縁結びの副神の微笑み11
パシッと遊女撫子の手を払って酒を飲みながら微笑ましい光景を眺めた。ふぅ子がハムスターを無事に捕まえてカゴに戻している。
お金があるならこういう和んだり癒される場や美しい舞や歌に演奏は買いたいかも。
そこらの遊楼ではこのようなものはないに違いない。兄や友人達との会話では聞いたことない。
「無駄って特に何もする気はないです。飲み食いと目の保養で満足して帰るので」
「撫子さん。こいつ堅物なんですよ。奥さんの尻に自らぺちゃんこ。怖くない奥さんなのに」
「帰るだなんてつれないです。カイド様はいつもこの後の分まで全員分払ってくれるので、ねっ?」
太っ腹な金持ち!
帰るけどつい喉が鳴ってしまった。この店でこの後も無料で遊べるなんてとんでもない話だ。
遊女は苦手だけど……。俺の目線は遊霞。演奏や言動でここ最近のイライラを忘れさせてくれた。
「手は出さないけど曲を弾いてもらうのはありですか? 買った相手に何をしてもらっても良いはずだからありですよね。いや、終わったら帰らないと。妻と宴席だけで帰ると約束しています」
「シエルさんは奥さんに話してきたんですか。いやシエルさんだからな」
「特別浮絵のためですからどうぞ。ハインさんを見張るようにと言われました」
嫉妬されたかった、という苛つきを少し思い出してしまった。
「何か聴きたい曲があるのでしたら遊霞さんに頼みます。カイド様や夕霧姉さん達はハムスターに夢中のようですので」
無事にハムスターを捕まえたみぃ子とふぅ子がカイドと夕霧花魁の近くに戻って遊霞は元の位置に着席していた。
今度は琴ではなくて三味線を弾き始めて楽しげな曲を披露。知らない曲だけどハムスターで盛り上がっている様子に合う曲だ。
「良ければお願いしたいです。何なら弾けるのか彼女に尋ねたいです」
「遊霞さん。あら。あらあら。今夜はもう逃げるようです」
逃げる?
その通りで遊霞は何も言わずに客達の誰も見ないで挨拶もせずに退室した。
「ハムスター探しが初心ちゃんには不愉快だったようです」
「ハムスター探し……」
遊女の着物を上から下から覗いて騒いでいる客が二名。いや三名。いや増えた。そういう遊びに変化したっぽい。
子どももいるし人前でこういうことをするな、と思う俺は色遊びに向いていない。まあ、昔からあれこれ変わり者だ。楽しかったし癒されたけどこれにはげんなり。
「はあ……。遊霞さんはまた折檻かもしれません」
撫子に耳元で小声で話しかけられた。離れて欲しいし腕に手を添えるのもやめてもらいたい。しかしこの台詞はとても気になる。
「えっ?」
「勝手に退室するのはやめなさいと言っても頑固者です。将棋の腕でのし上がった花魁がいるなら私も芸妓として色も春も売らずに登るなんて大口を叩いているけどいつまで持つかしら」
「……へぇ。そういう方なのですか」
「売られてしばらく経つらしいですがそろそろ怪しいです」
売られたけど必死に抵抗。いつまで持つっていつ売られたか知らないけど今のところ色も春も売っていない?
売られてしばらく経つってあの素晴らしい演奏なのに遊楽女あがりではないのか。
一人だけ浮いていたし、あの言動だからそれなりの家が没落して売られた?
