第三十九話 降臨
血なまぐさい表現がありますので、苦手な方は回避してください。
狭い反省室内の一角は、男の登場によって一瞬にして空気が変わった。
その場にいた誰しもがそれを感じ取ったが、その発進元である黒の男は周りの様子を一切気にした様子は無い。むしろ、一切我関せずと言った雰囲気さえ漂わせながら、ただ一人の女を抱き締めていた。
イシュタルは、まさか今まで話の中に上がっていた彼がこんな場所にいるとは俄かには信じられなかった。しかし、それでも少なからず彼女のみならず、一度でも彼を見た事があった側妃達が憧れた人物だ。記憶の中にあるのと寸分違わぬその美しさに恍惚とした気分になる。
黒を全身に纏いし、麗しい男。
今は伏せられているけれど、あの瞳は見るものを魅了してやまない黒曜石のようで。
そして、さらりと流れた髪は夜の闇のように漆黒だが、柔らかそうな感触していそうだ。
そしてなにより、あの笑顔。
誰しもがあの笑顔の為なら、いかなる事をしてもいいとさえ錯覚してしまう。
食い入るように黒の男に見入っていたが、腕に抱かれた小汚い小娘が目に入るや、その気分も降下してしまった。
何故あんな娘を抱き締めているのだろう。
抱き締めて欲しいのは私なのに。
あの方に相応しいのは、もっと美しい女でなければならない。
そう、私の様に。
そう思うと、直の事ルビーに対しての怒りが湧いてくる。こうなるとアビゲイルの言っていた事など都合よく忘れてしまいたいと思ったところで、ようやく彼の後ろにいた人物達を見やる余裕が出来た。
そこに呆然と立っていたのは、憎い皇太后とその息子。そして、口うるさい王の生母だ。
眉を顰めたものの、すぐにそれを取り繕った。
なぜなら、彼等は明日には処刑されるはずで、部屋から出るなと王から厳命されているはずなのだ。まさかのうのうと歩き回っているだなんてありえない。しかしながら、こうして後宮内の、しかも反省室にまでいるのだから、これはもうどう見ても脱走としか考えられない。
にやりと口角を上げたイシュタルは、ルビーを抑えていたために腰を下ろしていたのを立ち上がろうとし、それが叶わないことに違和感を覚えた。
それをおかしいと思ったのは一瞬で、すぐに気を取り直して側に手をついて立ち上がろうとした。
だが、何度やっても立ち上がれない。訝しげに思ったイシュタルは、ふと自分の腕を見た。
「…え…?」
ない。
今までそこにあったはずの
自分の腕が
ない。
「いっ…いやっ、いやぁぁぁあぁああぁぁっっ!!!!!!!!!う、うでが、私の腕がぁぁぁああ!!!!!」
右腕は肘下から。左腕は肩から下が無くなっているのを見たイシュタルは狂ったように叫ぶ。彼女が異変に気付いた時には血が大量に噴出していて、突然の光景にはっと我に気付いたイシュタルの侍女は、主に駆け寄ろうとして何かに躓いてバランスを崩してしまったが、何とか転ぶ事は耐えた。
一体何を踏んだのかとソレを見ると、それは一対の腕。
つい先程まで自分の主に付いていた、美しいと評された腕だった。
今や、ダランと壊れた人形の欠片のようになってしまったソレは、夥しいほどの鮮血の海の中に沈んでいる。
「き…きゃぁぁああぁああっ!!!!!」
イシュタルの侍女があげた悲鳴とはまた別の場所で、違う側妃が悲鳴を上げた。
「きゃぁああああああ!!!!!いや、いやぁぁああっ!!!!」
それはルビーを襲おうとしていた下男。今は首と胴体が切り離されて、ゴロンと転がっている首の両目には細い剣が刺さり、口からは大振りの剣を生やしている。胴体からは炎が上がり、既に肉の焼けるなんとも形容し難い臭いが辺りには充満していた。
あまりの光景に側妃だけではなく、侍女すらも吐き気を覚え、中には吐瀉物を死体に向かって吐いている者もいた。
そんな凄惨な光景に毛ほどの感情も動かさない、黒の男…フレデリックは、殊更ルビーの身体を抱きしめた。
あたかも目の前の光景と、悲鳴が彼女の記憶に留まる事がないように。
タイトルはこれしか浮かびませんでした。




