第四十一話 狂愛
切り取った舌を事も無げに部屋の隅に捨てたフレデリックは、事切れたガープを醒めたでただじっと見下ろしていた。
すると、自分の手に目線を移したと思いきや徐に、置いてあった水差しから盥に中身を移し始めた。それを不審に思ったアールマティが声をかける。
「…フレデリック…?何をしているの…」
「血がね。不浄の血で穢れた手でルビー様にお触れするわけには参りませんから」
そう答えたフレデリックが盥に注がれた水の中に手を浸すと、ふわりと紅い色が浮かぶ。
それを見ていたミネルバが眉を顰めた。
「お主はほんに、あの姫しか考えておらんな」
「…」
フレデリックは、ミネルバの言葉にふっと笑んだだけで、何も言わないまま手を禊ぎ続ける。
「自分を手に入れるためにどれだけの人間が犠牲になったか。それをルビー皇女が知れば、あの優しき姫は必ずや心を傷めるぞ」
「……」
「血の繋がった姉だけではなく、一国の民の命すらも虫けらのように容赦なく切り捨てる。それをあの姫が許すと思ってか」
「………」
「フレデリック、お主はちゃんと姫に思いを伝えたのか。本来ならばルビー姫が降嫁する際、お主のような家柄と立場の男なら容易に手に入れられよう。彼女もお主の事を憎からず思っているようだしな。それを、何故このような追い詰めるようなやり方を選んだのだ」
厳しい声になったのは仕方の無い事だと、ミネルバ自身もわかっている。
そう、この男が一人の女を手に入れるためだけに仕組まれた今回の騒動。
それが、カーン王国の腐敗と衰退、そして民の蜂起の一因の全ての原因。
ただ、フレデリック・ファルコンと言う一人の男が、ルビー皇女を手に入れるため、だけに。
ミネルバは、キリリと握ったこぶしに力が入って手を洗っている男を睨み付けるが、相も変わらず男は手を洗うことに専念しているらしく、入念に、丹念に洗っている。
既に水は紅く濁っていて、血塗られた手からはその、所謂『穢れ』が洗い落とされているらしい。
するとフレデリックが、ようやく水からちゃぷ…と手を引きあげ、ポタポタと滴り落ちる雫の音だけが部屋に響く中、その丹精な顔をクッと嘲笑に歪ませた。
「温いな」
感情の感じられない、低い声。
嘲笑に彩られた声音は恐ろしく、秀麗な顔は一寸の狂いもなく美しく、それがかえって恐ろしい。
濡れた手をタオルで拭いながら、くつくつと愉しそうに笑うフレデリックは、周囲の張り詰めた空気におどけた様にぐるりと目を回した。
「貴女様の言う通り、そう。ルビー様を手に入れる事など簡単に出来ましたよ」
「っ!!ならば…っ!」
「しかし、それではルビー様が俺だけを見ないでしょう?」
「なっ……」
「確かに。ファルコン家の嫡男であり、王家親衛隊総隊長の今の俺の立場からすれば、皇女であろうとも娶ることは可能です。だが、それでは容易すぎる。それではルビー様のお気持ちは、漠然として結局は明確にならなかったはず。あのお方の側にいてもいいのは、俺だけ。そう、彼女は俺しか見なくて良い。俺が望むのは、単純にその一点」
遠くで大きな音が聞こえている。
もしかしたら、城に反乱軍の一部がなだれ込んで来たのかもしれない。
既に時はそう残されていない。
「今回の事でお気持ちに気付かれたと思います。しかし、まだ…。とは言え、今直面している御自らの危機に際し、誰を思い浮かべ、そして誰の名前を呼ぶか。その答えは…」
「…解りきっているという事か……」
言葉を引き次いだシャリヴァーに、にこりと笑んでみせたフレデリック。
その笑みは、やはり思わず同性である彼ですら見惚れるようなものだったが、底冷えのするような恐ろしさは消えない。
ルビーをこうした災難に巻きこませ、そして自身への思いを明らかにさせる。
百歩譲ってそこまでは理解出来よう。
しかし、それに巻きこまれた全くの無関係なはずの自国の民は一体どうなるのか。
シャリヴァーに、理不尽な怒りが湧きあがった。
ミネルバの言う通り、この男が取った方法は明らかに間違っているし、狂っている。
もしもルビーが他の男のものになっていたら、どうしたと言うのだろう。
考えなくてもわかる。
この男なら、男をなんらかの形で失脚させ、そして嘆くルビーに一切の事実を伝えずに、自らの胸の中に彼女を仕舞いこむのだろう。
そしてどこにも行かないように、羽根を捥ぎ取り、目を塞ぎ、がんじがらめにしてしまうのだ。
なんということであろうか。
彼女は知らず、恐ろしい男に目を付けられている。
ルビー皇女の未来は、全く明るくない。
むしろ、この男が纏っている色の如く、黒一色であろう。
そこに光は、一筋も射さない。
物足りない感じがしないでも無いので、もしかしたら修正もあります。




