94の話~燃えるmeteorite~
ステラは詰所に戻り、真っ直ぐバスカーレの元へ向かう。
バスカーレは書類から顔を上げ、「戻ったか」と言った。
「なんですか、あの人は。勝手なことばかり。まさか団長、アンジェラを奥様に渡したりなさらないですよね」
ステラの剣幕に怯え、他の騎士達が逃げるように退室していく。
「お前さんにも世話をかけたな。今日はもう帰っていい」
バスカーレは質問に答えることなく、椅子から立ち上がった。
「団長!」
机を両手で激しく叩き、ステラが怒った顔でバスカーレの顔を覗きこんだ。
「俺も、どうしていいかわからないんだ。巻き込んでしまって、すまなかった。アンジェラとも話し合うから、だからお前はもう気にするな」
ふいにステラから視線を外し、バスカーレは弱々しい声になる。
「それはあなたが、アンジェラと離れてもかまわないということでしょうか」
「そんなことは言っていない。ただ、マグダの言うことにも一理ある。…お前にも、長らくアンジェラの世話をしてもらって、本当に感謝している」
真剣に自分を見つめるバスカーレの力強い瞳に、ステラは言葉を失った。
それはやはり、アンジェラと離れるということを意味しているのだろうか。
思えば、自分は意見する立場になど、ない。
ステラは両手を握り締めると息を整え、静かに言った。
「差し出がましいことを申し上げました。少し、驚いてしまったので」
「そうか。俺はお前に怒られ慣れてるからな、いつもどおりだ」
バスカーレは優しい笑みを浮かべ、もう一度「帰って寝ろ」と言ってステラの肩を叩いた。
***
バスカーレに言われたとおり、素直に帰宅して寝るステラではなかった。
いつもの食堂で一人、無言で酒を飲んでいる。
何杯目の酒だったか数えるのをやめたころ、自分に声をかける者がいた。
「今日はお一人ですの、珍しいですね。アンジェラはもう帰ったのですか」
ランベルトとメイフェアをちらりと見上げ、ステラは「ああ」と無愛想に言った。
「たまには、子守をお休みするのも必要ですわ。いつも子連れでは、一向に出会いが生まれないではありませんか。もったいないです、すごくもったいない」
メイフェアはステラの隣に座り、「麦酒ください、大きいの三つ」と言った。
「いったいどこの誰が、私などに興味を持つというのだ。馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるように言うステラの様子が、いつもと違う、とメイフェアは気付いた。
「とにかく、飲みましょう。それが一番です」
何も知らない妻の無神経な発言に、ランベルトは冷や冷やしていた。
今日、バスカーレの元妻が、詰所を訪ねて来たのは知っていた。
おそらくその件でご機嫌斜めなのだろう、とランベルトは思い、黙って椅子に座っていた。
女心ってやつね、とランベルトは心の中で呟き、運ばれてきた麦酒に口をつけた。
「そうですねえ、実際、ステラ様ほどのお方になると、そうそう釣り合うような男性もいらっしゃらないですし。今でも充分、貫禄がお有りだから」
ちょっとやめてよ、とランベルトは焦りながらメイフェアの膝をつつく。
ランベルトが学生の頃、数少ない女生徒達によって「ステラ様を見守る会」なるものがアカデミアに存在していた。
その辺の男の子より、ずっとずっと素敵、と目を輝かせる女生徒達を横目に「君らも不甲斐無いですね」とクライシュが言っていた。
それでも、美しいステラに思いを寄せる男子生徒もいた。
「私に勝ったら、考えてもいい」
とステラは言い放ち、そしてその男子生徒を容赦なしに叩き潰した。
それ以来彼女は、男性からアプローチされることが皆無になった。
「あ、でも、そう考えると、やっぱりバスカーレ様が一番なのかも。一緒にいると、仲睦まじい親子のようですし」
それまで黙りこくっていた、ステラの手が止まり、麦酒を持つ手がぶるぶると震えはじめた。
酔った目でメイフェアを見つめ、ステラが「親子…?」と呟いた。
もうやめて、とランベルトがメイフェアに懇願する。
後で殴られるのは俺だ、とランベルトは怯えた表情でステラを見た。
「ええ、可愛い女の子と、頼りがいのある旦那様と、…って、ちょっと、痛いわよ」
ランベルトを軽く睨み付け、メイフェアが麦酒の入った器をテーブルに置く。
「お、俺、先に帰っていいかな。用事を思い出した」
「家で何の用事があるのよ」
無理やり特大の麦酒を飲み干し、ランベルトは急いで立ち上がる。
「ヴィンス様に用があるんだよ、うん。二人は飲んでて」
ちょっと、と口を尖らせるメイフェアを置いて、ランベルトが脱兎のごとく逃げ出した。
「妻を一人置いて帰るなんて、薄情な奴だな」
ため息をつき、ステラが皿の上の果物をつまんだ。
「…私は父がいないから、きっと、団長に父を見ているのだと思う。あの方は、お優しいし。もちろん、アンジェラも好きだ。あの子は可愛い」
ぼそぼそと呟くステラを、この人も可愛い、とメイフェアはにやにやしながら眺めている。
「そうですか。やっぱり、ステラ様にはバスカーレ様のような年上の方がお似合いですよね」
「…何故そこに結びつけるのだ。やめてくれないか」
「だって私、ずっとそう思ってましたもの。三人でいるのが、すごく自然で」
ステラは再び無言になり、突然テーブルに突っ伏した。
何、とメイフェアは驚きながら「大丈夫ですか、そういえば、かなりお飲みになっているようですし」と言う。
