第四十八話 雛
ヤンデレ警報発令!ご注意。
混乱している頭の中でも、鮮明に記憶されているのはあの時の事。
身体中が痛いと悲鳴をあげ、泣き叫んで助けを乞うても、『彼等』は嘲笑し面白そうに見るだけ。そればかりか、自分が泣き叫べば泣き叫ぶほど『彼等』は歓喜し、直も自分を打つ手を止めてはくれない。
姉の怨嗟の笑い声と、憎しみを浮かべたあの美麗な顔。
大好きだと、そう言っていたのは誰だったか。
貴女は私の大事な大事な妹だものと、優しく抱き締めてくれた人は誰だった?
あの柔らかい手で自分を撫でてくれた昔を思い出すのは罪なのか。
同時に。
あの柔らかい手で自分を打った記憶は、現実?
痛む身体
痛む心
自分の声には誰も耳も貸さない。
その残酷なまでの、美しい現実。
「あ、ああああ……いや、いや……も、やめ……」
誰も助けてくれない。
被虐に痛む身体が防衛本能から意識を失わせようとしているのにも関わらず、容赦無く淵から意識を取り戻される。
そうなると最早絶望などと言う言葉では表しきれず、助けを乞う声すらも枯れ果てた今、虚ろな目が映し出すのは深淵でしかなく。
死に逝く身体
絶望に沈む心
それでも最後に必死に守りたかった、己の身体の最後の砦。
『彼』以外の誰か手に汚されるくらいなら神の教えに背こうと、死んだ方がマシだと思った。
だがその死への渇望も、死神が間近で手を差し伸べているのが見えたのに、その手を取るのはどうしても怖くて。
神がいるのか、いないのか。
いつも幼く、何もわからなかった頃の自分を助けてくれていたのは祈りを捧げていた神ではなく、いつも『彼』だった。
思い出されたのは、彼が持つ唯一の色。
自分は何色よりも黒が好きだった。
ヴァシュヌ皇女として、生まれ持ってから持つ色が決められていて。自分の色は水色だったのだけど、昔はその色ではなく黒がいいと駄々をこねて両親をよく困らせていた。
何故、と言われれば、『彼』とお揃いだからと。
漆黒に輝く髪。
黒曜石のような瞳。
大好きなはずの色は、いつの間にか自分に冷たく忍び寄ってきていたらしい。犯される、まさにその寸前に、目の前が大好きな色で覆い尽くされた。
ああ、もうこれで終わりかと悲しみの涙を流したのだが、その涙は黒に吸収されてしまった。
私はこの色を覚えている。
忘れるはずがない。
「ルビー様」
自分を呼ぶ優しい声
暖かな手
愛おしい黒
擦り切れ、自我を失いかけた自分を呼ぶ声がする。
「ルビー様」
「……れっ、ど……」
名前を呼びたいのに、呼べないもどかしさ。そんな鬱屈した感情を抱くのは、ここ最近ではなかった。何故なら、そんな感情すらもとうの昔に放棄していたのだから。
「ルビー様…お身体が苦しいのですか?」
手を、気力を振り絞ってなんとか動かした手を、声のした方に動かす。
消えてしまわないかと、もしかして死に際に死神が見せてくれた幻影なのではないかと思って。
だが、その懸念はあっさりと払拭される。
握り返された強さは思いのほか、痛いと思えるほどだった。でも、その痛さが今では安心出来る。
「ここにおります、ルビー様。もう、ご心配なされる事はありません。どうぞ御安心なさいませ」
「ふ…ふれ………」
「はい」
「…フレッド……側に、いて…?」
「お側におります。ですから、今はお眠りになってください。少しでもお身体を休めませんと」
「フレッド………貴方に、会いたかったの。ずっと…」
いつの間にかうつ伏せの状態から仰向けに寝かせられていたルビーだったが、本人はそれを気付いていないようだった。
彼女は隣の男の手をしっかりと握ると、涙を一筋流しながらまた眠りについた。
だから彼女が聞く事はなかった。
ルビーが眠りに落ちる寸前、黒の男がルビーの涙を指で拭ってそれを舌で舐めた後、寸分違わぬ美しさの口許を歪めながら彼女の耳元で囁いた言葉を。
『ええ。俺もですよ。俺の、愛しいルビー』