「らしいってなんですか?」
「この街の住人は商売規定以外では大小嘘をつくものです。店に売られたと聞くこともあるし、家出して乗り込んできたとか、野心で稼ぎにきたとか色々聞きます」
「ああ。友人がいれあげたら生い立ちなど全て嘘だったと。文学とか劇でもそうですね。花街には真はありません、って」
「ええ。私達の仲間になりたくないのか喋らないので分かりませんけどそれなりの家から売られたみたいです。明らかに一人だけ雰囲気や言動が違ったでしょう?」
それなりの家はミレイのような私立女学校に通うような格の華族だろうか。それは納得。あの動きや言葉遣いはそこらにはいない。
「折檻は何をしてもなくならないですか?」
ニコリと笑った遊女撫子は「それなら行きましょう」と俺の腕に腕をからめて立ち上がった。
「夕霧姉さん。飲ませ過ぎてしまって休みたいそうなので失礼します」
「まあ。それは大変です。楽しんで」
「おお、夕霧がそう言うなら好きにしてくれ。夕霧、それでいつものように私に。あはは。初めてこの街へ来た方はせっかちだな」
絶対に誤解されている。ヒソヒソ話みたいになっていたからかハインが俺を見てニヤッと笑ったので「違う!」と言いたいけど場の空気があるから黙って従う。
部屋を出ると撫子は中年女性、従業員に声を掛けた。
二人はコソコソ話を少しして、撫子が「ソイス様。あまりにつれなくて残念です。代わりに売上を獲得して休めて運が良いです。今夜は頭が痛くて困っていて。ありがとうございます」と告げて去っていった。
「……」
カイドが俺の代わりに撫子を買うけど俺は帰るから得したってことか。
仕事はもうしないのに稼ぎは確保。被せて働くのか、はたまた次の時間からまた働くのか。
それとも今日は先程の宴席とその前と俺と寝たという嘘で稼いだ金分で許されて休む。なににせよ賢いな。
「お客様。遊霞さんの演奏だけをご希望だそうですがお値段を聞かれますか?」
「えっ、いや、カイドさん支払いで買えるなら彼女ではなくて、撫子さんではなくて遊霞さんをお願いします。彼女の演奏を聴きたいです」
「やはり演奏だけですか?」
「ええ」
「遊霞さんは二十二時で終業です。残り時間のみは可能か交渉してみます。そのくらいならカイド様につけても気にしなそうなので。こちらで上手くやります」
遊女が二十二時で終業って稼ぐ気あるのか?
上手くやります。撫子代に遊霞代も増やして請求ってこと。俺に言ったらダメだろう。高級店なのに大丈夫かこの店。
カイドは俺のツテコネ客ではないから何も知らなかったと逃げよう。
花魁の馴染み客が怒るような請求はしないだろう。遊女二人の稼ぎになるから彼女達の懐が潤う。
「お願いします。それで彼女の折檻はなくなりますか?」
「曲のご希望はなんでしょうか」
「いやあの、折檻は」
この従業員は接客下手だな。
「撫子に何を言われたのか知りませんが遊霞さんに折檻なんて出来ません」
「そうなのですか? 勝手に退室したから折檻って聞きました」
「いえ。彼女は退室自由なこの店雇用の芸妓です。花芸妓ですらない単なる芸妓ですので触るのは禁止です。撫子に説明されなかったですか?」
「はい。触る気はなくて演奏を聴きたいだけなので構いません。折檻もなくて安心しました」
従業員は笑っているけど目が笑っていないから撫子は後で怒られそう。
遊霞は遊女ではないのか。つまり彼女はこの店に売られていない?
