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漂う白花  作者: 渡部ひのり
第四部
91/136

88の話~とある男の受難~

「ごらんになります?私の力作ですよ」

 帰宅したばかりのヴィンチェンツォを、ビアンカが満面の笑顔で迎える。

 原型をとどめないほどに破壊された長椅子が、魔法のように美しい姿を取り戻していた。新たに張られた濃い緑のビロードが、部屋全体を落ち着いた雰囲気へと塗り替えていた。


「大変だったろう。何というか、申し訳ない。あなたがそこまでする必要もないのだが」

「お気に召しませんか」

「いや、むしろ前よりずっといい。ありがとう、こちらの方が、落ち着くな」

 そう言いかけながら、ビアンカの小さな顔に手を当て、ゆっくりと顔を寄せるヴィンチェンツォだった。

 二人の姿に固まっているエミーリオと、自分のすぐそばで唸り声を上げる子猫に気付き、ヴィンチェンツォはわざとらしく咳払いをすると、食事にしようか、と言い訳のようにもごもごと呟いた。


 今は、自分とエミーリオしかいない家で、長椅子を見るたびに、ヴィンチェンツォはその日の事を思い出す。

 一人で座る椅子は、広すぎるような気がする。

 帰宅するやいなや、その長椅子に体を投げ出して寝転ぶヴィンチェンツォは、今日もまだ、過去の思いに囚われている。


 一人静かに、酒でも飲みたい気分だった。

 そう思いながら、はたして何日過ぎ去っていっただろう。

 食卓には、メイフェアが持ち帰った後宮の食事が、所狭しと並べられている。

 ランベルトがチーズを切り分ける手を止め、「お帰りなさい」とにこやかに微笑む。

「ちょっと、この樽、一番奥に置いてって言ったじゃない!早くしてよ!」

 台所からメイフェアが顔を覗かせ、ランベルトを怒鳴りつける。

「ごめんなさいねぇ~私の力ではちょっと動かせそうにないのよ」

 アルマンドがランベルトに片目をつぶり、料理を運んできた。

 ごめん、忘れてた、と申し訳なさそうに言うランベルトを、ヴィンチェンツォはぼんやりと眺めていた。



***



 無駄に気を遣われている、とヴィンチェンツォは感じながら、無言で酒を飲んでいた。

 本当は一人になりたいのに、奴等がそうさせてくれない。

 いつまでこの騒々しい状態が続くのだろうか、とヴィンチェンツォは心の中でため息をつく。

「今日の酢漬けも絶品ですよ。料理長の力作です、スロに居た頃は、正直魚なんてなんとも思わなかったですけど、食べられなくなると、途端に食べたくなるのって、不思議ですよねえ」

 メイフェアは、白身魚の酢漬けをヴィンチェンツォに勧めながら、自分も口に運んでいた。

「いいわね~、毎日こんなお料理が食べられて。あたしも女官になりたいわ。本気で、口聞いてくださらない?最近、買い付けだの卸しだので旅行するのも、正直体がきついのよね」

