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漂う白花  作者: 渡部ひのり
第四部
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89の話~獅子王の城~

「今日はまだ、ロッカの姿を見かけないな」

 エミーリオに淹れてもらったお茶を飲みながら、ヴィンチェンツォは窓枠に腰掛けていた。

「今日はたしか、ビアンカ様をお連れになって、モニカ様のおうちへ出かけているはずでは」

 お忘れになるなど、珍しいこともあるものだな、と思いながらエミーリオは「おかわりどうですか」と声をかける。

 そうだった、忘れていた、と若干困惑した表情になるヴィンチェンツォも珍しかった。

疲れているのかな、とエミーリオは多忙な宰相を思いやり、

「お急ぎの御用ですか。僕でよければ、お手伝いします」

と言った。

「いや、ロッカが戻るのを待つ。少し込み入った話だから。お前は午後から学校へ行きなさい」

 エミーリオは、以前より少し大人びた微笑を返した。



 エミーリオはこのところ、騎士団詰所にいることが多かったが、空いた時間をみて久しぶりにヴィンチェンツォの執務室を訪れていた。

 わずかな時間で手早くお茶を淹れ、休憩を勧める。

 昨晩帰らなかったヴィンチェンツォを気遣ってである。

 このところ、来客の多さに辟易したのか、仕事を口実にヴィンチェンツォの帰宅時間が遅かったり、次の日まで執務室に篭っていることも多い。

 一家の大黒柱の不在も関係なく、酒樽の中身は順調に消費されている。

 代わりにロメオが意外なことに、ヴィンチェンツォの言いつけを守り、真面目に毎日帰宅していた。


「あれだけこきつかわれたら、もう夜は何もする気になれない。案外、ここの家も居心地いいし」

 きれい好きなロメオとの同居は、エミーリオにとっても居心地のよいものだった。

 細やかな性格のせいか、新しい詰所内もロメオの手により、ステラに匹敵するような正確さで整理されていくのを、エミーリオも実際に目撃していた。

「僕はあいつと違って、召使いに囲まれた生活をしてたわけじゃないからね、自分でなんでもやるんだよ。だらしないのは嫌いなんだ」

 ある朝、居間に投げ捨てられている誰かのシャツを拾い上げ、ロメオはため息をついていた。


「エミーリオも、騎士なんかやめて司法局にしなよ。官舎は快適だし、給金もいいし。また試験があるけど、エミーリオなら問題ないだろ。何より、官舎付きのお婆ちゃんがお世話してくれるから、今みたいに家事なんかやらなくてもいいんだよ。真夜中になったら門が閉まっちゃうけど、抜け穴なら僕が知ってるから」

「ものすごく競争率が高いと聞きますけど」

「大丈夫だよ。駄目ならヴィンスがなんとかしてくれるだろ。実際僕も、親の口聞きで入ったようなもんだから、自分の点数知らないし。一応、勉強はしたよ。でも言われてるほど、難しいわけじゃない。司法の授業をたくさん取っておけば問題ないよ」


 エミーリオは苦笑いをしていた。

「そうですね、ゆっくり考えます。今はこういう時なので、時勢に沿った選択をしたいと思うのですが、ヴィンス様のお役目が終わったら、僕も、そんな身の振り方もあるかもしれません」

 クライシュは、卒業したら自分の助手になれと言う。一方ステラは、エミーリオがこのまま騎士団に所属すると思い込んでいるようだし、時たま様子伺いで手紙をよこすピア・イオランダに至っては、執事修行をそろそろ始めたらどうかと言ってくる。どこも人手不足なのかな、とエミーリオは思った。


「それより、使用人を雇う話はどうなってるの。誰でもいいから、一人いた方がよくないかなあ。洗濯物だって、いちいち洗濯屋さんに持って行くのも、取りに行くのも面倒なんだけど。少し多めに渡して、配達してもらった方がよくない?」