「曲のご希望はなんでしょうか」
「曲は……積恋歌でお願いします。妻との思い出の曲をあの素晴らしい腕で聴きたいです」
「かしこまりました。一先ずこちらへどうぞ」
連れて行かれたのは小部屋だった。小洒落た連れ込み茶屋の部屋に少し似ているけどもっと派手で広さもある部屋。
布団が敷いてあったけど従業員はそれを畳んで端へ移動。
彼女と入れ違いで別の従業員が俺の食べかけ、飲みかけのお膳を運んできてくれた。
しばらくして遊霞が来て俺の前、かなり離れたところへ着席して、後ろについてきた従業員が彼女の前に琴を置いた。
従業員は出て行かなくて俺の隣に着席。目のやり場に困る遊女でなくなったからこれは落ち着く。
「あの、素晴らしい天泣土潤満華幸でした。今まで聴いた中で一番です。場違いなところに騙し打ちで連れてこられて疲れると思っていたけど得しました」
「ありがとうございます。ご希望は奥様との思い出の曲、背くらべの積恋歌とうかがいました」
彼女はとても美しいお辞儀をした。笑わない。凛と背筋を伸ばして視線は俺の手前。
「あら遊霞さん。今夜は喋るの」
「芸だけ買いますという正規のお客様とは少しくらい話します。でないとご希望を確認出来ません」
遊楼の正規の客は春買い客の方だけど彼女は芸妓だからそうか。
「そうですか」
「お客様、どのように弾きましょうか」
「えっ、どのように? どのようにとはなんでしょうか」
「奥様とこの曲の思い出を簡単に教えて下さい。それに合わせます」
「合わせます? 合わせないとどうなるのか知りたいです。積もるという曲名通り思い出は色々あります」
「かしこまりました。奥様とはなさそうですが、どのようにが何か分かるようにまずはこちらです。逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし」
こんなにも辛いのなら逢いたくなかったと始まったらとてつもなく胸が痛い音色だった。
(えっ、これって積恋歌だよな。この旋律はそうだけど……)
夏の蝉の声とメルの泣き声が甦ってこんなのは聴きたくない。あの日の不協和音はかなりキツかった。
しばらくすると遊霞は「奥様へはこのような気持ちでしょうか。いつはしも恋ひぬ時とはあらねども夕かたまけて恋はすべなし」と告げた。
朝昼晩とあなたのことが恋しくない時はないけど、特に夕暮れ時になるとどうしようもないとはまさに嫁好きの俺の気持ち。
新婚の頃にメルに梅の枝文にして贈っていちゃいちゃしたな。メルとポチと散歩をする夕暮れも思い出す。
(同じ曲なのに全然違う。なんで? 旋律は同じ……。速さや弾きかたとかか……。メルさんに会いたい……)
「このままでよろしいでしょうか」
「はい。是非。夕暮れは過ぎて夜ですが妻にこの気持ちですからお願いします。仕事の為と友人の為に来たけど若干騙されたし場違いで困惑したけど舞といい演奏といい得しました」
「撫子さんの手を何度か払っていましたね」
「はい。妻以外に触られるのはあまり。特にここは場所が場所なので」
「世の中にはそういう方もいらっしゃるのですね」
初めて目が合って優しい瞳と笑顔を向けられて少し顔が熱くなった。酒で体が温まっているけど今のは確実に照れの熱。
「売られたって本当ですか? 没落華族は信憑性があります。義姉と動作や雰囲気が似ています」
返事なし。彼女は微笑んで俯いて演奏を続けている。
「この曲は始めて聴いた妻の演奏曲です」
「それはすにてにきな思い出の曲です。背くらべの観劇でしょうね」
すにてにき。やはりミレイ系だ。本物のお嬢様疑惑。
出会って何度も交流するうちにミレイにはなぜその単語を恥ずかしがるという変わったところがあると思ったけど、彼女の生きてきた世界では当たり前と言われてかつて衝撃を受けた。
「売られたなら遊女です。しかし芸妓さんです。売られてないってことですか?」
また返事なし。喋るのは珍しいって気まぐれなのか?
曲が少し変化した。明るいというか温かい感じで桜の舞っているような感覚。
「今度はどのような感じですか? 俺としては万年桜です。妻を桜の精みたいだと思ったあの日の日差しの中のようです」
「押し付けましたが本来は感じ方も思いも自由です。奥様話でこのような感じも好まれると思いました」
喋った。自分の話をする気はないってことか。
「昔妻と出掛ける前、偶然見かけたらこの曲を鼻歌していました。まだ文通だけで会ったことはなくて俺にさらってって気持ちだったそうです。今も時々弾いたり鼻歌してくれます」
これなら喋ると思ったらやはり彼女の唇は動いた。
「あなたに会えない日を数えて」
喋らないで歌!
