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漂う白花  作者: 渡部ひのり
第三部
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73の話~舞姫~

「なんだ、行く気満々なんだな。そこそこ、お手伝いしてあげてもいいけどね」

 安心したようにマフェイは言うと、胸のあたりで小さく手を振った。

 うちの妻の様子がなにやらおかしいのですが、とランベルトは隣でメイフェアが、自分には見せないようなうっとりとした笑みを浮かべているのが気になった。


 皆が自分に注目している事に気付き、ヴィンチェンツォはゆっくりと立ち上がる。

「その話は後ほど。申し訳ないがまた会議室に来てくれ」

 ロッカが女性達に頭を下げ、ヴィンチェンツォの後に続く。

 大げさに一つため息をつくと、ロメオが「じゃあまたね」とアンジェラの頭を撫でた。


「宰相様が自分で行くって、別にいいけど、あの人頭がいいのか悪いのかわからないわ。何かあったらどうするつもりかしら」

 いつものメイフェアに戻り、彼らの背中を見送りながら呟いた。

「ヴィンス様らしいというか。単に負けず嫌いなだけかもしれないけど」

 言い終えると、ランベルトは慌ててヴィンチェンツォを追って行った。


「でもまあ、いつまでもビアンカにべったりってわけでもないのね。ちょっと安心したわ。気持ち悪いくらい過保護だし、あなたも羽根を伸ばせて丁度よいんじゃない?」

 メイフェアは苦笑いをしているビアンカを振り返った。

 宰相様は何をなさる気なのだろう、と振り返らずに去っていくヴィンチェンツォの背中を、ビアンカは姿が見えなくなるまで見つめていた。



***



「ほぼ一日中外遊びでは、疲れただろう。気のせいか、少し日に焼けているようにも見えるし」

 そんなに、と驚くビアンカに、ヴィンチェンツォは破顔して「健康的で結構」と言った。

 ビアンカは、一応年頃の女性らしく、自分の肌を気遣いながら何度も腕を裏返していた。


「そういえば先程のお話ですけど、本当にコーラーまでおいでになるのですか」

「そうなるかな。準備が出来次第、出立することになる」

 黙りこんでしまったビアンカを、意外そうに見つめるヴィンチェンツォだった。

「心配してくれているのかな?俺も、不安が無いと言えば嘘になる。でも、どうにかなるんじゃないか」

 そうですか、とビアンカは呟き、擦り寄ってきた猫を抱き上げた。


 自分が昔から知る、やり手の宰相閣下の顔になっている、とビアンカは思った。

 自宅で、ヴィンチェンツォがこのような顔をするのは珍しかった。ビアンカを安心させる為なのかどうかはわからなかったが、朝は寝起きでぼんやりしているか、帰って来ると、子どものような屈託のない笑みを見せるだけだった。

 それだけ、今回は身の入りようも違うのだろう。

 彼はこの国の、頂点に立つ人なのだから。

 

「他に、どなたが行かれますの」

「ロッカは置いていかないと、陛下が大変な事になるから、代わりにランベルトあたりかな。アルマンドが案内役だ。ロメオが、父と揉めていたけど、おまけでついて来る可能性はある」

 旅慣れているロメオが一緒なのは、何かと便利そうだった。

 ただし本人が「特別手当は」とむっつりした顔で首を縦に振らず、最後はマフェイが面白そうに何か耳打ちしていた。


 旅の目的を敢えて聞かず、ビアンカは「皆さんがご無事でお帰りになるのをお待ちしてますね」と言った。

 家では普段、ヴィンチェンツォが仕事の話をしたがらず、聞いたところで自分は何も出来そうになく、ただ気を揉むだけなのはわかっていた。

 子猫の背中を撫でているビアンカに、ヴィンチェンツォはかすかな木漏れ日を思わせるような微笑を浮かべた。

「お疲れかもしれないが、ちょっと出ようか。面白いものが見れるかもしれない。今日で最後だそうだ」


 身軽そうな服に着替え、二人は王都の繁華街を抜けてゆく。

 今日も人が多いですね、とビアンカは言い、ヴィンチェンツォが慣れた手つきで「ほら」と片手を差し出し、ビアンカと手を繋いだ。

 中央の広場は夕暮れの中、多くの人でごった返していた。ヴィンチェンツォは入り口で係の者と何か話している。

 しばらくして、ヴィンチェンツォは更に人ごみを掻き分けて前に進んでいく。

 野外に設置された舞台のすぐそばまで行き、空いている席に腰を降ろす。

 立ち見でもよかったのに、と遠慮するビアンカに「ご招待されているから、問題ない」とヴィンチェンツォは言った。

 ヴィンチェンツォのすぐ隣に腕組みして座っているロメオに気付き、ビアンカは軽く驚く。

 