 この家に転がり込んでから一週間後に、「もう無理」と三人分の洗濯物を自ら洗濯屋に持ち込んだのはロメオだった。


「やってくださるという方が何人かいらっしゃるんですが、ヴィンス様に聞いてみないといけませんね」

「身元は大丈夫なのかな。へたにどこかの間者だったりすると、僕らも危ないからね」

「ええ、たぶん大丈夫です。馴染みのパン屋のおばあ様が、隠居して暇だとおっしゃっていて…。他にも、女の子のいる家の方々が声をかけてくださって。ビアンカ様がいなくなったのは、町中の皆さんが知っていますから。皆さんいろいろ心配してくださっています」


 恋人なのか使用人なのか関係性は不明だが、妙齢の美しい女性が、かいがいしく宰相様の世話をしている、という話はあっという間に商店街を駆け巡ったようだった。

 最近ビアンカちゃんの姿を見かけないけどどうしたんだい、と顔見知りの店主達に聞かれ、エミーリオはその度に「ちょっと里帰り中です、ちょっとだけ」と言いにくそうに返していた。

 そうか、あいつわがままだからなあ、耐えかねて逃げだしたんじゃないだろうなあ、と宰相閣下に対して、判を押したような返答をする人々だった。


 皆さん、よく見てらっしゃいますよね、と苦笑するエミーリオの言葉に、ロメオは遠い目で虚空を見た。

「あいつは子どもの頃から、王都で悪さばっかりしてたからなあ。そういえば昔、エドアルドと一緒に、肉屋の犬に落書きして怒られてたよ。アカデミアに入ってからは、だいぶ落ち着いたけどね」

 いたずら盛りの息子の為に、腰の低い公爵が更にその腰を低くし、申し訳ないと人々に謝ってまわっていたのも、つい一昔前の出来事である。


「そう思うと、今の落ち着きっぷりが信じられないのですけど」

「そりゃあ、今でもあのまんまだったらまずいだろう。そんなのが宰相だったら、国が滅ぶよ」

 その数々のいたずらの半分も、友人の少ないこの国でただ一人の王太子の為だったのかもしれない、とロメオは思う。

 ふいに疑問が沸き、エミーリオは聞いてみる。

「ロメオ様は、いつからヴィンス様とお知り合いだったのですか。そのご様子では、小さい時からのようですけど」


「知り合いっていうか、初めて見たのはその犬の時だよ。そういえばロッカも居たな。犬に筆で変な眉毛とかたてがみとか描いちゃって、最後は『これくらい恐くないと番犬にならないじゃないか』って逆切れしてたけど。恐ろしく馬鹿な貴族の子がいるもんだと思った」

 母親と買い物に出かけ、たいした時間も経たずに女性の買い物に退屈したロメオが、通りを観察している時に、その一部始終を目撃していた。

 あっけにとられて自分を凝視している、天使のような美少年の視線に気付き、黒髪の身なりの良い子どもが、ものすごい目つきで睨み返してきたことも、いまだに鮮明に覚えている。


「人って、成長するんですね」

 感慨深げにうなずいているエミーリオだった。

「当たり前だろ。そうじゃなかったら、この国終わってる」

 彼が自分の置かれた立場を認識したのは、いつだったのだろう。

 単なる遊び友達ではなく、その友人を支える人間に自分がならねばならないと自覚してから、ヴィンチェンツォが少しずつ大人になっていったのも、自然な流れだったのかもしれない。

「まあ、今でも発展途中だよ。最近、また少し大人になってるといいけどね」



 そんな会話を思い出し、エミーリオは吹き出しそうになるのをこらえていた。

「僕、もう行きますね。前の詰所に、取りに行くものがあるんです」

 ご苦労だった、とエミーリオの頭をぽんぽんと撫で、ヴィンチェンツォもゆっくりと、凝り固まった腕を回す。

「今日は早めに帰れるといいな。ロッカ次第だが」

 了解しました、とエミーリオは笑顔で答え、執務室を後にした。



***



 ロッカの後ろに佇む、若い女性二人をちらりと眺めると、ファビオ・デオダードは面白くなさそうな顔で言った。

「今度はなんだ。いもしない巫女をでっち上げて、陛下もどうかしておる。人々の反発をくらうのも目に見えていようが」

 おじいちゃん、とモニカがたしなめるように声をかける。


「お初にお目にかかります。おじい様が私を認めようとなさらないのも、むろん理解しております。ですが、個人的に、お聞きしたいことがございます。私にとっては、重要なことです」