夕霧花魁もだったけど彼女も歌が上手い。
「ひふみと過ぎて」
心地良い歌声だけどこんな歌詞だっけ。
「恋とは苦しく甘くて」
やはりこの歌詞は知らない。ますますメルに会いたくなってきた。
「つのる、積もり、つのる、積もる、つのる……」
邪魔するように二十二時を告げる鐘の音が鳴り響き、遊霞は演奏も歌も止めた。
「では失礼致します」
「あっ、あの! いくらですか⁈ 自分で払うのでもう少し聴きたいです。帰宅時間があるのであと半刻程。銀鏡乱華。いや万年桜を……」
遊霞は頭を下げて「終業時間ですのでご予約下さい。予約のご希望があればどうぞお願い致します」と告げた。
「説明は店の者が致します」
十二時前の営業時間外でも予約可能らしい。この店の手習講師かつ芸妓で遊女とは勤務が異なるので彼女指定の勤務帳の空き部分で予約。
希望日時があれば空きを確認しますと従業員は傍に置いていた筆記帳を手に取った。
夕霧花魁の馴染み客の連れで宴席での様子も加味した結果、次回も似たような席の予約が可能と言われた。
「お値段ですが演奏だけなら一刻八銀貨です。今夜のように歌もつけたり三味線も弾けます。今夜は急でしたので不在ですが楽を一、ニ名つけます。そこに見張り代二銀貨です」
「……十銀貨ですか?」
高っ! メルに髪飾りをいくつか買える。
「はい。飲食代は別でそれはこの店と同じ値段です」
つまりさらに高くなるってこと。
「半刻だと五銀貨ですか?」
「見張り代は常に二銀貨ですので六銀貨です。今夜は半刻以下ですのでもう少し安値です」
高っ!
見張り代ってなんだ。今夜だとこの従業員か?
「十五銀貨で舞付きです。見張り代はニ銀貨です」
「えっ、舞? 踊られるのですか? 芸妓さんだからそうか。いえ、演奏のみの芸妓さんもいらっしゃいます。舞……」
あの所作で舞うって気になる。俺はチラッと遊霞を確認。目を閉じて微笑んでいる。彼女が舞う……。
二、三人で一刻十七銀貨……怖っ! 払わない!
「舞付きでは演劇も可能です」
「演劇? えっ?」
「流行りの歌劇や陽歌舞や古典などです。一人や遊楽女とだけも可能ですし、それ用にさらに遊女を付けるとまた別料金です」
「ご存知の通りくっついてきたおこぼれ客です。高級店について知らずにすみません。あー。今夜くらいの半刻以下、何も頼まないで演奏だけってみみっちい事は無理だし迷惑ですよね? 妻が店に入るのを嫌と言わなければ二人で聴きたいなと」
「それでしたらお披露目広場で道芸を不定期で行っています。花魁行列に加わっていますのでそちらをどうぞ」
……ん?
つまりそれは無料ってこと?
「指定曲をお望みでしたらご夫婦なら菊屋店外の指定の店で一刻以内一銀貨見張りなしで行います」
「ちょっと遊霞さん。そんな勝手に何を言っているのですか」
「私は采配自由です。講師と店の宣伝係が本職で他は自由勤務です。いつでも辞めます。ご存知ないのでしたら楼主か内儀に確認して下さい」
……。
この遊霞はどういう立場の従業員なんだ。花街では稼ぐのは正義。花魁は自由気味と聞くけど似たこと?
夫婦だと店外で一銀貨って一気に安くなった!