「そんな恐い顔をしていては、また逃げられてしまうんじゃないのか。いきなり舞台から逃げ出したら面白いだろうなあ」

「何があるんです」

 不愉快さを漂わせて黙り込むロメオに代わり、ヴィンチェンツォがおかしそうにビアンカの耳元でささやいた。

 驚き続けるビアンカと再び手を繋ぎ、にっこり微笑んで「そろそろ始まる頃だ」とヴィンチェンツォは言った。


「うっとおしいからそういうの、僕のいないところでやってよね。それともわざとなの」

 小さい、と嫌味たらしく言うヴィンチェンツォの足を思い切り踏みつけ、ロメオは黙って足を組みなおした。



 東洋風の官能的な調べと共に、美しい舞姫達が腕飾りの鈴を鳴らしながら、舞台の上をすべるように登場する。

 透けるような布を幾重にも重ねたその幻想的な姿に、ビアンカはあっと言う間に魅入っていた。

 ほら、あれ、とヴィンチェンツォが指差す場所には、褐色の肌の美女がいる。

「ヴィオレッタ様…?」

「相変わらず、化けるのが上手いな。今は異国の舞姫だそうだ」

 ヴィンチェンツォが、ちらりと横目でロメオの様子をうかがうと、彼はいつもの天使の笑みを消し去り、険しい顔で腕組みしたまま、アデルから視線を外さなかった。


 音楽は次第に早くなり、ヴィオレッタの動きも激しくなるが、優美さは損なわれていない。

 一瞬、こちらを見たような気がしたが、すぐさまその妖艶な眼差しは遠くに向けられ、彼女の長い手は、妖魔の羽のように何度も不思議な動きでひるがえされた。

 ビアンカは疲れた頭で、華やかな舞姫達の姿を追い続ける。気が付けば、夢のような世界に飲み込まれていた。



***



 一座の公演が終わり、人々が徐々に立ち去って行く中、ビアンカはいつまでもぼうっと椅子に座り続けていた。

「いい気分転換になればよいが。楽しめたかな」

「ええ、とても。ありがとうございました。ヴィオレッタ様も、とても素敵でした」

 ヴィンチェンツォに礼を言い、ビアンカは舞姫達が消えた後も、しばらく舞台を眺めていた。


「スロでの一件もあるし、彼女を食事に誘おうかと思っていたのだが、やっぱりこいつがいるからなあ。どうだろうな」

 ビアンカとは違った意味で、椅子の上で固まっているロメオに、ヴィンチェンツォは何か言いたげな視線を投げかける。

 二人は立ち上がり、舞台裏の天幕へと向かった。

 緩慢な動作でロメオも立ち上がり、金の髪を無造作に振りながら、ゆっくりと二人の後をついて来る。


「しばらくぶりですね。公爵様からご連絡いただいて、驚いたんですよ。二週ほどこちらに滞在しておりましたが、まさか私がここにいるなんて、思いもしなかったのでしょう」

 ヴィオレッタは、ビアンカ達との再会を心から喜んでいるようだった。その笑顔も、二人の後ろで亡霊のように突っ立っているロメオの姿に、たちまち霞のように消え去ってゆく。


「次は、コーラーに向かうんだろう。実は俺も、そうなんだ。また会えるかもしれないな。というか、是非よろしく頼む」

 頭を下げる宰相の言葉を瞬時にとらえ、アデルは「仕方ないですね」と苦笑する。

 ロメオは無言で、アデルを見つめていた。


「礼をしたいと思っているのだが、今日は忙しいかな。一度食事にお誘いしようと思っているのだが」

 ヴィンチェンツォは後ろのロメオを気遣い、連絡くれ、と短く言い残し、ビアンカの手を引いて天幕から外に出る。

 アデルにしてみればその方が都合がよかったが、沈黙しているロメオと二人取り残されてしまい、実は初めからそのつもりだったのでは、と恨めしそうにヴィンチェンツォの背中を見送った。


「元気そうね」

 一言アデルは呟き、何気なく下を向く。

 ロメオは何も言わず、同じように下を向いていた。

 沈黙を破るように、アデルは宵闇に溶け込むような静かな声で言った。

「片付けがあるのよ。今日で終わりだし。悪いけど、もう帰ってくださるかしら」

 アデルは勢いよくむき出しの背中を向け、その場を立ち去ろうとする。その手を素早く掴み、ロメオは小さな声でささやいた。


「待ってるから。終わるまで、待ってる」


 

「あのまま、お二人にしてよろしかったのでしょうか。ヴィオレッタ様が、心配です」

「ロメオは心配じゃないんだ」

「いえ、そうではありませんけど」

 ビアンカは口ごもり、浮かない顔をしたまま、無意識にヴィンチェンツォの腕に自分の手を添えた。

「会いたく、なさそうでした。私はよくわかりませんけど、ヴィオレッタ様が、悲しそうな顔をされていました」


「俺もよく知らん。ロメオは未練たらたらな感じはするが。ああいうロメオを見るのも、正直面白くて、つい余計な事をしてしまった。アディは強いから、どうにかなるんじゃないか」

「お気づきでしたか。閣下は、今日は何度も『どうにかなる』とおっしゃってばかりです。そのような調子で、大丈夫なのでしょうか。行き当たりばったりでは、周りが迷惑しますよ」

 久しぶりに自分を糾弾するビアンカに、ヴィンチェンツォは妙な爽快感を覚える。

 いつものように、奥歯に物が挟まったような物言いをされるより、遥かに快適だった。  


「言いたい事があれば、そのように毎日言えばよいのに。俺は毎日、手当たり次第に言いたい事を言っているから、一向にストレスとやらを感じた事もない。他に何かあるか。言うなら今のうちだ」

 ヴィンチェンツォの迷いのない性格は、そこから来ているのか、とビアンカはようやく気付く。

 自分には出来ない事だ、と思いながら、ビアンカは「そんな事急に言われても、ぽんぽん出てくるわけではありません」と不満そうに言う。


 おもむろに立ち止まり、ヴィンチェンツォは「一勝」と言いながら、ビアンカの顎に手をかけ、素早く唇を重ね合せた。

 王都を行き交う人の流れの中、二人の空間だけがいつまでも時を止めているかのようだった。




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