「ずっと、一緒にいるのが当たり前だと思っていたんだ。でも、もうそうじゃないのかもしれない。私など、必要ないのかもしれない」
何のお話かしら、とメイフェアは眉根を曇らせた。
ステラの艶やかな黒髪を、優しくメイフェアは撫で続ける。
「そんなことありませんよ。何があったかは知りませんが、皆、ステラ様を必要としています。一緒にいて、楽しいと思っていますから」
そうかな、とステラは声にならない声を出し、ゆっくりと身を起こす。
「元気出してくださいよ。…そんなお顔されるのも、また新鮮ですけどねえ」
あたまいたい、とステラはうめき、深く寝具に潜り込んだ。
昨日は少々喋りすぎた、と後悔する。
ヴィンチェンツォと違い、ステラはどれだけ飲んでも、記憶を失うことはなかった。
飲みすぎて眠りが浅かったのか、いつもどおりの時間に目を覚ます。
外はまだ、暗かった。
今日もまた、あの女性と顔を合わせるのだろうか、と思うと、ステラの気は重かった。
行きたくない、と初めてステラは呟き、自分の体に、柔らかい毛布を引き寄せた。
***
「団長にお話があります。聞いていただけませんか。ずっと考えていたのです」
「なんだ。…アンジェラのことか」
はい、とステラはうなずき、血走った目でバスカーレを睨んでいた。
「言いたくないが、お前には関わりのないことだ。お前が、アンジェラを可愛がってくれているのはわかっている。その気持ちだけで充分だ」
そうではありません、とステラはバスカーレを遮った。
「私では、アンジェラの母親になれぬのでしょうか。本当の母ではありませんが、あの子を大切に思う気持ちは、団長にも、奥様にも、負けません」
「…お前、何を言ってるんだ」
困惑した表情で、バスカーレはステラを見下ろした。
「ですから、私と結婚してくれと申し上げてます!」
息を切らし、ステラが肩で息をしている。
バスカーレは固まったまま、その手から書類の束を取り落とした。
ステラはぜいぜいと息を吐きながら、しゃがみこんで散らばった紙をかき集めた。
どうぞ、と硬直するバスカーレに手渡し、ステラは獣のような瞳でバスカーレを捕らえた。
「お返事をお聞かせくださるか」
「…俺の為なら、やめてくれ。それに、俺は、優秀な部下がいなくなっては、困る」
「今までどおりでよいではないですか。ただ、私が妻になるというだけです。アンジェラと一緒に、三人がいいのです」
バスカーレは天井を見上げたまま、静かに言った。
「今言ったとおりだ。お前は若い。俺のような甲斐性無しの男に、同情してはいけない。この先、いくらでも良縁があろうに。アンジェラのことは、本当に感謝している。男には気付かない、細かい配慮をしてくれて、感謝してもし足りないくらいだ。だがな、やはり母親と一緒にいる時間も必要なのかもしれない、と俺は思っているんだ。今まであの子を、独り占めしてきたんだ、少しぐらい、マグダに母親をやらせてやってもいいという気がしている。二度と会えぬわけではないし、マグダと和解した方が、アンジェラの為にもなる」
ステラは、自分を見ようともしないバスカーレの態度に、心が切り裂かれる思いだった。
「…私のことは、どう思っておいでか」
残りの気力を振り絞り、か細い声でステラが問いかける。
「大事な部下だ。俺は、お前がいなければ、生きていけない」
ステラの瞳から、一粒の涙が零れ落ち、床に染み込んでいった。
細い肩を震わせ、ステラが耐えかねたように、無言で走り去る。
扉の外で、例のごとく盗み聞きをしていた面々が、ステラの泣き顔にぎょっとし、いっせいに後ずさった。
去ってゆくステラの後姿を、エミーリオが泣き出しそうな顔で見つめていた。
「私が余計なこと言ったせいかしら、焚き付けたのは私なの?ねえ、どうしよう」
ランベルトをがくがくと揺さぶり、メイフェアが半狂乱になってわめき散らした。
騎士団の崩壊だ、とロメオは頭を抱えて座り込んだ。
「えーと、どうなんだろう…いや、君のせいじゃないよ。たぶん。ステラが決めたことだし」
ランベルトは説得力皆無の声でそう言うと、窓辺に立ち尽くすバスカーレの落ち込んだ姿に、自分も肩を落とす。
音を立てないように扉を閉め、ランベルトはメイフェア達をうながして外へ向かった。
でも、言っていることが滅茶苦茶なんだよな、とランベルトは冷静に分析する。
団長の最後の言葉なんて、どう聞いても告白にしか聞こえないんだけど。
***
もう駄目だ。自分は今日にでも、辞表を書こう。
ステラは放心状態で、とぼとぼと馬の上で揺られていた。
ステラは鼻をすすり上げ、時折こちらをちらりと見る通行人に、殺気立った視線を投げつける。
最初は、自分がどこに向かっているのかわからなかったが、身についた習性なのか、王宮の方へ自然と足を向けていることに気がついた。
嫌だ、こんな顔、誰にも見られたくない。
ステラは再び溢れ出る涙を拭い、馬を止める。
自分は何の為に、騎士であるのか。果たして、今ここで自分が離脱して、どうなるというのだろう。
自問自答するステラの頭には、ヴィンチェンツォやロッカ、エドアルドやエミーリオ達の顔が次々と浮かび上がってくる。
皆大変な時期なのに、和を乱すような真似をして、自分はなんと愚かな人間なのか、とステラは絶望感に襲われた。
この落とし前は、自分自身で、つけねばならぬ。
ふいに、ビアンカの笑顔が浮かび、ステラは「そうであったな」と独り言を言った。
まだ私に、やれることがある、とステラは軽く深呼吸をすると、勢いよく馬を走らせた。