「うんと遠くはないけど初めて来て、妻ももちろんないです。近くで暮らしてなくて珍しい物を見たり買ったり観光しようと妻を誘おうと思ったので今夜は予約出来ません」
「それでしたら今身分証明書を提示してくださり、なおかつ当日ご夫婦で再度二人の身分証明書を提示していただけるなら当日飛び込みをなるべく融通します」
「えっ、良いのですか?」
「はい。この店で初めて言われた台詞です。ご夫婦で思い出の曲を聴きたいという方は特別です」
演奏中に一度見せてくれた優しい笑顔を向けられてまたしても少し照れてしまった。
確かに俺は遊楼で何を頼んでいるんだ。でもこの芸妓遊霞はそれが良いってこと。
俺が身分証明書を提示すると遊霞は従業員から筆記帳を受け取り懐から出した小物入れから鉛筆を出して書写しを開始。
「曲は銀鏡乱華と万年桜でしょうか」
「可能なら天泣土潤満華幸もです」
「奥様は海鮮丼と天ぷらならどちらを好まれますか?」
「えっ。どちらもです。どちらかというと天ぷらです。俺が揚げた天ぷらが好みと言ってくれます」
「お料理をされる旦那様なのですね。それならお店なら海鮮丼です。お食事の時間帯なら山河屋で演奏致します。奥様は甘いものを好まれますか?」
「はい」
「ざらめ餡子が美味しいお店がございます。甘味をいただくような時間ならそちらのお店で披露致します。店名はそのままざらめ屋でごさいます」
身分証明書が従業員経由で返ってきた。
「特別ご夫婦なので今回の待遇は広めないで下さい」
彼女は筆記帳を従業員へ渡して鉛筆を小物入れに戻して懐中。
「特別……。ありがとうございます。演奏を聴いた妻はきっと感激します。俺もそれで嬉しいです」
「ざらめ屋のざらめ餡子白玉あんみつは人気で個人的にもおすすめです」
彼女はお辞儀をすると「それでは失礼致します。今夜はありがとうございました。奥様と良い夢を」と告げて綺麗な所作で部屋から出て行った。
「お客様にこのような遊霞さんを初めて見ました。安金で曲を頼めて他の芸までって必ず来た方が良いですよ。気に入らないとどれだけお金を積まれても首振りします。退室自由ですし」
「彼女は稼ぎたいのではないのですか?」
「さあ。金額も下げたり釣り上げたり謎です」
遊霞は従業員にさえ謎芸妓。
カイドに挨拶とハインを連れ帰ろう思って元の部屋へ戻ると退室し始めた彼等と廊下で会えた。
カイドに挨拶をすると「夕霧が色男が来ると友人が嬉しそうと喜んでいたので暇ならまた是非」と肩を叩かれて、彼は甘えるような夕霧花魁と共に去っていった。
俺は客増やしかつ見た目要員で呼ばれたってこと。
「シエルさん。早くないか? ああ、帰らないと夫婦喧嘩だからか。もったいない」
「そういうことは何もしていません。遊霞さんの演奏を聴いただけです。ハインさん。朝帰りは激怒に繋がります。帰りますよ」
「演奏? またまた。そんな満足顔をして。俺は大丈夫です。シエルさんのところへ泊まると言うてあるので。こんな自分では入れない店で夕霧花魁が顔を出してくれる予定なのに帰るなんてあり得ないだろう」
ムカつくので軽く肩を殴った。そんな嘘をつかすな。そう口にしたらあることないことメルに言うぞと脅された。
「えっ、遊霞さんは無理なのですか⁈」
彼女の名前に耳が反応してしまった。
「彼女は遊女ではなくて直接雇用の芸妓でございます。花芸妓ではなくて芸妓です。芸以外売りません」
「直接雇用の芸妓さんですか……。花芸妓ですらない……」
遊霞を希望した男はとてつもなく残念そうな顔をしている。
「また彼女に会いたかったら今夜のように宴席に招いて下さい。芸は平気なのに人見知りです。男性が苦手なので慣れないと話さないです」
演奏を買うなら来てくれたのに盛るな。初見の俺とにこやかに喋ったぞ。ただし俺のメル話にだけ返事でかなり離れた距離だったけど。さすが商売人。
「男性が苦手? それなのにここで働いているのですか?」
「事業大失敗で没落した華族のお嬢様です。色春売りなんて嫌だと必死に抵抗中。抵抗中というか成しています。売られてからずっと芸妓で生娘です。伝説の香太夫と同じで花街では稼げばなんでもありです」
香太夫は将棋の腕で昇りつめて色春を売らなかったと言われる人物。
下の方の職業棋士と並ぶ腕前程だったらしくて間接的に職業棋士と戦える、みたいに大人気だったとか。
(店を出られるに家出人や借金返しの次はこれ。やはり謎。まあ、嘘だらけの街で何かを考察は無理だな)
「そのような遊女……。いや芸妓さんですか」
「ええ。正直なところ身請けしたいという方もいますけど家の借金を返したら自分で人生を選ぶと。生娘なら平家と文通から結婚など平凡だけど難しい夢を追えるなんて。そういう純な娘です」
「……」
遊霞目当てになった若い男はますます照れ顔に見える。
「身請けは拒否で借金がなくなればというかなくしてくれる者と、みたいな方なのでしょうか」
「心を閉ざしているので分かりません。気になるなら宴席を設けてそこに彼女もお呼び下さい。二人では会いません。顔を覚えて慣れれば喋るかと」
俺はさっき二人で会ったし初見なのに彼女はそこそこ喋ったぞ。従業員がいたから正確には三人だけど。
「そうなのですか……。まあ、それなら今度宴席を設けます」
男の顔に遊霞を抱けなくて落胆と顔に書いてある。
あの演奏だし言動もかなり浮いていたから気になるのも分かる。今度宴席を設けますって若いのに金持ちだな。
「ああ。あの文! 文を認めるので渡して欲しいです」
……これ、買いたいヤリたいではなくて恋系ではないか?
