第四十九話 国境ステュクス川
カーンとヴァシュヌを仕切っている国境がようやく見えてきた時だった。
ルビーのか細くも悲痛な絶叫が寝台馬車から聞こえてきたのは。
国へ戻ろうとしていた二台の馬車を護衛していたカイムとフラウロスが驚いて止まり、慌てて寝台馬車へ向かおうと思った彼等に対し、騎乗している愛馬から素早く降り真っ先に駆けつけて行ったのは誰あろうフレデリックだった。
女性、しかも皇女が休んでいる馬車に男が乗り込むなど言語道断である。だがそんな彼をカイムもフラウロスも止めることはせず、ただ黙って成り行きを見つめているだけ。
グレイプニルは寝台馬車とは別の馬車に乗り込んでいた為、一足遅れで妹の元へ行くのが遅れてしまった。その為、震えて動転している妹をさも大事そうに撫でているフレデリックを目にしたのだ。幼い頃から刷り込まれたフレッド効果なのか、泣き喚いていたルビーは見るまに大人しくなり、彼の手を握っている。
血まみれの、骸をいくつも築いてきたその手を。
目の前の光景を忌々しく思うと同時に、ルビーを犠牲にする事で秩序が保たれる事を思えばそれも致し方なしとの考えを再確認する。
次期王になる決意として、捨ててきた情はアビゲイルの命だけで十分だ。
ルビーを大事に思っているフレデリックなら、ルビーの命を簡単には考えないだろう。それこそヴァシュヌ王と同様…いや、それ以上に考えている節がある。それを思えば、フレデリックにルビーを託すことは間違っていない。
色々と考え込みながらルビーとフレデリックの『感動の再会』を見ていると、寝台馬車に控えていたアスクレピオスが怪訝そうにグレイプニルに声をかけていた。
「グレイプニル殿下?いかがなされました?」
「あ、ああ…何でもないよ、アスクレピオス…さあ、もうすぐ国境のステュクス川だ。これでルビーをヴァシュヌで治療出来るよ。城に帰れば侍医ら総出で治療にあたらせないとな」
「そのことですが、殿下……王都へ戻る前に少し、お話が…」
厳しい顔をしたアスクレピオスの表情を見れば、長年の付き合いのあるグレイプニルは彼女が言いたいことが良くないことであろうと大体の察しはつく。とりあえず眠ってしまったルビーがフレデリックの手を握ったまま離そうとしないので、彼をそのまま寝台馬車に乗せておくことにした。
万が一、妹に妙な気を起こそうものなら許さないと言おうとしたのだが、ルビーの事だけを考えているような男だ。ルビーの身体を慮って何もしないだろう。一応釘をさしておいたが、フレデリックは一向に気にした風でないのが癪に障る。
これでも自分は次期国王なのだが。
親友のそんな態度にイライラしながらも自ら乗っていた馬車に戻り、アスクレピオスに向かいの席へ座るように促す。外からカイムが「では出発します」との声がかかると、ゆっくりと馬車が動き出した。
景色がゆったりとヴァシュヌ特有のものへと変わって行く中、グレイプニルが口を開いた。
「で…?君が言いたい事はルビーの事か、それともフレッドの事か?」
「両方…ですわね。しかし今は総隊長の事は後回しにさせていただきます。憂慮すべき事象はルビー様ですもの」
「………ルビーだね…治るのかい?」
「…元々身体が丈夫ではないルビー様があれだけの劣悪な環境に置かれていた。あれだけの高熱を帯びていらっしゃるのは怪我が一番の要因ですが、それだけではありません。それにあれだけの暴行……不遜な言い方をすれば、あの王宮で亡くなっていてもおかしく無かったと言えますわ。総隊長が割って入ったのが間一髪と言ったところ。それに暴行だけではなく強姦まで…正に寸でのところだったらしいですわね…ですが、傷が残るでしょう。あれだけ集団で暴行されたのです、命があっただけでも…と思っていただくしかありません」
