66の話~猫~
ヴィンチェンツォが早朝に居間へ向かうと、既にビアンカは朝の掃除を済ませ、朝食の支度を終えていた。
露出が多い気もするようなヴィオレッタの服ではなく、似たような体系のメイフェアから借りた、淡い橙色の簡素な服を纏っていた。
「おはようございます」
晴れやかな笑顔を向けるビアンカに、寝癖のついた髪をかすかに揺らし、ヴィンチェンツォもおはよう、と言った。
エミーリオは、外に偵察に出かけてしまった子猫の帰りを待ち、鎧戸から顔を覗かせ通りを眺めている。
「どうだ、捕まえられそうか」
即効で子猫をロッカにつき返す、とヴィンチェンツォは心に決めていた。
「ビアンカ様なら簡単に捕まえられるんですけど、やはりかごに入れようとすると嫌がって逃げてしまいました」
うーん、とヴィンチェンツォは唸り、食卓につく。
「出かける直前まで油断させて、一気に捕まえるしかないな。もっとも既に警戒されて近寄ってこないかもしれんが」
いいからお前も食べなさい、とヴィンチェンツォがエミーリオに声をかけた。
お茶を淹れるビアンカに、エミーリオは礼を言い、自分も食事を始める。
「そういえば、クライシュ先生はどうした。聖都に向かうように伝えたのだが、もう出立されたのか」
「ええ、急にお休みになられたので、びっくりしました。先生の授業は、最近人気があるようで、みんながっかりしてましたよ」
聖都での不穏な動きは、王都プレイシアにも伝わってきている。こんな子どもでも、世の情勢には敏感なのか、と素朴にヴィンチェンツォは感心していた。
だが、あまり長く不在にさせるわけにもいかないな、とヴィンチェンツォは考えていた。
食事が終わっても、猫はまだ戻ってきていなかった。
「まさか迷子じゃないだろうな」
「いいえ、すっかりなじんで我が物顔で外を歩いてますよ。三階の屋根から出入りしたりもしてます」
エミーリオは剣の稽古に出ると言って、いつもよりも早くアカデミアへ向かった。気を遣われているのだろうか、とヴィンチェンツォは不安になる。
一緒にいたいのはやまやまではあるが、目を通したい事だらけだった。
そこへ猫が朝の散歩から戻ってきて、窓辺から甘える声を出し部屋に入ってくる。
「実によいところで戻ってきた。申し訳ないが、捕まえてくれるか」
はい、とビアンカはうなずき、すり寄ってきた子猫をいとも簡単に抱きかかえる。
かごを見せたら逃げてしまいそうだったので、ヴィンチェンツォはどうしようか、とビアンカの腕の中の子猫を眺めていた。
そのまま二人は不自然な動きで、床に置かれたかごのそばへ移動する。後ろ手でふたを開け、ヴィンチェンツォは自分の体でかごを隠しながらビアンカを手招きした。
床に膝をついたまま、二人は無言だった。
ビアンカに喉を撫でられ、猫はご機嫌のようである。
ふとしたのどかな雰囲気に釣られ、じゃあ行ってくるから、と言いかけながら、ヴィンチェンツォがビアンカの肩に優しく手をかけ、微笑みながら顔を近づける。
恥らうビアンカの姿が可愛すぎる、と思ったのもつかの間頬に鋭い痛みが走り、ヴィンチェンツォは思わず後ろにのけぞった。
頬をに手をやると、うっすらと血が付着する。
子猫がフーという唸り声を上げて、ヴィンチェンツォを睨んでいる。
ヴィンチェンツォの頭の中で、何かが弾けた。
猫を負けじと睨み返し、強引にかごに入れようとするが、いっそう暴れて手にも爪を立てられる。
ビアンカの呼び声にも反応することなく、猫は興奮した様子で再び外へ逃走した。
「子猫の分際で、何様のつもりだ」
荒い息を吐きながら、逃げる猫に向かって毒づくヴィンチェンツォであった。
結局猫の捕獲に失敗し、ヴィンチェンツォは実に苦りきった顔をしていた。
絶対にロッカに直接引き取りに来させる、とヴィンチェンツォは言い捨てる。
余計な事をせずに、さっさとかごに入れるべきであった、と後悔するヴィンチェンツォであった。
そうはいっても、ようやく邪魔者が消えた、とヴィンチェンツォは喜んでいたが、とりあえず顔には出さないようにした。
困ったように微笑むビアンカに、ヴィンチェンツォは一筋の傷のついた頬を寄せ、今度こそ行ってくる、なるべく早く帰るから、と告げるとその麗しい唇にようやく触れることができた。
早く行かねばと思いつつも、その甘い喜びから、しばし逃れられそうになかった。
***
ヴィンチェンツォが執務室の扉を開けると、既にロッカが仕事中であった。鎌首をもたげ、ロッカは血の気のない顔でヴィンチェンツォを見つめる。
「早いな」
ヴィンチェンツォは、数日留守にしたことを詫びようと思ったが、人形のように表情を崩さないロッカに、自分も沈黙する。
「早いも何も、帰ってませんから。帰りたくとも帰れませんでしたから」
皆が恐れおののいていたのもわかる気がする、とヴィンチェンツォは目が半開きになっているロッカを見て思った。
「すまなかった。もう帰っていいぞ。あとは俺がやるから」
当然です、とロッカは憮然として呟き、本当に帰り支度を始める。
寝たら機嫌が直るのだろうか、とヴィンチェンツォは取り繕うように、ロッカに向かってかすかに笑みを浮かべた。
何も言わずにじろりとこちらを見る顔は、全く笑っていない。
ロッカが去って、しばらくしてから、ヴィンチェンツォは大事な話をしていないことに気が付いた。