 メイフェアに向かってうっとりと微笑むアルマンドを見て、それもありなんじゃないか、とヴィンチェンツォは力なく相づちを打つ。


 先ほどちらりと台所を覗いたが、見慣れない樽が幾つか、いつの間にか台所の片隅を占領していた。

「お代は後ほど、酒屋が取りに来ると思うから、エミーリオ、よろしくね」

「知り合いに安くしてもらったのよ。気にせずどんどん飲んでちょうだいね」

 口々にメイフェアとアルマンドが満面の笑みで言うが、その酒のほとんどが奴等の腹に収まるのは、何かが違うような気がしないか、とヴィンチェンツォは思った。


 いくら広いとはいえ、連日のように誰かしらやってきては遅くまで酒を飲んでいる。三日ほど前には、クライシュがルゥを連れて遊びにきた。

「ロッカが、君に説明しろとうるさいので参上しましたよ。お久しぶりです。少しやつれたようですが」

 上機嫌で数種類の酒を飲み散らかし、明け方にクライシュはようやく帰宅した。


 そしてとうとう今夜は、げっそりと頬のこけたロメオがひさかたぶりに姿をあらわす。

 ロメオは開口一番、ヴィンチェンツォに向かって罵声を浴びせる。

「酷いじゃないか!いつの間に僕は無職になってるの。官舎だって新しい職員が入ってるし、荷物は勝手に実家に送りつけられてるし、離職届だっていつ誰が出したんだよ!」

「無事帰ったか。よかったなあ」

「よくないよ!」


 ロメオは苛立ったように椅子を引き、ヴィンチェンツォの隣に座り込む。

「書類偽造で訴えてやる!僕は署名した覚えなんかないし」

「そうは言うけどな、俺だって司法局と板ばさみになってだな、随分悩んだんだ。あそこは辞めた方があっちにも迷惑かからないし、今後もいろいろ動きやすいと思って」

「動きやすいってお前の為だろ!いい加減にしろよ。僕はあの仕事が気に入ってたんだ。飛び道具みたいな仕事なんて御免だよ」


 涼しい顔をして、ヴィンチェンツォはいけしゃあしゃあと言う。

「じゃあ騎士団にでも引き取ってもらえ。あっちは人手不足だからな、ステラが補佐官を欲しがっていたし。お前、事務仕事がいいならそれでいいじゃないか」

「それこそ御免だよ!騎士団なんて絶対にいやだ。肉体労働が基本だし、宿直あるし、定時で帰れない」

 文句ばかりだな、とヴィンチェンツォがゴブレット片手に呟いた。


「最近は人数が増えて、可愛い女の子の見習いもいるんだけど。司法局より女子度は高いぞ」

 ランベルトの援護射撃に、わずかにロメオの心が動く。

「そうね、それに新築の詰所はとっても綺麗で、快適だと思いますけど」

 メイフェアがパンをかじりながら付け加えた。

「いや…僕は年下というか子どもは興味ないんだけど。どうせ、エミーリオの同級生とかだろ」

 あら残念ね、とアルマンドが言う。


「ステラ様に憧れて志願してくる子が多いんです。でも、皆優秀ですよ」

 エミーリオが、唯一この中で毒の無い笑顔をロメオに向けた。

 四方八方を敵に囲まれ身動きが取れず、うう、と唸っていたロメオは、ふいにビアンカの姿が見えないことに気付いた。

「そういえばビアンカはどこ?あの子くらいだよ、僕の苦労をわかってくれるのは」


 途端に一同は静まり返り、ちらりとヴィンチェンツォに視線を送る。

 ヴィンチェンツォはゆっくりと酒を口に運びながら、静かに言った。

「事情があって、今も王宮にいる」

 もしかして家出?と尋ねるロメオに、メイフェアは苦笑いをした。

「愛想尽かされたんじゃないの。お前も無茶苦茶だからなあ」

 無言になるヴィンチェンツォに、ロメオはここぞとばかりに意地の悪い顔をしたが、言い返してこないのを不思議に思った。


 本当に、と驚いているロメオの裾を引っ張り、アルマンドが「そっとしておいておあげなさいよ。だからこうやって毎日ヴィンチェンツォ様をお慰めする宴会を開いているんじゃない」と、余計なことを言う。

 いや、いいから一人になりたいんだけど、とヴィンチェンツォはもう一度心の中で強く叫ぶ。

 ふーん、とロメオは呟き、まあいいや、と麦酒を一息に飲んだ。

 食卓に両腕をつき、ロメオは真面目な顔でちらりとヴィンチェンツォを見た。


「騎士団の件だけど、給金次第だよ。今までより少なかったら、やらない」

 ヴィンチェンツォはすぐさま、ロメオにこっそりと耳打ちする。

「え、ステラ、そんなに貰ってるの。…そこまでじゃなくてもいいけど、それくらいは保障してくれるってこと?」


 そんな二人を見て、ランベルトが焦りを含んだ顔をした。

「俺、もうちょっと上がらないのかな。減俸期間は終わったのに、あんまり上がってない気がするんだけど。家族だって増えたんだけど。下手したらメイフェアより少なかったりして」

 頑張ってね、とメイフェアがにっこりと微笑んだ。


「じゃあいいよ、やるよ。その代わり、当分ここにお世話になるけど。ビアンカの部屋が空いてるんだろ、僕そこがいい」

 ヴィンチェンツォが険しい顔をして、ロメオを睨み付ける。

「実家に帰ればいいだろう。それにあの部屋は駄目だ。他の部屋を使え。なんなら屋根裏でもいいぞ」

「うちの両親がうるさいんだよ。いいじゃない、一人くらい増えても。女の子の部屋はいいよね、綺麗だし」

 眠たげな顔をして、ロメオが立ち上がる。


「いいか、ここに居座る気ならそれもかまわんが、女を連れ込んだりしようものなら即効で叩き出すからな。それと花街も出入り禁止だ。俺達に妙な病気を移すな」

 ロメオの背中に向かって、ヴィンチェンツォが苦々しい声を出す。

「何それ。それはちょっと…酷くない?」

 酷くない、ときっぱりとヴィンチェンツォは言い捨てる。

 まあいいや、とロメオは軽くあくびをすると、ヴィンチェンツォの言葉を無視して、ビアンカの部屋を覗きに行った。 



***



 明くる日、王宮騎士団の詰所を訪ねたロメオは、ステラから二つ返事で了承をもらい、自分の新たな職場を見つけることに成功した。

「ちょうど良かった。未だに、事後処理に手間取っていたところなんだ。文官出身とは、正直ありがたい」

 ステラに新しい詰所内を案内され、奥の資料室へと足を踏み入れる。

 部屋の中で、山積みにされた資料を眺め、ロメオはぽかんとしていた。


「コルレアーニ邸やらいろんなところから押収した資料が、まだまだ整理しきれてないんだ。きちんと棚に収まるように取り計らってくれ。お前、そういうの得意だろう。それが終わったら、経理の方も頼む。これだけ人数が増えてしまっては、給料計算も一人ではとても無理なんだ」

 後は頼んだ、とロメオの肩を叩き、ステラは足取り軽く立ち去って行く。

 全然得意じゃないよ、と叫ぶロメオの声を聞きながら、ステラは一目散に逃げ出した。


 だいたい、僕が必死で逃げてきたのに、誰もねぎらってくれない。

 どんな冒険だったかくらい、聞いてくれてもいいのに。

 ロメオは憮然とした様子で、手近にあった木箱に腰を下ろし、窓の外を眺めていた。

 ステラの仕打ちに心を痛め、アデルだってもう少し優しいよ、とため息をつく。

 ややあってから、いや、似たようなものかもしれない、とロメオは思いなおすと、一層暗い気持ちになっていくのを感じていた。





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