「アビゲイルらしいと言っちゃ、アビゲイルらしい。顔は綺麗なままだからな。王宮でも飼い殺しか……」
「………」
そっと視線を落としたアスクレピオスは、後方を走る寝台馬車に横たわっている皇女の傷を鮮明に思い出せる。
背中、腰、腕、腹、足。
自身が侍医長を勤めていたころよりも格段に細くなっており、病的なまでの身体の白さに反比例するように、使いこまれ荒れた手や指。あの当時よりは大人びた顔が血の気の失せたように真っ白に青ざめている。
それなのに、異常なほどに熱い身体。打たれ、焼かれ、刺されたであろう箇所からは血がしとどに流れ、腫れ上がっていた。
そのことに愕然とした。
アスクレピオスが今まで診て来た患者にはこれよりももっと酷い者も多数いたのは間違いない。しかし、これほどまでに怒りを感じたのは初めてだ。
アスクレピオスはラファエル・ファルコンと名乗っていた当時、王家への服従と単純に幼い彼女に庇護欲めいたものを感じていた事もあり、自然ルビー皇女を一際大事に思っていた。当然身体が弱いこともあり、頻繁に呼び出される回数が多かったこともある。
グレイプニルとは年があまり離れていない事もあって、体調を崩し難くなった成人になってからの診察がほとんどだったし、アビゲイルはアビゲイルでルビーとは違い幼いころから身体が丈夫だった。健康面での不安がなくとも精神面での健康はいくらでも問題があったのだが、いくら侍医長と言えど王家の親子関係に口を挟む事は出来ない。仕方が無いので側妃であるバンシーに言ってみても、彼女は自分の不平不満を言うばかりで一向に埒が開かなかった。
結果、精神面で愛情の欠如を抱えたまま大人になったアビゲイルは、愛情を多分に受けていたルビーを恨むようになり、今回のようなことを引き起こしたのだ。
王家へ対する服従と信頼は、曽祖父の代から伝え続く『ファルコン家の掟』であると同時に、曽祖父自身の呪いでもある。
その呪いを顕著に発現したのは弟のフレデリックだ。弟のルビーに対する執着を見る限り、誰にも止める事はできないだろう。それが例えグレイプニルだろうが、ポイニクス王であろうが。
だが、ラファエルもその呪いをどうやら受け取っていたらしい。
ルビーの身体を見た瞬間沸騰したこのぶつけようのない怒りは、そのままファルコン家の凶暴性に直結する。
弟は流石に姉の僅かな心象の変化を機敏に察したらしい。すかさず提示していた数を渋ったものの、最終的には折り合いを付けてくれた。
何の数かを聞かないところをみると、彼は予想をつけているのだ。
そしてその予想は間違っていない。
「アスクレピオス?」
「え、ええ…すみません…少し、ぼうっとしてしまって」
「いや、構わない。君がいてくれてよかったよ。あのままではルビーが危なかったからね」
「勿体無いお言葉ですわ。ああ、総隊長のことは今度また。弟としてみれば可愛げがない子ですが、総隊長ともなれば、多少は扱いやすくなりますわね」
「ふっ…どこがだい。あんなのが義弟になるのかと思うと、胃が痛い……っと、見えてきたね。ステュクス川だ」
「あれを越えればヴァシュヌですわね」
「ああ。やっと、ルビーが帰って来たよ。アビゲイルの事は今でも正直惜しいと思うが、彼女が自分で選んだ道だ。それを擁護するだけの優しさは私にはない。ただ、惜しむらくは……王も…父上やバンシー殿がアビゲイルに愛情を持って接していただけていたら、もしかしたら…と思う。……ふっ、今更だけどね」
「…左様ですか」
その日、グレイプニルとルビー、フレデリックとアスクレピオス、カイムとフラウロス一向はカーン王国とヴァシュヌ王国との分かれ目であるステュクス川を越え、ヴァシュヌへの帰還をひっそりと果たした。
コラーダとティソーン、スルトは別行動しています。詳しくは次回以降。




