げないと! 寄付とかなんかしましょう!」

「その発想はなかった。そうだ。二人が来たところに大狼は嫌だ。シオン兄上も家族を安全なところへ連れて行ったら戻ってくるかも」

「全員残る勢いだったので帰るように強く言いました。若旦那さんは俺。義理の弟は任せろ。家族に伝えて欲しいしシオンさん達をとにかく安全なところへと思って」

「全員逃げて欲しかったくらいです。ハン、残ってくれてありがとう」

「聞こえてたけど帰りなあんた達!」

「街を直すのに金が必要だから頼む!」

「その格好、金持ちそうだし警兵達に報奨金とかそういうのも頼む! あちこちに伝えてくれて寄付があったら助かるからお願いします!」


 この街に家がある者達が踏ん張るから頼むと近くにいた家族に言われて俺とハンは街を出る事にした。

 大狼は恐ろし過ぎたのでそこから必要最低限の休憩だけにして野宿にして水だけ飲んでひたすら早く、早くと家へ向かった。

 俺もハンも玄関の鐘の音を鳴らさずに家に飛び込みお互い妻の名前を呼んで居間を目指した。ハンは息子と娘の名前も叫んだ。


「シエルさん!」

「ハンさん! うわっ。汚い! お風呂を沸かしてもらいます!」

「ニライさん! それより前に抱きしめさせてくれ! 恐ろしかった!」

「ちょっ、そうしたいけどその格好は!」


 ハンはニライに飛びかかろうとして逃げられて俺にはメルが抱きついた。

 ニライに手を握られたハンが「お風呂とご飯と着替え! まず着替えと休んで!」と連れていかれる。この様子、先に逃げたシオン家族と奉公人二人が事件のことを知らせてくれたと分かる。


「シエルさんごめ……」

「メルさんごめん! 何か言いかけたのに帰ったらなんて……。ここぞって時の勘が良いのに無視してバカだった。行くなって大正解だ。大狼が目の前で……。死にかけた……」

 

 俺は何度も泣いたけどまた泣いてメルを抱きしめて崩れるように座り込んだ。


「最近少し気になっただけで前は何も考えてなくて、俺のことを見てくれてるって分かっているのに心が狭いバカだから……。あんなこと……」

「私こそすみません。信じることから始めないで、向き合って話さないで……」


 人目とかどうでも良い。汚い格好と嫌がられなかったので俺はその場でメルの唇に唇を重ねた。

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