「芸以外売らないと客からはお金以外は受け取りません。業務外で文通お申し込みならもしかしたら」
金は受け取るのか。
「業務外? 客としてではなくて手紙を書いたら渡してくれるってことですか?」
この従業員はどう稼ごうとしているんだ?
遊霞を使う宴席代か。彼女だけで高いのに二人は無理と教えたから必要経費を多めに言うつもりだろう。
「いえ。店の者からでもお金以外受け取りません」
とにかく金は受け取るんだな。
「私は親しくなくて趣味や好みなどサッパリです。隣の遊女は彼女と親しいので良かったら何か聞いて帰られては? 文も彼女経由ならもしかしたら。お代はお連れ様にいただいていますし」
「えっ? ああ。はい。そうします」
遊霞の芸以外を買いたかったらこの店で宴席を設けて彼女も呼んで金を落として人見知りで男性が苦手な彼女と徐々に親しくなるしかない。
それでさらに他の遊女を売り込み。遊霞の気を引く情報を知りたかったら遊女からどうぞ。遊女を買え。
この遊女は新規客である彼を自分の馴染み客にしようとするだろう。
(見事に釣ったな。これはせっせと通いそう。遊霞さんから逸れても得。あの遊女の方が親しいですよとたらい回しも可能。遊楼は毒蜘蛛の巣だな)
華族のお嬢様には信憑性がある。お辞儀や歩き方に言葉遣いなどミレイを思い出したからそうだ。
国立女学校に通うような下流華族のお嬢様よりもう少し上の箱入りお嬢様感。
金持ちなら当然俺のように思うから没落華族のお嬢様で必死に身を守っていると信じそう。俺も信じ気味。
(手助けしたくなるし懐かなかったポチが懐いた時の喜びは大きかったからそんな感じで追うかも。人によっては。でもいつでも辞められる……)
あの急な笑顔や特別という台詞には胸がザワザワした。
(特別……。違う! 特別ご夫婦だ。妻話や惚気話に好意的だった。俺が口説く側になったら氷の眼差しな気がする。箱入りお嬢様でメルさん系だとそうなる! この店の客は全滅の勢いだ)
メルとミレイはそういう価値観が似ていて親しい。メルの親しい友人はそこまでではないけどやはり潔癖め。
(結婚前のお嬢様の前で色話なんてしないから氷の眼差しをされるとか嫌がられる可能性に気がつかないかもな。妻や娘がいるような年配者はともかく)
俺は帰らないと言うハインを仕方なく放置して店を出た。撫子が見送りに来たけど上の空。
ほろ酔いだし遊霞の「つのる、積もり……」という歌が耳の奥をくすぐるから早くメルに会いたい。
この日、乗った立ち乗り馬車の車輪が途中で壊れて仕方なくその近くの安宿に宿泊。
早朝の立ち乗り馬車で帰宅。メルは誤解して激怒するかと思ったのに笑顔で俺の話を素直に聞いてくれて「運が悪かったですね」だけだった。
(少しくらい拗ねるとか怒るとか……)
朝食時間に間に合ったので家族で食卓を囲うと義姉ニライに遠回しに嫌味を言われた。やましいことはないので淡々と説明。
立ち乗り馬車が壊れて家に帰れなくなった慰謝料とお詫びの手紙が来る予定なのでそれが証拠。多分証拠になる。
(ああ。それがあるからメルさんは信じて怒らないでくれたのか)
しかし胸のモヤモヤは晴れなかった。