 ビアンカはファビオの容赦ない物言いにも臆せず、控えめではあるがきっぱりとした声で言った。


「中央庭園を造った本当の目的を教えていただけますか。これはむしろ確認です。北の庭園を封じる為のものだったのでしょう」

「それは以前、こやつらに話したと思うが」

「そうではありません。マエストロは、お気づきになったのでしょう。北の庭園を抜ける隠し通路を、本当の意味で封鎖する必要があると。その為に、新たに王宮を守護する庭園をお造りになられた。…違いますか。なぜならあのままでは、オルドの巫女の願いどおり、呪われた城になってしまうと、あなたは恐れていた」

 何故、としわがれた声で呟くのを、ビアンカ達は黙って聞いていた。


「城を守る、その手が削がれてはならないのです。あの庭園は、王宮の手なのです。他の皆様がお気づきにならなくとも、古い王宮の設計図を見れば、私にはわかります」

 ビアンカの後ろにいた瑠璃が、静かに言った。

 不思議そうな顔をするファビオに、ロッカが「異国の方ですが、彼女も巫女です」と言った。


「所詮おとぎ話だ。実際、魔道を操るような人間など、自分は誰一人見たことも聞いたこともない」

「私もです。私達も、魔法使いなどではありませんし。ですが、あなたはその見えない何かを恐れて、王宮を守ろうとなさったのでしょう」

 瑠璃は黒目がちな瞳を老人に向け、その答えを待っていた。


「だから言ったのだ。あれに触れてはならないと。それをお前達が、勝手に蓋を開けた。呪いとやらが有効になったせいで、再び王宮に悪意が満ち始めてきたと主張したいのか」

「蓋を先に開けたのは伯爵達です、自分達ではありません」

 いまいましげに呟くファビオに、ロッカが不服そうに異を唱えた。


「私も、目に見えない不確かなものを信じる気持ちにはなれませんが、あれは、オルド教に伝わる秘儀のようなものです。そもそもプレイシア正教会以前は、ここも原始オルド教の信者の土地でございましょう。その名残を使って、巫女様が王宮を、王を破壊したのです。巫女様の本には、それが残されていました。絵ではなく、記号と文字で。それらを王宮の地図に当てはめると、納得がいきます」

 ビアンカは静かに言うと、ファビオの膝の猫を眺めていた。


 誰とも目を合わせず、ファビオは独り言のように言った。

「不幸な出会い方だった。王も当時は、今語り継がれているほどの悪人でもなかった。巫女様をそれは慈しんでおられたし、巫女様も一時は王に心を許されたかのようで、それなりにうまくいくのではないかと私達も思っていたよ。でも巫女様は、結局最後までご自分の境遇を受け入れようとなさらなかった。誇り高い方だったからな。巫女であること以外、人生の選択肢がなかったからだろう。病的なまでに、自分も一人の人間であると認識するのを拒絶されていた。自ら、自分の殻に閉じこもっておしまいになったのは、むしろ巫女様の方だ」


「おそらく、私が生まれる前もそうだったのだと思います。母も、過去の自分の価値観と戦い続けていました。何がそれほどまで心を縛り付けるのか、私にも全て理解することはできませんが。でも私をできる限り、普通の子どもとして育ててくれました」

 そうか、とほんの少し強張った表情を緩め、ファビオはビアンカの真っ直ぐな瞳を見つめ返した。

 ふいに咳き込むファビオに駆け寄り、モニカが水の入ったグラスを差し出した。

 ロッカがビアンカに目で合図を送る。


「お邪魔して申し訳ありませんでした。迷惑なのは重々承知しておりますが、またこちらを訪ねてもよろしいでしょうか」

「構わないよ。今度来たら、歌を聞かせてくれ。巫女なんだから、当然だろう」

 ファビオの挑発的な顔に、ビアンカは柔らかく微笑み返した。

「もちろんです、いくらでも、お望みのままに」





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