でもあの様子では猫の話などしたら、俺が殺されていたかもしれない、と本気で思うヴィンチェンツォだった。
ただでさえ仕事が多いというのに、一人で処理など無理に決まっている、と今更のようにロッカは思い、北の庭園でとうとう行き倒れる。
もうここでいい、とロッカは寝ることにした。
上着を顔に乗せ、東屋の屋根の下で死んだように転がっているロッカを、庭の手入れに来ていたモニカが見つけた。
こんなところに死体が、とモニカは驚く。
北の庭園というと物騒なことを連想してしまうのも仕方がなかったが、おそるおそるモニカは、その誰だかわからない人物に近づき、ゆっくりと上着をめくってみた。
ロッカが、文字通り死んだように眠っていた。寝息すら立てないロッカに焦りを感じ、息をしてらっしゃるのだろうか、と呼吸を確かめる。
胸は上下に動いているので、生きているとわかり、モニカはほっとする。
どうやらお疲れのようだわ、とモニカは上着をそっと戻しかけるが、そこで突然目を開いたロッカと目が合ってしまった。
焦点の定まらぬ目でぼんやりと自分を見ているロッカに、モニカは思わず、すみません、と謝る。
突然頭を強い力で引き寄せられ、モニカはロッカの胸元に倒れこんでしまった。
驚いて硬直している自分の髪を、ひたすら撫でているロッカに、モニカは何が起こったのかしら、と胸の上に頭を乗せたまま、されるがままになっている。
突然、重い、とロッカが呟き、ゆっくりと身を起こす。
慌てて顔を上げたモニカと再び目が合い、二人は無言になる。
先に口火を切ったのはロッカだった。
「猫だと思ったら、違った。そういえば、うちには金色の猫はいないし……」
いつものロッカとも、少し様子が違うようだった。
もし魂が見えるのだとしたら、きっとロッカ様の口から、魂が今にも抜け出そうとしているのが見えそうだ、とモニカは思った。
すっかり面食らってしまい、モニカはそうですか、としか言えなかった。
再び横になり、ロッカは「寝ます」と言って唐突に目を閉じた。
変わった方だ、とモニカは不思議そうに、ロッカの少しだけ穏やかになった寝顔を眺めていた。
***
それから数日、ヴィンチェンツォは度重なる会議で忙しい毎日を過ごしていた。そのせいで、エドアルドとも個人的な会話をする暇もなく、ヴィンチェンツォは説明するきっかけを掴めずにいた。
一見それなりに平和そうな日々であったが、何故か日増しに手や顔に傷が増える宰相閣下の姿に、人々は笑いをこらえていた。
猫はいまだに、ヴィンチェンツォの家に滞在している。
一度ロッカが引き取りに来たが、ヴィンチェンツォに歯をむき出しつつ、騎士のようにビアンカにまとわりつく子猫の姿に、何事か考え込んでいた。
「この子はおそらく、ビアンカ殿限定でしか使えないかもしれません」
「ただの馬鹿猫じゃないか」
今日できたばかりのおでこの傷を撫で、ヴィンチェンツォは恨めしそうに言う。
「既にこの家での実力者が誰であるのか、猫にはわかっているのだと思います」
「なんで俺じゃないんだ」
「猫より後にあらわれたヴィンスは、彼の中ではヒエラルキーの下部に位置するのではないでしょうか。おそらく、自分の方が偉いと思っているはずです」
そんな馬鹿な、とヴィンチェンツォは、餌箱に顔を突っ込んでいる子猫を見た。
「ビアンカだって、後から来た新参者だぞ」
「そこは、彼の個人的主観が働いているのです。なんといっても、オスですし」
ロッカがきっぱりと言うと、ヴィンチェンツォは全身から悲哀を滲ませた。
ビアンカは猫の隣にしゃがみ込み、嬉しそうに子猫の食事風景を眺めていた。
「何より、猫がそこまでビアンカ殿に執着するとは、自分にも予想がつきませんでした。素晴らしいとしか言いようがありません。りっぱな騎士ではありませんか」
親馬鹿か、とヴィンチェンツォは思った。
「執着するのは勝手だが、もう少し賢い振る舞いはできないのか。完全にしつけが失敗してるぞ。鷹と連携などほど遠い」
「ですが、ビアンカ殿の言う事は素直に聞くのですから、それでいいのでは」
よくない、とヴィンチェンツォは言い捨てた。
食事の終わった子猫は、いつものように毛づくろいを始めていた。
ではよろしくお願いします、と勝手に結論付けて帰ろうとするロッカをヴィンチェンツォが慌てて引き止める。
「俺はいやだ。あの猫とは気が合わないんだ。どうせならもっと大人しい猫がいい」
「大人しかったら、普通の猫ですよ。それでは、いる意味がありません」
「この猫だって全然意味がないぞ。迷惑かけてるだけじゃないか」
ビアンカの胸に抱かれた猫を見て、ロッカは少し考えていた。
「どのように育つか、自分にも正直わからないのです。ですがこれだけ気の強い子であれば、ビアンカ殿を立派に守るのでは。現にあなたは毎日傷だらけのようですし。もう少し様子を見たいのですが、構いませんか」
冗談じゃない、とロッカに文句を言おうとするヴィンチェンツォの声に、ビアンカの柔らかい声が被さった。
「ええ、とてもいい子ですよ。閣下が恐いお顔をなさるから、猫も怯えているんだと思うんです」
ビアンカに言われた言葉は、ヴィンチェンツォの心を鋭くえぐった。
皆知っているのだろうか。この家の家主は自分だということに。
ヴィンチェンツォは暗い気持ちになりながら、ビアンカの腕の中であくびをする猫の姿を呆然と眺めていた。




